忘却のクロノス

忘却のクロノス

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第一章 錆びた秒針とスープの記憶

街はいつも、秒針の音に急かされていた。人々は手首に埋め込まれた『時間計(クロノメーター)』の冷たい光に絶えず目を落とし、すり減っていく自らの寿命を勘定しながら生きている。一杯のコーヒーが三十分。一冊の古書が五時間。この世界では、時間そのものが貨幣であり、命そのものが価値だった。

僕、カイは、街の片隅で古物商を営んでいる。僕の商売道具は、生まれつきのこの厄介な眼だ。僕は、物に宿る人の「記憶の残滓」を、淡い幻影として見ることができる。客は、亡くした家族の温もりや、過ぎ去った日の幸福な風景を求めて、僕の店にやってくる。幻影を見せる代金として、彼らの時間を少しだけ貰う。それが僕の生きる術だった。

だが、この力には呪いのような制約がある。幻影と視線が合えば、僕自身の記憶の一部が、その残滓に強制的に置き換えられてしまうのだ。だから僕は、いつも俯き加減に生きている。他人の過去を覗き込みながら、自分の過去を少しずつ失っていく。奇妙な矛盾を抱えたまま。

その日も、僕は埃っぽい店内で、古い懐中時計に残された幻影を眺めていた。ゼンマイを巻くと、陽だまりの縁側で編み物をする老婆の姿が浮かび上がる。その穏やかな微笑みから目を逸らし、僕は静かに蓋を閉じた。その時、店の外から甲高い鐘の音が響き渡った。街の中心にそびえ立つ、巨大な時計塔の鐘だ。しかし、そのリズムは明らかに狂っていた。まるで焦燥に駆られた心臓のように、せわしなく時を刻んでいる。街行く人々が不安げに空を見上げ、自らの時間計を確認する。その数字が、目に見えて速く減っていくのがわかった。

僕は店の扉を開け、外の空気を吸った。鉄錆と不安が混じった匂いがする。ふと、路地の向こうに小さな少女の幻影が立っているのが見えた。雨に打たれ、独りぼっちで泣いている。古い敷石に残った、何十年も前の記憶の染みだ。僕は反射的に目を逸らそうとした。だが、遅かった。少女がふと顔を上げ、その濡れた瞳が僕を真っ直ぐに捉えた。

瞬間、世界がぐにゃりと歪む。僕の脳裏に、知らないはずの温かいスープの味と、大きな手に優しく頭を撫でられた感触が流れ込んできた。それは、少女の記憶。引き換えに、僕の中から何かが抜け落ちていく。幼い頃、母が僕の頭を撫でてくれた時の、あの手の温もりが、陽炎のように揺らいで霞んでいった。胸にぽっかりと穴が空く。僕はその場にうずくまり、速すぎる鐘の音を聞きながら、また一つ失われた自分の過去を思った。

第二章 鐘が急かす街

世界の時間は、狂った鐘の音と共に加速を始めた。昨日までパン一個が一時間だったものが、今朝には二時間になっていた。人々は時間を得るために身を粉にして働き、僅かな休息の時間さえも惜しむようになった。街からは笑い声が消え、誰もが追い立てられるように足早に歩き、互いの時間計を猜疑心に満ちた目で見比べるようになった。

そんなある夜、僕の店の扉が乱暴に叩かれた。そこに立っていたのは、幼馴染のリナだった。時計塔の技師である彼女は、油の匂いをさせた作業着のまま、息を切らしていた。

「カイ! 大変なことになった!」

彼女は店に駆け込むなり、震える声で言った。

「時計塔が、誰かに乗っ取られた。最上階の『時間貯蔵庫』から、『忘れ去られた時間』がものすごい勢いで燃やされているの!」

『忘れ去られた時間』。それは、誰からも記憶されなくなった過去、歴史からこぼれ落ちた無数の瞬間の集合体だ。時計塔はそれを貯蔵し、世界の時間の総量を安定させるための錘(おもり)の役割を果たしていた。それが燃やされているということは、世界の時間を無理やり消費しているに等しい。

「このままじゃ、世界中の時間が一ヶ月ももたずに尽きてしまう……」

リナは僕の腕を掴んだ。その手は冷たく、細かく震えている。

「お願い、カイ。あなたの力が必要なの。犯人が触れた場所に、きっと『残滓』が残っているはず。それを見れば、誰がこんなことをしているのかわかるかもしれない」

僕は躊躇した。時計塔の内部、それも『忘れ去られた時間』の貯蔵庫ともなれば、そこは記憶の幻影で満ち溢れているだろう。下手をすれば、僕の記憶は根こそぎ奪われ、自分が誰なのかさえわからなくなるかもしれない。

