第一章 音のない図書館
その感覚は、まるで深海に沈んでいくようだった。意識が遠のく直前、水瀬湊の指先は、大学図書館の地下書庫で見つけた古びた革装丁の本の、ざらついた感触を確かに捉えていた。次に目を開けた時、彼は見知らぬ場所に立っていた。
そこは、静寂が支配する世界だった。
空は淡い琥珀色に染まり、二つの月がぼんやりと浮かんでいる。見たこともない植物が風に揺れているのに、葉擦れの音一つしない。鳥のような生き物が空を滑空していくが、羽ばたきも鳴き声も聞こえない。人々は、身振り手振りと、驚くほど多彩な表情、そして時折、掌に蛍のように明滅する柔らかな光の文字で、言葉を交わしていた。音という概念が、この世界から根こそぎ抜き取られているかのようだった。
「……ここは、どこだ?」
自分の喉から絞り出された声が、奇妙なほど大きく、そして異質なものとして響き渡ったことに湊は愕然とした。周囲の人々が一斉に彼を振り返る。その顔には恐怖と、それ以上に純粋な驚愕が浮かんでいた。彼らは耳を塞ぐ代わりに、胸に手を当てて苦しそうに顔を歪めている。まるで、未知の感覚に身体が拒絶反応を示しているかのようだ。
湊は混乱し、後ずさった。その拍子に、足元の枯れた古木に背中がぶつかる。その瞬間だった。
「あ、おはようございます……」
咄嗟に、誰に言うでもなく、習慣で口から滑り出た挨拶。それは、この異質な世界においては、雷鳴にも似た冒涜的な響きだったのかもしれない。人々がさらに身を固くする。しかし、湊の背中にあった古木が、微かに震え始めた。乾ききった黒い樹皮に亀裂が走り、その隙間から、信じられないことに、小さな、しかし生命力に満ち溢れた緑の双葉が顔を覗かせたのだ。
静寂の世界に、湊の「日本語」という音が、最初の奇跡を刻み込んだ。それは、彼自身がまだ知る由もない、恐ろしくも切ない物語の始まりを告げる、産声だった。
第二章 創造主の囁き
湊は「言使い(ことつかい)」と呼ばれるようになった。彼の発する「音」を伴う言葉が、この音なき世界「シレンティウム」に奇跡をもたらす力を持つと信じられたからだ。人々は当初こそ彼を畏怖の対象として見ていたが、その力がもたらす恩恵を知るにつれ、次第に敬意と期待を寄せるようになっていった。
彼を保護し、この世界の案内役となったのは、リアという名の聡明な少女だった。彼女は言葉を発せない代わりに、流麗な光の文字を掌に紡ぎ出し、湊に語りかけた。
『シレンティウムは、かつて“原初の言葉”によって創造されました。ですが、その言葉は失われ、世界から音と言葉が消え去ったのです。あなたの言葉は、その失われた創造の力の一部なのかもしれません』
湊は、内向的で、人と話すことよりも本と向き合う時間を好んできた青年だった。元の世界では、自分の言葉が誰かに影響を与えるなどと考えたこともなかった。だが、この世界では違った。
彼が渇いた大地に向かって「水」と呟けば、地面から清らかな泉が湧き出た。水面に映る自分の顔を見つめながら、湊は初めて自分の声の重さを知った。彼が病に苦しむ子供の手を握り、「癒し」と囁けば、その子の高熱は嘘のように引き、安らかな寝息が聞こえてくるかのような穏やかな表情になった。
村人たちは、掌に『ありがとう』という光の文字を灯し、彼に深く頭を下げた。その温かい光に照らされるたび、湊の心には今まで感じたことのない充足感が満ちていった。誰かの役に立っている。自分が必要とされている。その実感は、彼の固く閉ざされていた心の殻を、少しずつ溶かしていった。
「実り」という言葉で、痩せた畑には豊かな作物が実った。食料を手に喜ぶ人々の笑顔を見るのが、湊の何よりの喜びとなった。彼はもはや、ただの迷い人ではなかった。この音のない世界に希望をもたらす、唯一無二の存在となっていた。
リアは、そんな湊の姿をいつも静かに見守っていた。彼女の瞳には、尊敬と、そしてどこか憂いを帯びたような複雑な光が揺れていた。ある夜、二つの月がひときゆく明るく輝く下で、彼女は湊の掌に、そっと光の文字を綴った。
『あなたの言葉は、とても、美しい』
その言葉は音もなく湊の心に染み渡り、彼は自分の居場所を、確かにこの世界に見出したと信じた。この力で、この優しい人々を、リアを守っていこう。そう、強く心に誓った。彼の善意は一点の曇りもなく、純粋なものだった。だからこそ、後に知る真実は、あまりにも残酷だった。
第三章 代償の残響
変化は、静かに、だが確実に世界を蝕んでいた。
湊が「光」という言葉で夜道を照らした日、遠く離れた山の民の村では、真昼の太陽が不意に翳り、三日三晩、薄闇が続いたという。湊が「癒し」の言葉で多くの命を救う一方で、世界のどこかの森では、動物たちが理由もなく次々と命を落としていた。点と点だった不吉な噂は、やがて一本の線で結ばれ、その中心には常に「言使い」である湊がいた。
決定的な報せは、リアの故郷の村から届いた。彼女の故郷は、豊かな水源と緑に恵まれた土地だったはずだ。しかし、旅人の掌が伝える光の文字は、信じがたい現実を映し出していた。
