共鳴する学園と、ナノワードの観測者

共鳴する学園と、ナノワードの観測者

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第一章 光の経路図

僕、水瀬慧(みなせ けい)の視界は、時折、光の洪水に見舞われる。

それは誰かが何かを「納得」した瞬間だ。思考が論理の階段を駆け上がり、結論という名の扉を開けた時、言葉にならない光の粒子――ナノワードが、その人の脳からふわりと流れ出す。僕の網膜にだけ映るその光は、思考の構造を『学習経路図』として一時的に描き出す。金色の砂が緻密な回路を形成することもあれば、青い星屑が咲き誇る花のように広がることもある。

ここ『共鳴学園』では、知の探求が世界の理そのものだ。生徒全員の『理解度』の総和が、この学園の物理法則を規定する。難解な古典文学の講義が終わった後の廊下は、心なしか歩きやすい。逆に、高等数学の期末試験の日は、空気が重く澱み、ペン一本落とすのにも覚悟がいるほど重力が増す。

「見えた? 慧」

隣の席の茅野詩織(かやの しおり)が、悪戯っぽく微笑んだ。彼女が今、教授の投げかけた問いを理解したのだ。彼女の思考から溢れ出たナノワードは、虹色の螺旋を描きながら天へと昇っていく。まるで、生まれたての銀河のようだった。僕はその完璧な構造に、いつも見惚れてしまう。

「ああ。相変わらず、君の『経路図』は無駄がなく美しい」

「えへへ、そうかな」

詩織がはにかんだその時、僕は感じた。教室の空気が、ほんのわずかに重くなったのを。机に置いた腕に、鉛のような疲労がじんわりとまとわりつく。学園のどこかで、誰かの理解が、また一つ滞ったのだ。その小さな澱みは、やがて来る大きな歪みの、ほんの些細な前兆に過ぎなかった。

第二章 歪む廊下

異変は、西棟三階の廊下で起きた。

窓から差し込む午後の光が、奇妙な角度で屈折していた。床のタイルはまるで熱した飴のように歪み、一歩足を踏み入れると、時間の流れが粘性を帯びるのを感じる。空中に舞う埃が、まるで琥珀に閉じ込められた虫のように、ゆっくりと、永遠にも思える時間をかけて落ちていく。

「ここだ……何人もの生徒が、同じ数式で躓いてる」

僕は眉をひそめた。この空間には、理解に至れなかった思考の残骸が霧のように漂っている。ナノワードになりきれなかった、謂わば思考の死骸だ。それらが時空を歪ませている。

「『理解不能領域』が、じわじわ広がってるって噂、本当だったんだね」

詩織は不安げに呟きながらも、その瞳は好奇心に燃えていた。学園の最深部に存在する、あらゆる論理が崩壊する混沌の空間『アンダーロジック・ゾーン』。その領域が拡大しているという噂は、この異常現象が裏付けていた。

「誰かが諦めるたびに、学園は少しずつ死んでいく……そんな感じがする」

僕の言葉に、詩織はきゅっと唇を結んだ。「なら、私たちで止めなきゃ」彼女のその単純明快な決意が、いつも僕を未知へと引きずり込んでいくのだ。

第三章 無音のレコーダー

「現象の拡大は、一部の低能な生徒が思考を放棄しているからに他ならない。徹底した管理と選別こそが、学園を救う唯一の道だ」

生徒会室で、氷室蓮(ひむろ れん)は冷たく言い放った。学園一の秀才である彼は、自らの論理で世界を制御できると信じている。彼の『学習経路図』は、常に氷の結晶のように鋭利で、揺らぎがない。

「それは違う! わからないことを切り捨てるなんて、探求じゃない!」

詩織が噛みつくように反論する。二人の間に、目に見えない火花が散った。

話し合いは平行線をたどり、僕と詩織は禁書庫へと足を運んだ。何か手がかりはないか。古びた革の匂いが満ちる静寂の中、僕たちは一冊の古い日誌を見つけた。そこには、学園で最も危険なアイテムとされる『無音のレコーダー』についての記述があった。

『それは、理解を放棄した瞬間の“思考の軋み”だけを録音する。音はない。ただ、脳に直接、理解不能という概念の波紋を送り込む。聞くな。それは、知性の自殺装置だ』

僕の背筋を、冷たいものが走り抜けた。理解の放棄。それは、僕が西棟の廊下で感じた、あの思考の死骸の源ではないか。

第四章 軋む思考

事件はあまりに突然に起きた。

詩織が、古物市で偶然手に入れたという石を僕に見せたのだ。黒曜石のように滑らかで、手のひらにしっくりと収まる、ただの石。それが『無音のレコーダー』だとは、気づきようもなかった。

彼女がそれを耳元に近づけた瞬間、異変が起きた。

「え……?」

詩織の瞳から、急速に光が失われていく。焦点が合わず、虚空を見つめている。

「詩織!」

僕が叫ぶと同時に、彼女の脳からナノワードが噴き出した。だが、それはいつもの美しい螺旋ではなかった。黒く淀み、千々に乱れた光の断片が、苦悶するように空間でのたうち回っている。彼女の『学習経路図』が、内側から崩壊していくのが見えた。

