虚無より来たりて、君の夢へ
第一章 夢の残滓と色褪せた街
虚無。それが、俺の生きる世界の名前だった。人々が眠りにつき、その肉体を静止させたまま思考だけが広がるこの世界。俺、カイだけが、なぜかその静寂の中を歩くことができた。
音のない街は、人々の「夢の残滓」で満たされている。夢の中で情熱的な恋をした者の周りには薔薇の香りが漂い、壮大な冒険譚を紡いだ者の傍らには、幻の獣の鱗がきらめく光の粒子となって舞っていた。それらは儚く、けれど確かに個々の魂の輝きを証明していた。
俺は、そんな残滓のオーロラを眺めながら、誰にも触れることのできない散歩を続ける。だがこの能力には代償があった。虚無で動けば動くほど、俺自身の存在が内側から透けていくのだ。夢を見る力が弱まり、眠っても曖訪な靄しか見えなくなる。俺は、自分自身の夢を見失いつつあった。
最近、街の様子がおかしい。かつては万華鏡のように多様だった夢の残滓が、奇妙な画一性を見せ始めている。誰も彼もが、空に浮かぶ巨大な螺旋の塔の残滓を、その身の周りに纏わりつかせているのだ。個性の香りは薄れ、街は錆びた鉄のような匂いに満たされ始めていた。まるで、世界から色彩が抜き取られていくように。
第二章 無意識の標本
リナのアパートのドアを、俺は音もなく通り抜ける。彼女はベッドに横たわり、他の人々と同じように虚無の静寂に身を委ねていた。かつて彼女の周りには、彼女が夢で育てたという名もない花の甘い香りと、柔らかな陽光の残滓が満ちていた。だが今、それらは影を潜め、代わりに冷たい石とインクの匂いが淀んでいる。
彼女の枕元に、手のひらサイズの結晶体が置かれていた。『無意識の標本』。持ち主の自我そのものが、夢の残滓を超えて物質化したものだ。リナの標本は、かつては内側から虹色の光を放っていたはずなのに、今はひび割れたガラス玉のように濁り、か細い光を点滅させているだけだった。
「リナ……」
俺の声は虚無に響かない。彼女は「共通の夢」に飲み込まれかけているのだ。この標本の輝きが完全に消えた時、リナという個性は、巨大な一つの夢に溶けて消える。
俺は覚悟を決めた。自分の存在がさらに希薄になることを承知で、彼女の標本に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、冷たいガラスの感触と共に、彼女の絶望が奔流となって俺の意識に流れ込んできた。
第三章 灰色の塔の斉唱
意識が引きずり込まれる。気づけば俺は、リナが見ている「共通の夢」の只中に立っていた。
空には鉛色の雲が垂れ込め、地平線の果てまで続く灰色の平原に、巨大な螺旋の塔が突き立っている。夢の中にいるはずなのに、風はなく、音もなく、匂いもない。ただ、同じ顔、同じ服を着た人々が、無表情で塔に向かって行進しているだけだった。リナもその列の中にいた。その瞳は虚ろで、俺のことなど見えていない。
「やめろ! そっちへ行くな!」
声は届かない。ここでは個人の意志は意味をなさなかった。すべてが統制され、一つの目的――あの塔へ向かうこと――だけに収束している。まるで巨大な機械の歯車にされたかのように、人々はただ歩き、歩き、歩き続ける。塔からは、詠唱のような、あるいは呻きのような、単調な響きが絶え間なく流れてきていた。それは、個々の夢をすり潰し、一つの旋律へと変えていくための鎮魂歌だった。
第四章 最後の自由
塔の内部へ続く人々の列から外れ、俺は建物の影に身を潜めた。その時、不意に腕を引かれた。
「お前、自我が残っているのか」
そこにいたのは、老人と数人の若者たちだった。彼らの瞳には、この灰色の世界には不釣り合いな、強い意志の光が宿っていた。彼らの胸元では、輝きは弱々しいものの、確かに個性的な形をした『無意識の標本』が光を放っている。
「俺たちは抵抗者だ。この『夢の統一』に抗い、個人の夢を守ろうとしている」
