残響のパレット
第一章 色褪せた街の残響
俺の瞳は、呪われている。
触れた他者の魂の底、最も遠い記憶の残響が、コントロールできない色彩となって網膜を焼くのだ。それは、意味を剥ぎ取られた感情の化石。燃え盛るような激情の赤、深い後悔を沈めた海の藍、あるいは、遠い日のささやかな幸福が宿る若草色。人々は、俺の知らぬ過去の色をその身に纏い、街を歩いている。だから俺は、誰にも触れないように生きてきた。
しかし、その色彩が世界から失われつつあることに気づいたのは、いつからだっただろうか。
「灰色の霧雨だ」
カフェの窓際で、老紳士が溜め息混じりに呟いた。だが、窓の外でアスファルトを叩いているのは、紛れもなく透明な雨だ。彼の言葉に呼応するように、店の壁に飾られた鮮やかな花の絵が、ふっと輪郭を揺らめかせた。まるで水彩絵の具が滲むように、その色彩が薄れていく。
これが「色彩の喪失」。はじめは些細な色の錯誤から始まり、やがて風景そのものから色が抜け落ちていく奇妙な現象。そして、色が失われたものは、人々の記憶からも徐々に消滅していく。あの老紳士が口にした「灰色の霧雨」とは、彼が幼い頃に見たであろう故郷の港町の光景だったのかもしれない。だが、その港町は、もう地図上のどこにも存在しない。期待を失った場所から、現実はその確かさを手放していくのだ。
俺は、自分の能力を疎ましく思う一方で、この世界から色が消えることに、耐え難い恐怖を感じていた。色彩は、俺にとって呪いであると同時に、世界が確かに存在していることの唯一の証明だったからだ。
ある日、俺は市場で林檎を売る老婆の手から、うっかり果物を受け取ってしまった。その瞬間、視界が灼けつくような黄金色に染まる。それは収穫期の麦畑を渡る風の記憶。彼女が生涯で最も幸福だったであろう瞬間の残響。しかし、その黄金色はひどく掠れ、端から砂のように崩れていく。彼女自身も、その大切な記憶を、その期待の源泉を、失いかけているのだ。
老婆の瞳の奥に、虚ろな諦めが揺らめいたのを見たとき、俺は決意した。この現象は、ただの災害ではない。誰かが、何かが、この世界から意図的に「期待」という名の生命線を奪い去っている。このままでは、世界は真っ白な忘却の海に沈んでしまうだろう。
第二章 虚ろな万華鏡の導き
古文書の僅かな記述だけを頼りに、俺は霧深い谷の奥にあるという古い天文台を目指していた。そこには『虚ろな万華鏡』の守り人がいるという。世界の法則の綻びを見つめ続けてきた、最後の番人。
湿った石段を登りきると、蔦に覆われたドーム状の建物が静かに佇んでいた。重い扉を開けると、星屑の匂いと古い紙の匂いが混じり合った空気が俺を迎える。部屋の中央に、一人の女性が立っていた。名をリナと名乗った彼女は、夜空を溶かし込んだような静かな瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの瞳の色は、とても騒がしい」
彼女は言った。
「まるで、世界中の人々の叫びを閉じ込めたようです」
俺の能力を見抜いている。リナは、この世界が人々の「期待」によって形作られていること、そして今、その期待の総量が何者かによって奪われ、世界が崩壊の瀬戸際にあることを、淡々と語った。彼女の言葉は、俺が抱いていた漠然とした恐怖に、明確な輪郭を与えた。
「これを」
リナが差し出したのは、黒曜石でできた筒状の万華鏡だった。覗き込んでも、中には色ガラスのかけら一つ入っておらず、ただ虚ろな闇が広がっているだけだ。
「『虚ろな万華鏡』。それは、世界で最も強い『期待』がどこへ向かっているのかを映し出します」
促されるまま、俺は万華鏡を覗き込んだ。すると、虚無だったはずの闇の奥に、ぼんやりと光景が浮かび上がった。――天を突く巨大な白亜の塔。そして、無数の祈りにも似た光の筋が、まるで吸い寄せられるように、その塔の頂上へと集まっていく。光を失った場所では、街が色を失い、人々が表情をなくしていた。
「世界の期待が、あの一点に集められている…」
「ええ。そこは『世界のへそ』。神話の時代から、現実が最も不安定になる場所として禁じられてきた地です」
リナの横顔には、固い決意が浮かんでいた。俺は、彼女の白い手首にそっと触れてみた。溢れ出す色彩を覚悟して。しかし、俺の視界に流れ込んできたのは、定まった色ではなかった。それは、まだ何色にも染まっていない、夜明けの空のような、無限の可能性を秘めた揺らめく光の奔流だった。彼女の最も遠い記憶、その魂の根源は、「未来への期待」そのものでできているのだと、俺は直感した。
第三章 無色の神
『世界のへそ』は、物理法則が気まぐれに意味をなさない場所だった。地面はゼリーのように揺らぎ、重力は時折その役割を放棄した。俺とリナは、万華鏡が示した白亜の塔を目指し、不安定な現実の裂け目を慎重に進んだ。