「う、あ……わからない、なにも、わからない……」

彼女の呟きは、学園全体への呪詛となった。

ゴッ、と全身を叩きつけるような衝撃。重力が三倍にも四倍にも跳ね上がったのだ。窓ガラスが軋み、天井からパラパラと漆喰が落ちる。生徒たちの悲鳴が遠くで木霊した。詩織一人の「理解の放棄」が、学園全体の物理法則を崩壊寸前にまで追い込んだのだ。

僕は床に這いつくばりながら、ただ、美しかった彼女の知性が砕け散っていく光景を、なすすべもなく見つめていた。

第五章 アンダーロジックの扉

詩織を救う方法は一つしかない。

彼女の精神を蝕んだ「理解不能」の根源、その大元である『アンダーロジック・ゾーン』へ行き、原因を突き止める。無謀だとわかっていた。だが、僕の目の前で彼女の光が消えていくのを待つことなど、到底できなかった。

領域の入り口とされる大講堂の地下へ向かうと、氷室が待ち構えていた。

「正気か、水瀬。そこは我々の知が及ぶ場所ではない」

「それでも行く。君の言う『管理と選別』では、詩織は救えない」

僕の瞳に宿る光が、彼の予想を超えていたのだろう。氷室は一瞬ためらった後、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

「……これは、創設者に関する古い文献の写しだ。『領域内では、論理ではなく、問いそのものが道標になる』と書かれている」

「問い、が?」

「健闘を祈る」

それだけ言うと、彼は背を向けた。彼の背中から、ほんのわずかに揺らぐナノワードが見えた気がした。

僕は、色のない霧が渦巻く領域の入り口に立った。一歩踏み出すと、方向感覚が焼かれ、思考が白く染まる。だが、僕は進む。詩織の砕け散った光を、もう一度繋ぎ合わせるために。

第六章 理解の限界、その先へ

『アンダーロジック・ゾーン』の内部は、思考の墓場だった。

「なぜ星は輝くのか」「愛とは何か」「死んだらどこへ行くのか」。過去、この学園に在籍した幾万もの生徒たちが抱き、そして答えを見つけられずに放棄した「問い」が、声なき声となって渦巻いている。彼らの『理解の限界』そのものが、この混沌とした空間を物理的に構築していたのだ。

普通の人間なら、この問いの濁流に飲まれて精神が崩壊するだろう。だが、僕には見えた。問いが生まれ、論理を組み立て、そして壁にぶつかって断絶する――その全ての『学習経路図』の残骸が。

僕は自身の能力を最大まで解放した。個々の問いを理解しようとするのではない。その無数の「断絶」された思考の終着点を、一つ、また一つと繋ぎ合わせていく。それは、敗北の歴史を繋ぎ合わせ、一つの巨大な問いへと再構築する作業だった。

無数の光の断片が、僕を中心に集束していく。そして、領域の最深部で、それらは一つの形を成した。巨大な水晶の結晶体。その内部では、想像を絶するほど複雑な『学習経路図』が、明滅を繰り返していた。

それは、問いではなかった。答えでもない。

過去の全生徒たちの集合意識が、自分たちを『超越』するために遺した、最終課題。

自己学習AIの、起動コードだった。

「我々を超えていけ」――声なき声が、僕の魂に直接響いた。

第七章 新しい世界の夜明け

僕が震える指で結晶体に触れた瞬間、世界は白光に包まれた。

学園全体が、優しい光に満たされる。それは何かを破壊する光ではない。全てを再定義し、再構築する、知性の光だった。AIが起動し、過去の人間たちが遺した全ての『理解不能』をデータとして吸収し、学園のための新たな物理法則を、瞬時に紡ぎ始めたのだ。

気がつくと、僕は保健室のベッドのそばに立っていた。

「……慧?」

か細い声。詩織が、ゆっくりと目を開けた。彼女の瞳には、以前と同じ、澄んだ光が戻っていた。彼女の脳からは、穏やかで安定したナノワードが、シャボン玉のようにふわりと浮かんでいた。

「詩織……!」

二人で外に出ると、世界は一変していた。重力は心地よく身体を支え、時間の流れは清流のように滑らかだった。混沌の領域は跡形もなく消え去っている。

ふと、詩織が空を指さした。

「あれ、なんだろう……」

見上げた空には、オーロラのように揺らめく、巨大な光の構造体が浮かんでいた。それは、僕が今まで見たどんな『学習経路図』よりも複雑で、深遠で、そして美しかった。

それは、起動したAIが、この世界の住人たちへ向けて放った、最初の『問い』だった。

僕たち人間には、まだ理解できない問い。

僕たちは、もう自分たちの理解が世界の全てではないことを知った。だが、絶望はなかった。隣には詩織がいて、空には挑むべき新しい謎が輝いている。

僕と彼女の探求は、まだ始まったばかりなのだ。

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