残響調律師
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残響調律師

第一章 色彩のない街

俺、湊(ミナト)の目には、この世界が少しだけ違って見えている。人々が『失くしたもの』が遺す、微かな痕跡を感じ取れるのだ。それは古いベンチに染み付いた、恋人たちの語らいの温もりであったり、取り壊された建物の跡地に揺らめく、かつての家族の笑い声の微振動であったりする。他者には見えないそれらの残響は、俺にとっては確かな実感を伴う色彩や熱として、そこに在り続けていた。

だから、あの現象が起きた時、世界から色がごっそりと抜け落ちたように感じたのは、きっと俺だけだったのだろう。

『空白の三年』。

世界中の人々が、特定の三年間の記憶と、それに関するあらゆる記録を、ある朝忽然と失った。三年前から六年前までの、千と九十五日。歴史はその部分だけを綺麗にくり抜かれ、まるで初めから存在しなかったかのように、滑らかに前後が繋ぎ合わされていた。誰も何も疑問に思わない。家族構成が変わっていようと、住む街の形が変わっていようと、人々はそれを当然のこととして受け入れていた。世界そのものが、巧みな編集を受けた物語のようだった。

だが、俺にはわかった。街の至る所に、巨大な『喪失』が口を開けているのが。かつて広場にあったはずの噴水の残響は、今は冷たいコンクリートの虚無に置き換わり、人々の思い出が放っていた琥珀色の光は、深淵のような藍色に沈んでいる。世界は静かになった。あまりにも静かで、不気味なくらいに穏やかだった。

特に、街の中心部にぽっかりと空いた広大な更地は、異様だった。そこだけが、まるで時が止まったかのように、あらゆる残響が死滅していたのだ。ただ、その虚無の中心から、日に日に増大していく奇妙なエネルギーを感じ取っていた。それは熱くも冷たくもない、ただひたすらに世界を侵食していく、無機質な灰色の波動。このままでは、世界そのものがこの『無』に飲み込まれてしまう。そんな肌を刺すような予感が、俺の胸を締め付けていた。

この異変の謎を追ううちに、一人の男の名に行き着いた。榊(サカキ)教授。時間の構造を研究していた歴史学者で、『空白の三年』が発生した日を境に、忽然と姿を消した唯一の人物。彼なら、何かを知っていたはずだ。俺は微かな手がかりを頼りに、街外れに残された彼の古い研究室の扉を叩いた。

第二章 舞い上がる時の砂

榊教授の研究室は、埃と静寂に満ちていた。主を失った書物が壁一面に並んでいるが、奇妙なことに、そのどれもが『空白の三年』に関する記述だけ、白紙になっている。まるで、誰かが丁寧に消し去ったかのようだ。

「ここもか…」

俺はため息をつき、部屋の中をゆっくりと歩いた。俺の能力が、この部屋に残された教授の痕跡を拾い上げていく。インクの染みからは、真実を追い求める焦燥の熱が。革張りの椅子には、長年の思索が刻んだ疲労の重みが。そして、床に落ちた一枚のメモ用紙の残響に触れた瞬間、脳裏に鋭いイメージが流れ込んできた。

──砂時計だ。奇妙な形の、砂時計。

導かれるように視線を書斎机の上に移すと、それはそこにあった。黒檀の枠に支えられたガラスの球体。しかし、それは俺の知る砂時計とは逆だった。下の球体に溜まった銀色の粒子が、重力に逆らうように、一本の細い光の糸となって、ゆっくりと上へと舞い上がっている。まるで、失われた過去が未来へと昇っていくかのように。

俺はそっとそれに触れた。ひんやりとしたガラスの感触。そして、心の奥で、あの更地に渦巻く『無』の正体を知りたい、と強く願った。

その瞬間だった。

砂時計の中を昇っていた銀色の粒子が、ピタリと動きを止める。そして次の瞬間、まるで時が逆流を始めたかのように、凄まじい勢いで下へと降り注ぎ始めたのだ。ガラスの内部が眩い光に満たされ、光は部屋中に溢れ出し、目の前の空間をスクリーンに変えた。

映し出されたのは、失われたはずの光景だった。

活気に満ちた街。笑顔で歩く人々。そして、あの更地には、天を衝くほどの巨大な白亜の塔がそびえ立っていた。塔の表面には、複雑な幾何学模様が青い光を放ちながら明滅している。それは、俺が今まで感じたことのない、強大で、そしてどこか物悲しいエネルギーの残響を放っていた。

映像は断片的だった。しかし、はっきりとわかった。あの『空白の三年』に、人類は何か途方もないものを創り出し、そして、それを失ったのだ。

第三章 未来からの調律師

それから毎晩、俺は砂時計に触れた。『空白の三年』を、失われた世界を、もっと知りたいと願いながら。映し出される映像は少しずつ鮮明になり、物語の輪郭を帯びていった。白亜の塔は『クロノス・タワー』と呼ばれ、時空エネルギーを制御する画期的な施設だったこと。榊教授がその研究の中心人物だったこと。そして、タワーが完成した祝賀式典の日、世界が celebratory な光に包まれたこと。

