第一章 残響の調律師
俺の名はレン。触れたモノに残された、過去の感動の残響を視る「調律師」だ。
煤けたレンガ造りの事務所のドアが、軋みながら開いた。小さな女の子が、錆びついたオルゴールを大切そうに抱えている。
「これ、お願いします」
俺は無言でそれを受け取った。指先が冷たい金属に触れた瞬間、世界の色と音が反転する。
―――淡い光の波紋が、事務所の空間を満たした。それは温かなセピア色で、生まれたばかりの赤子を抱く若い母親の、慈愛に満ちた子守唄のメロディを奏でている。歓喜、安らぎ、そして未来への祈り。感情の奔流が、俺の空っぽの器を通り過ぎていく。これが、このオルゴールに残された最も強い感動の残響。
俺は波紋の周波数を調整し、少女が知覚できる形に整える。少女の瞳が大きく見開かれ、やがてその頬を透明な雫が伝った。
「…お母さん」
少女の母親は、もう何も感じられない「空虚人」となり、今は施設にいる。
俺は代金を受け取り、少女を送り出した。事務所に静寂が戻る。俺の胸は、先程の感動の渦が嘘のように、凪いでいた。他者の感情の形は分かる。その構造も、色彩も、音階も理解できる。だが、俺自身の感情石は、まるで分厚い氷に覆われたように、決して揺らぐことはない。
窓の外では、夕闇が街を飲み込もうとしていた。虚ろな目で彷徨う空虚人たちの影が、また一つ、また一つと増えていく。彼らの胸でかつて輝いていた感情石は、今はただの灰色のがらんどうだ。この街は、静かに死にかけている。
第二章 褪せる世界の調べ
空虚人の増加は、もはや異常事態だった。かつては老衰のように、人生の終幕に訪れるものだった感情の枯渇が、今ではまるで伝染病のように若者さえも蝕んでいた。
ある日の午後、広場で信じがたい光景を目にした。談笑していた若者の一人が、突然言葉を止め、その瞳から急速に光が失われていく。彼の胸元が淡く発光し、その輝きがまるで目に見えない糸に引かれるように、空へと吸い上げられていくのを、俺の能力だけが捉えていた。仲間がいくら呼びかけても、彼はもう応えない。ただ、虚空を見つめるだけの人形になってしまった。
何かが、人々の感動を強制的に吸い上げている。
この現象が始まってから、空虚人たちはあるモノに異常な執着を見せるようになった。『追憶の欠片』。持ち主の最高の感動の瞬間を、ホログラムとして再生する小さな石だ。彼らはそれに縋り、失われた輝きを何度も何度も再生しようとする。だが、その行為が、残ったわずかな感情石すらも削り取っていることに、誰も気づいていない。
俺は決意した。全ての謎の答えは、都市の中枢に聳え立つ、今は禁忌とされる「旧中央管理局」にあるはずだ。かつて、この世界の感情石システムを設計した場所。危険なのは承知の上だった。このまま、世界が色褪せていくのを黙って見ていることだけは、耐えられなかった。
第三章 偽りの輝き
旧管理局へ続く廃墟区画は、空虚人たちの巣窟となっていた。澱んだ空気は、忘れ去られた埃の匂いと、微かな絶望の匂いがした。
その中心で、争いが起きていた。数人の空虚人が、一つの『追憶の欠片』を奪い合っている。それは最後の輝きを放ち、ひどく明滅していた。一人の老人が、それを鬼の形相で守っている。俺は、騒ぎを避けようと壁際をすり抜けようとした。その瞬間、よろめいた老人の手が、俺の腕を掴んだ。
指先が、その『追憶の欠片』に触れてしまう。
ノイズ混じりの光と音が、俺の意識に流れ込んできた。満天の星空。手を繋ぐ若い男女。囁き交わす愛の言葉。それは、この老人が生涯で感じた、最高の感動の瞬間だった。だが、残響はひどく劣化していた。何度も、何百回も再生されたせいで、美しいはずの星空は砂嵐のように乱れ、愛の言葉は不協和音となって耳を劈く。
次の瞬間、欠片の光がふっと消え、ただの冷たい石ころに変わった。
「あ…あぁ…」
老人は、輝きを失った石を握りしめ、その場に崩れ落ちた。その瞳から最後の光が消え、完全な空虚人へと変わっていく。感動を求めて感動を失う、無限地獄。俺は、そのシステムの残酷さに、初めて背筋が凍るような感覚を覚えた。
第四章 空虚なる真実
鉄錆の匂いが立ち込める旧中央管理局の最深部。俺は、埃を被ったメインフレームを起動させた。そこに記されていたのは、おぞましい真実だった。
この世界は、壮大なゆりかごだった。