「危険すぎる」

「でも、このままじゃ私たちは消えるだけよ!」

リナの悲痛な叫びが、埃っぽい店内に響いた。彼女の瞳には、失われゆく未来への恐怖が映っていた。その瞳を見ていると、僕の胸でまた疼き始める喪失の痛みが、小さな決意を促した。これ以上、大切なものを失うのはごめんだった。たとえそれが、僕自身の記憶だとしても。

第三章 忘れられた時間の回廊

リナの案内で、僕たちは深夜の時計塔に忍び込んだ。一般人の立ち入りが禁じられた内部は、ひんやりとした静寂に包まれていた。歯車の軋む低い音だけが、まるで巨大な生き物の呼吸のように響いている。螺旋階段を上るたびに、空気中の光の粒子が濃くなっていくのがわかった。それが『忘れ去られた時間』の結晶だった。

僕の眼には、その光の粒子が無数の幻影となって映っていた。戦火に追われる兵士。初めて恋文を書く少年。赤ん坊を抱いて微笑む母親。数え切れないほどの名もなき人々の人生の断片が、声もなく空間を漂っている。僕は幻影と視線が合わぬよう、固く目を伏せ、リナの肩だけを頼りに進んだ。一歩踏み出すごとに、他人の人生の重みが肌を圧するようだった。

「ここよ。この大歯車が、貯蔵庫の心臓部なの」

最上階に続く回廊で、リナが足を止めた。直径十メートルはあろうかという巨大な真鍮の歯車が、異常な速度で回転している。その表面が熱を帯び、空間が陽炎のように揺らめいていた。

「犯人は間違いなく、ここに触れているはず」

僕はゆっくりと顔を上げた。歯車の近くに、ひときわ強い光を放つ人型の残滓が揺らめいていた。フードを深く被り、顔は見えない。ただ、その人物は空を見上げ、何かを深く憂いているようだった。その佇まいに、僕はなぜか胸を締め付けられるような、懐かしい痛みを覚えた。

引き寄せられるように、一歩、踏み出す。

「カイ、危ない!」

リナの制止の声も遠くに聞こえる。僕は、その幻影が誰なのか、確かめなければならないという強い衝動に駆られていた。

第四章 時計塔の罪人

回廊を抜けた先、時計塔の最上階は、巨大な時計盤の裏側だった。無数の歯車が噛み合い、世界中の時間を支配する秒針を動かしている。その中央で、一人の人物が静かに佇んでいた。僕が先ほど見た幻影と同じ、フードを被った姿だった。その手には、禍々しい輝きを放つ砂時計が握られている。

『時を蝕む砂時計』。

かつて世界の時間を計るために作られ、あまりに危険すぎるために禁忌とされた道具。砂が一粒落ちるたびに、世界の時間を数年単位で消費するが、持ち主自身の時間もまた、猛烈な勢いで削られていく。

「お前が、これを……」

僕が声をかけると、その人物はゆっくりとこちらを振り返った。そして、静かにフードを取る。

現れたのは、僕とさして変わらない年頃の、穏やかな瞳をした青年だった。しかし、その顔には深い疲労と、悲壮な決意が刻み込まれている。

「ようやく来たか」

青年は、僕をずっと待っていたかのように言った。

「僕はエリオ。この世界の『守護者』だ」

守護者。世界の時間を管理し、その終焉までを見届けると言われる伝説上の存在。

「なぜこんなことを! 世界を滅ぼす気か!」

リナが叫ぶ。エリオは悲しげに首を振った。

「滅ぼすのではない。生まれ変わらせるためだ。この世界は、もうじき訪れる『大いなる時間』によって、修復不可能な形で完全に無に帰す。それは避けられない運命だ。だから私は、その前に全ての時間を使い切り、世界を強制的に終わらせる。無に帰る前にゼロに戻せば、そこから新しい『始まり』が生まれる可能性がある」

