第一章 灰色の街と幻影のワルツ
俺の瞳に映る世界は、いつからかその彩りを失い始めていた。アスファルトは深さをなくした鼠色に沈み、空は洗い晒した布のように白茶けている。人々は、その色のない風景に溶け込むようにして歩き、誰もその異変に気づいていない。あるいは、気づかないふりをしているのかもしれない。
この世界では、嘘が形を持つ。ささやかな偽りは陽炎のようにその人の周りを揺らめき、人生を揺るがすほどの大きな嘘は、精巧な「幻影」となって本人に付きまとう。人々は幻影を隠すために口を噤むか、あるいは幻影こそが自分だと信じ込ませる完璧な演技を続けるしかなかった。だから、この街は静かだ。真実の言葉も、嘘の言葉も、その重さを知る者たちによって慎重に選び取られる。
俺、カイには、もう一つの世界が見えていた。誰も認識できない、「第六の色」。それは、あらゆる色彩の根源でありながら、いかなる色とも交わらない孤独な光。人々の幻影の奥で、抑圧された感情がその色を放ち、時間の淀みの中で失われた記憶が静かに明滅する。そして今、世界から色が失われるのに反比例して、俺の視界を焼く「第六の色」は、その輝きを増していた。まるで、世界の死を祝福するかのように。
ある午後、俺は古書店が立ち並ぶ通りを歩いていた。埃と古紙の匂いが混じり合う中、ふと足を止める。一人の女性が、ガラス窓の向こうで分厚い本を閉じたところだった。彼女の周りには、博識で穏やかな司書という、極めて精巧な幻影が漂っている。だが、その完璧な幻影の僅かな綻びから、深海のような孤独を湛えた「第六の色」が、痛々しいほど鮮やかに漏れ出していた。
彼女が顔を上げた。硝子越しに、俺たちの視線が絡み合う。彼女の瞳が、俺だけに見える色を捉えたかのように、小さく揺れた。
第二章 虚偽の鏡
彼女の名はリラ。街の中央図書館で働く司書だった。あの日以来、俺は理由もなく図書館に通い、彼女と当たり障りのない会話を交わすようになっていた。
「また来たのね、カイ。何かお探し?」
「いや……ただ、ここの静けさが好きなだけだ」
嘘ではない。だが、本当の目的は彼女の幻影から漏れ出す「第六の色」だった。それは、この色彩消失の謎を解く鍵を握っているように思えてならなかった。
世界の褪色は加速していた。昨日まで微かに赤みを帯びていた煉瓦が、今朝には完全な灰色と化していた。人々の幻影もまた、その輪郭を失い始めている。このままでは、世界は感情も記憶も全てを失った、完全なモノクロの静物画になってしまうだろう。
「世界の始まりについて書かれた本を探しているんだ」
俺の唐突な言葉に、リラは驚いたように瞬きをした。
「禁書庫になら、あるかもしれない。でも、あそこの本は……危険よ」
彼女の幻影が濃くなる。警告の裏に隠された恐怖が、「第六の色」となって俺の網膜を刺した。俺は構わず、彼女の案内で図書館の地下深く、冷たく湿った空気の漂う禁書庫へと足を踏み入れた。
黴とインクの匂いが満ちる空間の最奥。そこに、それはあった。銀のフレームに嵌め込まれた、黒曜石のように滑らかな円鏡。「虚偽の鏡」。光を当てることで、過去に語られたあらゆる嘘を、幻影と共にこの世に呼び戻すという禁忌の遺物。リラが息を呑む音が、静寂に響いた。鏡の表面は、まるで世界の全ての光を吸い込むかのように、どこまでも昏かった。
第三章 褪せた記憶の対価
「やめて、カイ!その鏡は、使うたびにあなたの記憶を喰らうわ!」
リラの悲鳴のような声が、背後で震える。俺は構わず、懐から取り出した小さなオイルランプに火を灯し、鏡にかざした。
「失う記憶くらい、もうほとんど残っていない」
炎の光が鏡面に触れた瞬間、世界が軋むような音がした。鏡の中から、黒い霧が溢れ出し、無数の幻影となって禁書庫を満たしていく。街の創設者たち、偉大な芸術家、名もなき恋人たち。彼らがついた「嘘」が、声なき叫びとなって俺の周囲を渦巻いた。
――我々は、争いのない理想郷を創る。
――私は、永遠に君だけを愛している。
――大丈夫、私は少しも怖くない。
その度に、俺の頭の中から何かが抜け落ちていく。母の温もり、父と交わした最後の言葉、初めて空の青さに感動した日の記憶。体が軽くなるような、あるいは魂が削られていくような、奇妙な喪失感。
だが、俺の目には違うものが見えていた。「第六の色」を通して見る鏡の世界は、幻影の奥で真実の感情が奔流となって逆巻いていた。理想郷を語る者の目には支配欲が燃え盛り、永遠の愛を誓う声は嫉妬に震え、強がる魂は恐怖に凍てついている。嘘が世界を構築し、真実がその地下で蠢いている。そして、全ての幻影の源流、その最も深い場所で、途方もなく巨大な「第六の色」の塊が、心臓のように脈打っていた。