塔の内部は、静寂に満ちていた。壁も、床も、天井も、全てが色を持たない純粋な白。螺旋階段を上るにつれて、世界中から集められた期待の残滓が、声なき声となって耳元で囁く。愛する人への願い、明日へのささやかな希望、叶うことのなかった夢。それらは全て力を奪われ、抜け殻となって漂っていた。
塔の最上階。そこに『それ』はいた。
人とも獣ともつかない、輪郭の曖昧な存在。その身体は、あらゆる色彩を吸収し尽くしたかのような、 абсолютな『無色』だった。周囲の空間は、その存在感に圧されて歪んでいる。
「来たか、残響を見る者よ」
声は、空間全体から響いてくるようだった。それが、世界の期待を奪い、色彩を消し去っている元凶、『無色の神』。
「なぜ、こんなことを」
俺が問いかけると、神は静かに答えた。
「期待は、光だけではない。それと同じだけの、あるいはそれ以上の影を生む。希望は絶望に変わり、願いは憎悪に転じる。この世界は、人々の期待が生み出す『負の現実』によって、常に傷つき、苦しんでいる。ならば、全ての期待を摘み取り、悲しみも喜びもない、完全なる『無』へと還すことこそが、唯一の救済だ」
その言葉は、冷たい真理の響きを持っていた。俺は、神の悲しみを理解してしまいそうになった。だが、リナが俺の背中を支えるように、静かに言った。
「彼を、救ってあげて」
俺は意を決し、無色の神へと一歩踏み出し、その輪郭のない身体に手を伸ばした。
触れた瞬間――俺の意識は、時間の概念を超えた奔流に飲み込まれた。視界を埋め尽くしたのは、たった一つの、巨大で、純粋で、そして絶望的に孤独な記憶の残響だった。
それは、この世界が生まれたばかりの、混沌とした光の塊だった。創造主は、生命に『期待』という力を与えた。世界が豊かになるように。だが、生まれたばかりの世界はあまりに不安定で、期待はすぐに絶望へと反転し、世界そのものを引き裂こうとした。創造主は、自らが作った世界の不完全さに苦しみ、その不安定さ全てを己が身に引き受け、世界を安定させる礎となることを選んだ。
『どうか、この世界が、幸多からんことを』
それは、世界に向けられた、最初の、そして最も悲痛な『期待』だった。無色の神とは、その創造主の絶望と自己犠牲の願いが、長い時を経て具現化した残滓だったのだ。世界を愛するあまり、その不完全さに耐えきれず、全てを無に帰そうとする、哀れな神。
第四章 残響のパレット
倒すべき敵など、はじめからいなかった。俺の目の前にいるのは、世界を愛しすぎたがゆえに傷つき、永遠の孤独に囚われた魂だった。ならば、俺がすべきことは一つだけだ。
「あんたは、間違っていない」
俺は、神の内に渦巻く途方もない孤独と絶望に向かって語りかけた。
「期待が絶望を生むのは、本当のことだ。世界は不完全で、理不尽で、残酷なことばかりかもしれない。でも」
俺は、自らの魂の奥底を探る。俺自身の、最も遠い記憶。それは、まだ物心もつかない赤子の頃、母親の腕に抱かれて見た、名も知らぬ野の花の、鮮やかな紫色の残響だった。意味などない。ただ、そこにあった美しい記憶。
「でも、失われた色の中から、新しい色が生まれる瞬間を、俺は知っている。何もない場所に、誰かが線を引く。そこに誰かが色を置く。失敗しても、汚れても、また新しい色を重ねていける。その不完全さこそが、世界の希望なんだ」
俺は、神に自らの能力の全てを注ぎ込んだ。それは、誰かの過去の記憶ではない。俺自身が紡ぎ出す、未来への『期待』。
色彩を失った世界を想像する。全てが白と黒の、モノクロームの世界。だが、そこにはまだ人々がいる。彼らが笑い、泣き、愛し、そして何かを願う。その小さな期待の一つ一つが、やがて芽吹き、世界に新たな色を灯していく。赤ん坊の最初の笑顔がもたらす薄紅色。恋人たちが交わす誓いの純白色。友との別れに流す涙の空色。絶望の淵から立ち上がる決意の黒。
それは、完成された美しい世界への期待ではない。喪失から始まり、過ちを繰り返しながらも、それでも描き続けることをやめない、不格好で、不確かで、だからこそ限りなく愛おしい世界への、祈りにも似た期待だった。
俺の瞳から溢れ出した無数の色彩の可能性が、無色の神を優しく包み込んでいく。
神の輪郭が、初めて穏やかに揺らめいた。その顔に、微かな微笑みが浮かんだように見えた。
『――ありがとう』
その声と共に、神は眩い光となって霧散した。
次の瞬間、世界から、一切の色彩が消え失せた。建物も、空も、木々も、リナの顔さえも、全てが濃淡の異なる灰色に変わった。完全な静寂と、完全な喪失。
だが、俺は絶望しなかった。
隣に立つリナの手を、そっと握る。彼女の肌の温もりだけが、確かな現実として伝わってきた。そして、俺の呪われた瞳には、確かに見えていた。彼女の魂の奥底で、夜明け前の空のように、ごくごく微かな、新しい光が生まれようとしているのを。それはまだ、何色でもない、希望という名の、始まりの色だった。
世界はこれから、俺たちの手で、再び彩られていくのだ。