それは狂気の理論だった。緩やかな死か、今すぐの再生か。彼は後者を選んだのだ。

僕がエリオを止めようと一歩踏み出した、その時だった。彼の瞳の奥に、僕は見てしまった。今まで見たどんな残滓よりも鮮明で、どうしようもなく心を揺さぶる幻影を。

それは、幼い僕が、誰かと笑い合っている風景だった。

隣にいるのは、エリオだ。二人は時計塔の窓から夕焼けを眺め、指切りを交わしている。

「―――っ!」

抗えない引力に導かれ、僕の視線は、エリオの瞳の奥の幻影と、固く結びついてしまった。

第五章 君と僕の忘却

奔流のような記憶が、僕の頭の中に流れ込んできた。それはエリオの記憶。そして、僕が失っていた、僕自身の記憶だった。

僕とエリオは、かつて共にこの時計塔で育った守護者候補だった。親友であり、兄弟のような存在だった。僕たちは、やがてこの世界を飲み込む『大いなる時間』という避けられない災厄の到来を知った。絶望の中で、僕たちは一つの計画を立てた。

エリオが、世界を終わらせるための『罪人』となる。

そして僕は、その計画の是非を最後に問う『審判者』となる。

あまりに過酷な役目を僕に負わせないため、エリオは自らの時間を大量に消費して僕の記憶を封印し、外の世界へと送り出した。僕が時折、幻影と目を合わせることで失っていた記憶は、実はこの強固な封印を少しずつ解くための、エリオが仕組んだ鍵だったのだ。僕が全てを思い出し、彼を止めに来ることだけが、彼のたった一つの救いだった。

「思い、出してくれたか。カイ」

エリオの声は弱々しく、彼の時間計はもうほとんど残っていない。『時を蝕む砂時計』の代償は、彼の命を尽きさせていた。

「……なんで、一人で」

声が震える。失われた記憶のパズルがはまるたびに、胸が張り裂けそうになる。彼が一人で背負ってきたものの重さが、僕の心にのしかかる。

「君にだけは、忘れていてほしかった。僕が犯した罪を」

エリオはふらつき、僕の胸に寄りかかる。

「でも、君がこうして僕を止めに来てくれた。…それだけで、僕の選択は、間違いじゃなかったと思えるんだ」

その言葉を最後に、彼の体から力が抜けていく。

第六章 夜明けに響く時

世界の時間は、もう風前の灯火だった。時計塔の窓から見える街の灯りは、一つ、また一つと消えていく。時間が尽きた人々が存在ごと消滅しているのだ。絶望的な静寂が、世界を包み込もうとしていた。

全てを思い出した僕は、選択を迫られる。エリオの悲しい計画を受け入れ、世界の終わりと、不確かな再生を見届けるか。それとも、親友の覚悟を無にしてでも、この緩やかな破滅に抗うか。

「エリオ。君が世界を守ろうとしたように、僕も、君との約束を守る」

僕は、彼の手に握られた『時を蝕む砂時計』を、そっと受け取った。そして、エリオが望んだ『再生』とは違う方法を選ぶ。

僕は砂時計を逆さまにしなかった。高く掲げ、床に叩きつけて砕いた。

ガラスが砕け散る甲高い音と共に、凝縮されていた膨大な『忘れ去られた時間』が、眩い光となって解放された。それはエリオが燃やした時間。僕が失った記憶の時間。そして、名もなき人々が生きた証の全て。

光は時計塔から溢れ出し、消えかけていた世界を淡く照らし出す。それは完全な解決にはならない。避けられない破滅の運命を、ほんのわずかに先延ばしにしたに過ぎない。けれど、それは絶望の中でただ消えるのを待つしかなかった人々に与えられた、最後の猶予。愛する人に想いを伝え、何かを成し遂げるための、あまりにも貴重な時間だった。

「ありがとう、カイ……」

腕の中で、エリオの体が光の粒子に変わっていく。彼の時間計が、ついにゼロになったのだ。消えゆく彼の微笑みは、あの日の夕焼けの中で交わした約束の時と、少しも変わらなかった。

僕は、もう記憶を置き換えられることのない確かな瞳で、親友の最期を見届けた。

やがて、世界の加速は止まった。しかし、終わりが近いことに変わりはない。僕は時計塔の窓辺に立ち、白み始めた空を見つめていた。街からは、泣き声や、誰かの名前を呼ぶ声、そして、微かな歌声が聞こえてくる。残されたわずかな時間で、人々は生きようとしていた。

僕に何ができるのかはわからない。だが、この世界の最後の秒針が止まるその瞬間まで、僕はここで、全てを見届けよう。エリオが愛したこの世界と、彼が僕に託してくれた、この記憶と共に。

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