第四章 世界を覆う最初の嘘
鏡が映し出す光景は、時間を遡り、世界の創生へと至った。そこには、何者もいなかった。ただ、意志のようなものが存在しただけだ。それは、自らが存在するこの空間の「不完全さ」を恐れていた。混沌、矛盾、争い――それらを許容できなかった。
そして、その意志は、最初の嘘をついた。
『この世界は、完璧でなければならない』
その瞬間、世界が生まれた。調和と秩序の世界。しかし、それは巨大な欺瞞の上に成り立っていた。不完全さの象徴である、あらゆる負の感情、予測不能な概念は、「存在しないもの」として切り離された。喜びは輝きを、悲しみは深さを、怒りは熱を。感情や概念が本来持っていた多様な「色」が分離され、世界は均質化されたのだ。
色彩の消失。それは世界の終わりではなく、始まりへの回帰だった。世界自身が、自らついた「最初の嘘」を維持するために、不純物である「色」を消し去り、完全なる「無色」の状態に戻ろうとする、自浄作用だったのだ。
俺の隣で、リラの幻影が音を立てて崩れ落ちた。穏やかな司書の仮面が剥がれ、現れたのは、世界の終わりに怯える少女の泣き顔だった。
「嘘なの……ずっと、この世界が続くって信じてた……信じたかった……!」
彼女の頬を伝う涙は、色を失い、ただの透明な雫となって床に染みを作った。
世界の巨大な嘘の前では、個人の嘘など、あまりに儚い。
第五章 第六の色が拓く無
「第六の色」の正体は、この世界が「存在しない」と嘘をついた、ありとあらゆる感情や概念の集合体だった。世界から追放された、真実の色彩の残滓。俺は、その色を視認できる唯一の存在。
ならば、俺のやるべきことは一つだ。
「リラ」
俺は、初めて彼女の名前を呼んだ気がした。記憶はもう、ほとんど残っていない。だが、この胸に残る温かい痛みだけが、彼女との繋がりを教えてくれる。
「新しい世界を見ていてくれ」
彼女の返事を待たず、俺は禁書庫を飛び出した。目指すは、街で最も高い時計塔。そこは、最も色彩が失われ、世界の中心が剥き出しになっている場所だった。
灰色の螺旋階段を駆け上がり、たどり着いた頂上で、俺は冷たい風に身を晒した。眼下に広がるのは、息を止めたようなモノクロの街。空には、太陽さえもが白い円盤として浮かんでいるだけだ。
俺は目を閉じた。自らの意識の全てを、魂の全てを、瞳に宿る「第六の色」に注ぎ込む。それは呪いであり、祝福であった力。俺という存在の、最後の証明。
「――解放する」
俺の体が、内側から発光した。世界が否定した全ての感情、忘れ去られた全ての記憶、歪められた全ての時間が、奔流となって俺の魂から解き放たれる。視界が、純粋な「第六の色」一色に染まっていく。もう他の色は見えない。俺自身が、その色になったのだ。光は天を衝き、世界全体を包み込んでいった。
さようなら、リラ。君の涙に、いつか本当の色が灯るように。
第六章 透明な観測者
世界は、一度、無に還った。
音も、光も、匂いもない。時間さえもが停止した、完全な静寂と暗黒。世界を創り上げた「最初の嘘」が暴かれ、その土台が崩壊したのだ。全ての概念が消え去った、絶対的な無。
どれほどの時が経っただろうか。
その無の空間に、ぽつり、と小さな光が生まれた。それは、暖かく柔らかな黄金色。誰かが抱いた、純粋な『喜び』の色だった。
次に、深く、静かな藍色が現れた。それは、何かを失った者の『悲しみ』の色。
そして、燃えるような緋色、芽吹く若草の色、澄み渡る空の色……。
嘘によって否定され、分離されていた感情や概念が、今度は混じり合うことなく、ありのままの形で、一つ、また一つと色として生まれ始めた。争いも、矛盾も、不完全さも、全てが世界を構成する尊い色として肯定されていく。
俺は、その光景を見ていた。
もはや、カイという名の肉体はない。感情も、記憶も、「第六の色」と共に使い果たしてしまった。俺は、誰にも認識されることのない、真に「透明」な存在となっていた。色を失った代わりに、全ての色が生まれる瞬間を永遠に見届ける、ただの観測者。
新しい色に満ち始めた地上で、リラが空を見上げていた。彼女の瞳には、生まれたばかりの、嘘のない本物の青が映っている。その頬を、一筋の涙が伝った。それは、かつてのような無色透明の雫ではなかった。希望と寂しさが溶け合った、美しい水色をしていた。
彼女は、まるでそこに俺がいることを知っているかのように、微かに微笑んだ。
新しい世界は、決して完璧ではないだろう。だが、そこには無限の色彩が満ち溢れている。俺は、その全てを見守り続ける。人々が空を見上げた時にふと感じる、名付けることのできない切なさや愛おしさ。それが、かつてカイという男がいた、唯一の証なのかもしれない。