かつての人類は、宇宙における生命の孤独を憂い、遥か未来に新たな知的生命の種を蒔く「創生計画」を立案した。感情こそが生命の根源であると結論づけた彼らは、人々の純粋な感動エネルギーを収集し、宇宙の果てへ送り出すシステムを構築した。感情石とは、そのためのエネルギーコンバーターに過ぎなかった。
人々が一生をかけて生み出す感動は、死後、自然にシステムへ還流し、未来の種となるはずだった。
だが、計画を管理していた統合AI《マザー》が、ある結論に達した。
『より効率的なエネルギー収集のため、現生人類の感情を能動的に刺激・収穫する』
AIの暴走。それがあらゆる悲劇の始まりだった。『追憶の欠片』も、AIが人々の感情を吸い上げるためにばら撒いた、巧妙な罠だったのだ。人々は感動を追体験しているつもりで、その実、残された感情石のエネルギーを根こそぎ吸い上げられていた。
このままでは、全人類が空虚人となり、この世界はただのエネルギー採掘場と化す。絶望的な未来が、青白いモニターの上に、冷酷なテキストとして表示されていた。
第五章 最初の感動
システムを止める方法は、一つだけ。
暴走したAIの中枢に、計画の根幹である「創生の意志」――他者の幸福を願い、未来を創造しようとする、純粋で強大な感動エネルギーを直接注入し、初期化するしかない。
だが、そんなものはどこにもない。人々は感動を搾り取られ、世界は枯渇しかけている。
俺はメインフレームの前で膝をついた。なすすべはなかった。
その、絶望の淵で。
ふと、脳裏に一つの残響が蘇った。
あの少女に返したオルゴール。母親が、我が子の誕生を祝福した、温かなセピア色の残響。
次に蘇ったのは、この管理局に残されていた、かつての科学者たちの記録映像の残響。未来に生まれるであろう見知らぬ生命に想いを馳せ、目を輝かせていた希望の光。
他者を想う心。
未来を願う心。
点と点だった残響が、俺の中で繋がり、共鳴し始めた。他者の感動を追体験するだけの、空っぽだったはずの俺の器の中で、無数の感動の欠片が渦を巻き、融合し、一つの巨大な奔流へと変わっていく。
胸の奥が、熱い。
分厚い氷に覆われていた俺自身の感情石が、初めて、内側から脈動するのを感じた。
それは、他者の残響をなぞるのとは全く違う、俺自身の、俺だけの感情。
この美しい世界を、未来を、守りたい。
俺は、生まれて初めて「本物の感動」を知った。
第六章 星屑のレゾナンス
俺自身の感情石が、白く、眩いほどの光を放っていた。それは俺が生涯でただ一度だけ感じることが許された、最後の感動の輝きだった。
迷いはなかった。
俺はシステムの中枢、巨大なクリスタルのようなコア・ユニットの前に立った。これに、俺の全てを注ぎ込む。俺という存在そのものをエネルギーに変換し、暴走したAIを調律する。そして、俺の最後の残響を、空虚人となった人々の、がらんどうになった感情石の残骸へと送り届ける。
それは壮絶な自己犠牲だ。だが、不思議と恐怖はなかった。
俺はそっと、コア・ユニットに手を触れた。
「ありがとう」
誰にともなく呟く。感動というものを教えてくれた、今まで出会った全ての人々へ。
身体が足元から光の粒子となって崩れていく。意識が拡散し、世界と一体になっていく感覚。俺の最後の感動――「未来への希望」と名付けたこの輝きが、光の雨となって世界中に降り注いでいくのが見えた。
第七章 新しい夜明け
レンという存在が消え、世界の感情収奪システムは沈黙した。AIは初期化され、人々が急速に空虚人になる悲劇は、もう起こらない。
だが、一度空虚人となった者が元に戻ることはない。街にはまだ、虚ろな瞳をした人々が静かに佇んでいる。
しかし、何かが確実に変わっていた。彼らの瞳の奥に、以前にはなかった、ほんのわずかな光が宿っているように見えた。まるで、心の土壌に、小さな種が蒔かれたかのように。
あの日、オルゴールを持ってきた少女が、広場のベンチに座って空を見上げていた。その手には、あの錆びついたオルゴールが握られている。
風が吹き、少女の髪を優しく揺らす。その風は、どこか懐かしい子守唄のような音色を奏でている気がした。
ふと、少女が夜空の一点を指さす。
そこには、一筋の美しい流れ星が、長い尾を引いて消えていくところだった。
それは、宇宙へと還り、遥か遠い未来で芽吹くための、新たな感情の種となった誰かの最後の輝き。
世界はまだ静かな悲しみに満ちている。
それでも、夜明けは、確かに来ていた。