逆さ時計と桜の夢

逆さ時計と桜の夢

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第一章 逆巻く夢

また、あの夢を見ていた。

肌にまとわりつくシーツの不快感で、リョウは目を覚ます。心臓が肋骨の内側で暴れ、浅い呼吸が喉をひりつかせた。窓の外は、まだ暁の藍色に沈んでいる。夢の残滓が、まぶたの裏に焼き付いていた。深い皺の刻まれた自分の手。白髪の妻が隣で穏やかに微笑み、遠くで孫たちの声がする。そして、ゆっくりと訪れる、満ち足りた死の予感。それは恐ろしく、そしてどうしようもなく甘美な光景だった。

リョウはベッドから身を起こし、震える手で水を呷った。鏡に映る自分は、滑らかな肌をした青年だ。皺一つない顔。この世界では、誰もがそうだった。誰もが昨日より今日、今日より明日、若くなっていくのだから。

人々はそれを「回帰」と呼んだ。老いから若さへ、そして揺りかごへ、最後には無へと還る、祝福された逆行の螺旋。誰もが未来の記憶――自分がかつて子供だった記憶――を日々失い、代わりに過去の記憶――自分が老人だった豊かな経験――を蓄積していく。だから、この世界に未来への不安はない。あるのは、失われゆく若さへの感傷と、増え続ける過去への郷愁だけだ。

だが、リョウだけが違った。彼だけが、経験するはずのない『老いて死ぬ未来』の夢を見る。順行する時間の夢を。その夢を見るたび、世界から一人だけ弾き出されたような、底なしの孤独が彼を苛むのだった。

部屋の片隅、埃をかぶったガラスケースの中に、一本の桜の枝がある。世界の法則に逆らい、若返ることもなく、ただひたすらに枯れていく枝。リョウはそれに触れる。ひび割れた樹皮の感触が、指先にだけ、夢の中の「老い」を思い出させた。

第二章 失われる昨日

街は奇妙な活気に満ちていた。昨日まで杖をついていた老人が、今日は背筋を伸ばして石畳を歩き、数日前まで老婆だった女性が、少女のような笑顔でカフェのテラスに座っている。彼らの会話は、常に過去の追憶だ。

「ああ、八十の頃のワルツは格別だった」

「覚えているかい?九十の誕生日に見た、あの流星群を」

豊かな過去の記憶を持つ彼らにとって、若返りはボーナスステージのようなものだった。リョウはその輪に加われない。彼の口から出るのは、誰も知らない未来の話、夢の話だけだからだ。人々は彼を不気味なものを見る目で遠巻きにし、「呪われた夢見」「逆行の病原」と囁き合った。

そんな中、彼に話しかける唯一の人間がいた。カナデだ。彼女は図書館の司書で、日に日に幼くなっていく顔立ちの中に、年齢不相応の静かな眼差しを宿していた。

「また、怖い顔してる」

リョウが広場のベンチで空を見上げていると、カナデが隣に腰を下ろした。

「あなたの見る夢、どんな感じ?」

彼女はいつも唐突に、そして純粋な好奇心で尋ねる。

「……温かいんだ」リョウはぽつりと答えた。「誰かに愛されて、歳をとって、そうして死んでいく。ただそれだけの、ありふれた夢だ」

「ありふれてなんかいないわ」カナデは自分の手のひらを見つめた。「私たちは、誰かを愛した記憶は増えていくけど、これから誰かを愛す未来は忘れていく。あなたの夢は、私たちが失くしたもの全部が詰まっているみたい」

その言葉が、リョウの凍てついた心に小さな波紋を広げた。この世界でただ一人、彼女だけが、彼の見る夢を「失くしたもの」として捉えてくれた。

第三章 枯れ枝の囁き

その夜、リョウはいつにも増して鮮明な夢を見た。白い壁の研究室。自分は白衣を着て、巨大な球形の装置を見上げている。隣には、夢の中でいつも妻となる女性がいた。彼女は不安げにリョウを見つめている。

『本当に、これで宇宙は救われるの?』

『ああ。だが代償は大きい。我々はすべてを忘れる。時間の流れさえも』

『あなたも?』

『僕だけは、鍵を残す。次の世界への扉を開くための、微かな記憶の欠片を……忘れるな、この桜が、道標だ』

はっと目を覚ます。夢の中の自分の言葉が、耳の奥で木霊していた。リョウはガラスケースへ駆け寄り、老いた桜の枝を手に取った。ライトにかざすと、朽ちて茶色くなった花びらの表面に、何かが見えた。それは、ただの染みではなかった。虫眼鏡で覗き込むと、そこには驚くほど精密な文様が刻まれていた。星図。幾何学模様。そして、見たこともない数式の羅列。