『村が、砂に沈んでいく。水が枯れ、草木は一夜にして朽ち果てた』
その惨状は、湊がこの村に来て、「水」を湧かせ、「実り」をもたらした時期と正確に一致していた。
湊の力は「創造」ではなかった。
それは、世界の理を捻じ曲げ、存在するものを一方から奪い、もう一方へ強制的に移動させる、恐るべき「等価交換の消去」の力だったのだ。彼は救世主などではなかった。ただ、世界の限られた資源を奪い合い、均衡を破壊するだけの、疫病神。いや、無自覚な「咎人」だった。
その事実を突きつけられた湊は、血の気が引くのを感じた。自分の善意が、優しさが、誰かの不幸の上に成り立っていた。自分が豊かにしたこの村の笑顔の裏で、リアの故郷が死にかけていた。
「……あ……あぁ……」
声にならない声が漏れる。その音にすら、彼は恐怖した。この声が、この言葉が、また世界のどこかを破壊するのではないか。湊は自分の口を両手で固く塞いだ。自分の存在そのものが呪いであるという絶望が、彼の全身を叩きのめした。
彼は話すことをやめた。言葉を捨て、沈黙を選んだ。かつて人々に希望を与えた唇は、今は世界の崩壊を恐れて固く結ばれている。あれほど嬉しかった村人たちの感謝の光も、今では彼の罪を告発する断罪の光にしか見えなかった。
リアが、やつれた顔の湊のそばに寄り添う。彼女は何も言わず、ただ彼の背中を優しく撫でた。彼女の故郷を滅ぼしたのは、紛れもなく自分なのに。その無言の優しさが、鋭い刃のように湊の心を抉った。彼は救世主から咎人へと堕ちた。そして、自分が愛したこの静寂の世界を、自らの手で壊しているという事実に、ただ打ちひしがれることしかできなかった。
第四章 最期の言の葉
沈黙は、解決にはならなかった。湊の存在そのものが、シレンティウムの理と相容れない異物である以上、世界の歪みは広がり続ける一方だった。大地はひび割れ、琥珀色の空には不気味な亀裂が走り始めていた。世界の終焉が、すぐそこまで迫っていた。
絶望に沈む湊の前に、リアが立った。彼女の瞳は悲しいほどに澄み渡り、覚悟を決めた者の強さを宿していた。彼女は湊の手を取り、その掌に、最後の真実を光で紡いだ。
『世界を救う方法は、一つだけ。あなたが、この世界から消えること。そして、あなたがもたらした歪みを元に戻すには、あなたがここに現れてから発した、全ての言葉の概念を消し去る必要があるの』
それは、湊という存在の完全な消滅を意味していた。彼がこの世界で築いた絆も、人々の記憶も、全てが「なかったこと」になる。
湊は、静かに頷いた。もう、迷いはなかった。自分が犯した罪を償う方法が、まだ残されていたのだ。彼は、自分が与えた以上のものを、この世界から奪ってしまった。ならば、最後に自分の全てを差し出すのが、唯一の贖罪だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、村の中心へと歩き出した。空の亀裂から、世界の終わりを告げるかのように、音のない光が降り注いでいる。人々が不安げに彼を見つめていた。
湊は、深く息を吸った。最後に、どの言葉を紡ぐべきか。
リアへの感謝か。この世界への謝罪か。それとも、元の世界への郷愁か。違う。この世界の歪みを正すために消すべきは、全ての原因となった異物そのもの。この世界に存在してはならない、根本的な概念。
それは、彼自身。
彼は、愛おしむようにリアを見つめ、そして空を仰いだ。彼の唇から、この世界で最後の、そして最も強力な言葉が紡がれた。それは、彼がこの世界で最も大切にされた、彼自身の名前。
「――湊」
その音を発した瞬間、湊の身体が足元から光の粒子となって崩れ始めた。彼が「水」と言って生み出した泉は霧となり、「実り」と言って実らせた作物は土に還っていく。彼がもたらした奇跡が、まるで幻だったかのように消えていく。世界の歪みが、急速に修復されていくのが分かった。
人々の記憶からも、水瀬湊という「言使い」の存在が薄れていく。彼らは、なぜここに集まっていたのかも分からず、不思議そうな顔で空を見上げている。
消えゆく意識の中、湊はリアを見た。彼女だけが、涙を流しながら、彼を、ただ彼だけを、まっすぐに見つめていた。ありがとう。ごめん。さよなら。たくさんの想いが込み上げたが、もう言葉にはならなかった。
湊の存在が完全に消え去った後、世界には完全な静寂が戻った。空の亀裂は塞がり、大地は元の姿を取り戻した。まるで、最初から何もなかったかのように。
誰の記憶にも、異世界から来た青年の姿はない。
ただ、リアの掌にだけは、彼が消える直前に残した、決して消えることのない温かい光の文字が、一つだけ残っていた。
『さよなら』
リアはその光を強く握りしめた。なぜ涙が流れるのか、この胸を締め付ける喪失感が何なのか、彼女にももう分からなかった。それでも、この掌に残る温もりだけが、かつてこの音のない世界に、誰よりも優しい声で言葉を紡いだ青年がいたことを、永遠に告げ続けていた。