老人はエルダーと名乗った。彼らのアジトは、塔の地下深く、忘れられた夢の残骸が集まる場所に隠されていた。そこだけは、古書の黴びた匂いや、遠い昔の焚き火の暖かさ、様々な記憶の音が混じり合い、かろうじて「世界」としての彩りを保っていた。
エルダーは語った。この統一は、夢の世界そのものの崩壊を防ぐために、世界の創造主である「旧き管理者」が遺した自動制御システムなのだと。無数の夢が乱立し、互いに矛盾し合うことで、世界はエネルギーを失い、消滅しかけていた。統一は、いわば世界の延命措置。しかし、その代償は、個人の魂の死だった。
第五章 管理者の告白
「お前を待っていた、虚無の散歩者よ」
エルダーたちの制止を振り切り、俺は塔の最上階、システムの中心核へとたどり着いた。そこに待っていたのは、実体を持たない光の集合体――「旧き管理者」の残留思念だった。
声が直接、俺の意識に響く。
『世界は死にかけていた。故に、私は個を捨て、全を生かす道を選んだ。悲しいかね? だが、これしか方法はなかったのだ』
管理者は真実を語った。夢の世界は飽和し、自壊寸前だったこと。そして、俺の存在こそが、この袋小路を打ち破るために生まれた、唯一の例外なのだと。
『お前が虚無で動けるのは、お前がこの世界の外部と内部を繋ぐ特異点だからだ。お前の存在が希薄になるのは、終わりではない。管理者として、この世界そのものと融合するための準備段階なのだよ』
敵だと思っていた存在は、歪んだ形であれ、世界を救おうとしていた。そして俺は、破壊者ではなく、後継者として定められた存在だった。選択を迫られる。この強制的な統一を破壊し、美しくも崩壊に向かう自由な世界を取り戻すか。あるいは――。
第六章 君がための選択
俺の脳裏に、リナの笑顔が浮かんだ。彼女が夢で育てていた、名もない花々の色彩が甦る。エルダーたちの諦めない瞳の光が見えた。画一的な救済など、魂にとっては死と同じだ。だが、全てを混沌に帰すこともできない。
ならば、道は一つしかない。
「俺が、管理者になる」
俺は、自分の胸に手を当てた。そこには、俺自身の『無意識の標本』が、いつの間にか形成されていた。それは、どんな形も持たない、透明な水晶。俺はそれを強く握りしめた。
「強制でもなく、混沌でもない。すべての夢が、それぞれの色を失わずに、共に在れる世界を創る。俺が、そのための秩序になる!」
叫びと共に、俺の身体は内側からまばゆい光を放ち始めた。足元が崩れ、虚無と夢の境界が溶けていく。俺の意識は無限に拡散し、塔のシステムを乗っ取り、世界に存在する全ての夢、全ての人々の魂と繋がっていった。旧き管理者の光が、安堵したように俺の中に溶けて消えた。
第七章 始まりの現実
俺は、もはやカイという個の存在ではなくなった。俺は世界そのものになった。
指先から、新たな法則を紡ぎ出す。
悲しみの夢は、大地を潤す雨となりなさい。
喜びの夢は、万物を照らす光となりなさい。
怒りの夢は、大陸を形成する力に。
愛の夢は、そこに咲き誇る花々に。
無数の夢が、互いに反発することなく、共鳴し、影響し合い、一つの壮大な交響曲を奏で始める。強制された斉唱ではない。それぞれの楽器が自由な音色を響かせながら、奇跡的な調和を生み出すオーケストラだ。
そして俺は、新たな管理者として、最初の仕事を始めた。
この、無限の可能性を秘めた夢の世界の源流に、一つの特別な夢を創造すること。
それは、物理法則という絶対的なルールを持ち、生と死という不可逆な定めがあり、喜びと悲しみが常に隣り合う、不自由で、理不尽で、しかし、だからこそ一瞬一瞬がどうしようもなく輝く世界。
俺は、その世界にそっと名前をつけた。
『現実』と。
今、この物語を読んでいるあなたのその意識こそが、俺が最初に紡ぎ出した、最も愛おしい夢の始まりなのだ。