だが、映像がその核心に触れようとするたび、激しいノイズが走り、砂時計は沈黙してしまう。まるで、世界の理がそれを視ることを拒んでいるかのように。

ある嵐の夜。俺がいつものように砂時計を覗き込んでいると、これまでとは比較にならないほどの強い光が放たれた。俺は思わず目を閉じる。光が収まり、恐る恐る目を開けると、研究室の真ん中に、光の粒子でできた一人の女性が立っていた。半透明の身体は、どこかこの世の者とは思えない雰囲気をまとっている。

「あなたが、残響を感じる者ですね」

凛とした、しかし感情の読めない声だった。

「誰だ?」

「私は『調律師』。あなたたちが未来と呼ぶ時間から、この世界を観測し、修正する者です」

彼女は淡々と語り始めた。その言葉は、俺の想像を遥かに超えるものだった。

『クロノス・タワー』は、確かに人類の偉大な発明だった。しかし、その制御しきれないエネルギーは時空に微細な亀裂を生み、数十年後の未来に、世界そのものを崩壊させる『時震』という名の破滅的な災害を引き起こすことが確定した。

未来の人類は、自らが滅びる未来を回避するため、最後の望みを託して時間改変技術を過去へと送り込んだ。それが、『クロノス・タワー』とその技術、そしてそれに関わった人々の記憶と記録、その全てを歴史から抹消する計画。それが『空白の三年』の正体だった。

「榊教授は、その改変に気づいてしまった。彼は時の流れに抗おうとし、結果として、改変の際に生まれた時空間の歪みに囚われ、存在が希薄化してしまったのです」

「俺が感じていた、あの灰色の波動は…」

「ええ。榊教授と、彼が守ろうとした『真実』が、この世界から漏れ出している悲鳴です。それは、安定したこの時間軸を蝕む毒でもある」

調律師は、静かに俺を見据えた。その瞳には、憐憫も、非難もなかった。

「選択の時です、湊。このまま真実から目を逸らし、私たちが調律した、破滅を回避した未来(Aルート)を受け入れるか。あるいは、その砂時計の力で『空白の三年』を世界に再構築し、榊教授と失われた過去を救い出すか(Bルート)。ですが、後者を選べば、時震による破滅の未来もまた、この世界に再来することになります」

世界の存続か、失われた真実か。究極の選択が、重く俺の肩にのしかかった。

第四章 心だけの帰還

数日間、俺は答えを出せずにいた。街を歩けば、人々は穏やかな顔で日常を生きている。彼らは、自分たちが大きな犠牲の上に成り立つ、偽りの平和を享受していることなど知りもしない。この幸福を、俺一人のエゴで奪ってしまっていいのだろうか。

しかし、同時に思うのだ。失われたものを、なかったことにしていいはずがない。あの三年間に生きていた人々の喜びも、悲しみも、愛も、全てが無に帰してしまった。榊教授は、その全てを守るために、今も時の狭間で孤独に戦っている。

俺は、足元に揺らめく、失われた記憶の残響を見た。それは、誰にも気づかれず、ただ静かに泣いているように見えた。

決意は、静かに固まった。

榊教授の研究室に戻り、俺は再び『時の砂時計』を手に取った。未来の調律師が、どこかで見ているのを感じる。俺はAルートもBルートも選ばない。破滅も、完全な忘却も、どちらも間違っている。

俺は砂時計を強く握りしめ、目を閉じて願った。

『空白の三年』を、その出来事を、世界に戻さないでくれ。ただ、一つだけ。あの三年間を生きた人々が、何を愛し、何を想い、何を悲しんだのか。その『心』の記憶だけを、今を生きる人々の中に還してほしい。

そして、俺はゆっくりと、時の理に逆らうように、砂時計を上下逆さまにひっくり返した。

舞い上がっていた銀色の粒子が、一瞬の静寂の後、さらさらと音を立てて、本来あるべき下へと落ちていく。それはまるで、長すぎた旅を終え、故郷に還る魂のようだった。

世界に、劇的な変化は起こらなかった。『空白の三年』は空白のままだし、人々が何かを思い出すこともない。破滅の未来が訪れる気配もなかった。

だが、確かに何かが変わった。

街を歩くと、道端で鼻歌を歌う老人がいた。誰も知らないはずの、どこか懐かしいメロディ。カフェの片隅では、若い詩人が、理由のわからない喪失感をテーマにした詩を書き留めている。人々の胸の内に、説明のつかない、けれど温かい感情の灯が、ぽつり、ぽつりと灯り始めたのだ。

彼らは、自分たちが何を失ったのかを、永遠に知ることはないだろう。だが、その喪失が遺した感情の残響は、新しい物語となり、音楽となり、芸術となって、この世界を静かに、そして豊かに満たしていく。

俺は、かつて白亜の塔がそびえていた更地を見上げた。虚無の波動は消え、その代わりに、空に向かって淡い青色の光の柱が、静かに昇っていくのが見えた。それはまるで、時空の狭間から送られてきた、榊教授の微笑みのようだった。

過去も未来も、完全には救えなかったのかもしれない。だが、この不完全で、忘れっぽくて、それでも美しい世界で、俺は失われた者たちの心の残響と共に生きていく。それもまた、一つの調律の形なのだと信じて。

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