第一章 沈み込む書店と彼女の涙
神保町の古書街の片隅に佇む『遠近書房』。その店主である僕、篠宮奏(しのみや かなで)の一日は、古紙とインクの匂い、そして静寂と共に始まる。僕は、過剰な感情が苦手だった。それは単なる性格ではなく、もっと物理的な理由による。強い感情は、僕の周りの空間を歪ませる。喜びは空気を軽くし、怒りは部屋の温度を上げる。そして悲しみは――重力を増す。
だから僕は、感情の波が凪いだこの場所を愛していた。背表紙を眺める客たちの静かな探究心。物語に没入する彼らの心は、僕に影響を与えないほど遠い世界にある。それが僕にとっての平穏だった。
その平穏が破られたのは、梅雨寒の日の午後だった。
ドアベルがちりんと鳴り、一人の女性が入ってきた。濡れた傘から滴る雫が、使い古された床板に小さな染みを作る。彼女は、棚から棚へと、まるで迷子の蝶のように頼りなく彷徨っていた。そして、詩集が並ぶ一角で、ぴたりと足を止めた。
彼女が手に取ったのは、一冊のマイナーな詩人の作品集だった。その背表紙を指でなぞった瞬間、事件は起きた。
「……っ」
彼女の喉から、押し殺したような嗚咽が漏れた。次の瞬間、僕の足元がぐにゃりと歪んだ。まるで床が沼に変わったかのように、足が数センチ沈み込む感覚。店中の空気が鉛のように重くなり、棚の上の小さな置物がカタカタと震えた。
これは、ただの悲しみじゃない。絶望に近い、底なしの悲哀だ。
女性はその場に崩れるように蹲り、肩を震わせ始めた。彼女から発せられる「重さ」は凄まじく、僕は本棚に手をつかなければ立っていられないほどだった。他の客が何事かと彼女に視線を送るが、彼らはこの異常な重力変化に気づいていない。この現象を知覚できるのは、おそらく、僕と彼女だけ。
「大丈夫、ですか」
声を絞り出す。一歩近づくだけで、見えない力に押し返されるような圧迫感があった。彼女、雨宮響(あまみや ひびき)との出会いは、僕の世界の均衡を揺るガす、あまりにも重いものだった。
響の涙が乾く頃、店内の空気もようやく元の重さに戻った。僕は彼女に温かいハーブティーを出し、事情を尋ねる代わりに、僕自身の体質のことを打ち明けた。
「感情が、周りに影響を与えてしまうんです。特に、悲しみは重くなる」
僕の言葉に、響は虚ろな目で僕を見つめ返した。
「……あなたも、なの?」
その一言で、僕たちは互いが同じ孤独を抱えている同類だと理解した。彼女の悲しみの理由は、一月前に最愛の弟を事故で亡くしたことだった。その詩集は、弟が彼女にプレゼントしてくれた最後のものだったという。彼女の悲しみの質量に、僕は納得せざるを得なかった。
僕たちは、互いが世界で唯一の理解者であるかのように、言葉を重ねた。僕の平穏は破られた。だが不思議と、後悔はなかった。彼女の存在が、僕の静止した世界に、初めて意味のある揺らぎをもたらしたからだ。
第二章 触れられないセンチメートル
僕と響は、惹かれ合っていた。だが、僕たちの恋愛は、常に目に見えない「重さ」との戦いだった。
初めてのデートは、井の頭公園だった。ボートには乗れない。彼女が心から笑えば、その喜びが僕の体を浮かせてしまい、バランスを崩して水に落ちるだろう。僕が緊張すれば、その不安がボートを重くして沈めてしまうかもしれない。僕たちは結局、池のほとりのベンチの両端に、安全な距離を保って座った。
「カナデくんって、いつも落ち着いてるよね」
響が、少し寂しそうに言った。
「なんだか、私だけが感情を振り回して、あなたに重荷を背負わせてるみたい」
「そんなことはない」と僕は首を振る。
「君の喜びは、僕を軽くしてくれる。空を飛べそうな気分になるんだ。こんな感覚、初めてだよ」