まるで、世界の設計図そのものが、この枯れた花びらに凝縮されているかのようだった。心臓が早鐘を打つ。この枝は、ただの枯れ枝ではない。この世界の法則から外れた、唯一の遺物。そして、自分だけが見る夢の、唯一の手がかりだった。

第四章 世界の亀裂

異変は、突然始まった。世界の逆行が、急激に加速し始めたのだ。昨日まで中年だった人々が、一晩で青年の姿になり、街角ではしゃいでいた子供たちが、赤ん坊の泣き声を上げ始めた。社会は急速に機能を失い、混乱と恐慌が渦を巻いた。

「あいつのせいだ!」

誰かが叫んだ。

「あの夢見が、順行の夢などという穢れたものを見るから、世界の歯車が狂ったんだ!」

その声は燎原の火のように広まった。恐怖は、手頃な生贄を求める。人々はリョウの家に押し寄せ、ドアを叩き、窓ガラスを割った。憎悪に満ちた目が、暗闇の中から彼を睨みつける。

「出てこい、病原め!」

「お前が消えれば、世界は元に戻るんだ!」

その時、群衆をかき分けてカナデが駆け込んできた。

「やめて!彼が何をしたっていうの!」

彼女はリョウの前に立ちはだかったが、狂乱した群衆に突き飛ばされ、地面に倒れた。その瞬間、リョウの中で何かが切れた。彼はカナデを助け起こすと、ガラスケースから桜の枝を掴み、裏口から闇の中へ飛び出した。背後で、人々の怒号と、世界の軋む音が聞こえていた。

第五章 終点への序曲

街を逃れ、リョウは夢が導くままに走り続けた。空は七色のオーロラで覆われ、時間の感覚が曖昧になっていく。辿り着いたのは、月の光を浴びて静まり返る、ドーム型の廃墟だった。夢で見た、あの研究室だ。

中央には、巨大な球形の装置が鎮座している。リョウは吸い寄せられるように近づき、震える手で桜の枝を装置の窪みに差し込んだ。その瞬間、枝が淡い光を放ち、廃墟全体に命が宿ったかのように柔らかな照明が灯る。

目の前の空間に、光の粒子が集まり、一人の男の姿を形作った。

それは、白衣を着た、自分自身だった。

ホログラムの彼は、穏やかな目でリョウを見つめ、語りかけた。

「君がこれを見ているということは、このサイクルも、終点を迎えるのだろう。孤独だったろう。世界でただ一人、真実の記憶の断片を抱え続けるのは」

ホログラムの自分は、驚愕するリョウにすべてを語り始めた。

第六章 始まりのエンドロール

「宇宙は、避けられぬ熱的死に向かっていた。あらゆる星が燃え尽き、永遠の静寂が訪れる未来。私は、それを回避したかった」

彼は語る。この世界は、宇宙が死を迎える直前のエネルギーを使い、時間を反転させて創造された、無限に繰り返す揺りかごなのだと。全生命が若返り、受精卵という「始まり」に戻ることで、宇宙は再び「ビッグバン」という名の産声を上げる。その繰り返しによって、永遠を紡ぐ計画。

「だが、問題があった。順行する時間の記憶は、この逆行世界にとって強力なバグとなる。だから、ループに参加するすべての生命から、その記憶を消去する必要があった。私自身の記憶さえも」

「じゃあ、この夢は……」

「前回のサイクルの記憶だ。そして、次のサイクルを起動させるための『鍵』。君が見る『老いて死ぬ未来』の夢こそが、このループ世界を永遠に存続させるための、ただ一つのトリガーなのだよ」

桜の枝は、順行世界の物理法則を記録したアンカーであり、起動キーだった。そして、その記憶を宿すために選ばれたのが、設計者である自分自身。リョウの孤独と恐怖は、宇宙を救うための、尊い使命だった。

「ありがとう」ホログラムの自分は微笑んだ。「私の、最も孤独な一部。君のおかげで、また世界は始まることができる」

その言葉を最後に、ホログラムは光の粒子となって消えた。同時に、世界の輪郭が溶け始める。窓の外の風景が、街が、人々が、そしてカナデの面影さえもが、真っ白な光の中に吸い込まれていく。世界の終点。全生命が無に還る瞬間。

リョウは、不思議と穏やかな気持ちだった。彼は枯れた桜の枝をそっと胸に抱きしめ、目を閉じた。薄れゆく意識の中で、あの懐かしい夢が甦る。愛する人と共に老い、穏やかに死んでいく、ありふれた、しかし何よりも美しい未来の光景。それは、彼が自ら捨て、そして守り抜こうとした、世界の本来の姿だった。

すべてが、真っ白な光に満たされる。

静寂の中、やがて、小さな、本当に小さな生命の芽吹きが、生まれた。

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