その言葉に、彼女の表情がぱっと明るくなった。途端に、僕の体がふわりと軽くなるのを感じる。アスファルトに縫い付けられていた靴底が、ほんの少しだけ浮き上がるような、心地よい浮遊感。僕は慌ててベンチの背もたれを掴んだ。
響は楽しそうに笑い、それから悪戯っぽく唇を尖らせて、悲しい映画の話を始めた。すると今度は、ずしりとした重みが肩にのしかかる。僕たちは、まるでシーソーに乗っているかのように、互いの感情の揺れを物理的に体感し合った。
触れ合うことは、禁忌だった。
映画館では数列離れて座り、美術館では同じ絵の前には立たない。手を繋げば、僕の些細な不安や彼女の微かな感傷が、ダイレクトに混ざり合い、予測不能な「重さ」を生んでしまうだろう。僕たちは、愛しているからこそ、近づけなかった。
感情を抑制することに長けていた僕は、感情豊かな彼女を守るため、より一層、心を平坦に保つよう努めた。それは僕にとって慣れた作業のはずだった。しかし、響と過ごす時間が増えるほど、僕の内側で何かが変わり始めていた。彼女の笑顔をもっと見たい。彼女の悲しみを、たとえ重くてもいいから受け止めたい。僕の心に、これまで知らなかった感情の起伏が生まれ始めていた。
ある夜、電話で話していると、響がふと呟いた。
「ねえ、もしも私たちが、この体質じゃなかったら。普通に手をつないで、普通に抱きしめ合えたのかな」
その声に含まれた微かな悲しみが、受話器を通して重さとなって僕の胸を圧迫した。僕は答える代わりに、窓の外を見上げた。月が、完璧な均衡を保って夜空に浮かんでいる。僕たちの間にある、数十センチから数メートルの距離。それは、互いを思いやるがゆえに決して越えられない、宇宙のように果てしない隔たりに思えた。
第三章 無重力の抱擁
運命の日は、突然やってきた。響から、震える声で電話がかかってきたのだ。
「お母さんが……倒れたの」
彼女の弟が亡くなって以来、気丈に振る舞っていた母親が、ついに心労で倒れたという。電話口からでも、これまで経験したことのないほどの質量を持った絶望が、津波のように押し寄せてくるのがわかった。
「来ないで、カナデくん!お願いだから……!今、私のそばに来たら、あなたまで潰れちゃう……!」
悲鳴のような響の声が、僕の決意を固めさせた。
僕はタクシーを飛ばし、彼女がいる病院へと向かった。病室の前に着くと、ドアの隙間から、空気が歪むほどの凄まじいプレッシャーが漏れ出していた。廊下の床がきしみ、壁にかかった絵が傾いている。中にいる彼女が、どれほどの重さに耐えているのか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
ドアを開ける。
響は、母親が眠るベッドの脇で、床にうずくまっていた。まるで全身に何トンもの重りがのしかかっているかのように、小さな体で自らの悲しみの引力に耐えていた。
「ひびき……っ」
「来ちゃ、だめ……!」
彼女は顔を上げない。僕をこれ以上、彼女の重力圏に引き込みたくないのだろう。床はゼリーのように柔らかく感じられ、一歩踏み出すごとに足が沈む。でも、僕はもうためらわなかった。
感情を抑えるな。僕が今すべきなのは、均衡を保つことじゃない。彼女の全てを受け止めることだ。
僕は、沈み込む床を必死に進み、彼女の震える背中に手を伸ばした。
「カナデくん、やめて!」
彼女の絶叫と同時に、僕の指先が、彼女の肩に触れた。
その瞬間、世界から一切の重さが消えた。
予想していた衝撃は来ない。代わりに、僕の体を突き抜けたのは、想像を絶するほどの悲しみ、後悔、そして無力感の奔流だった。それは「重さ」ではなかった。もっと純粋な、魂そのものの痛みだった。
そして、僕の腕の中で、響の体がふわりと浮き上がった。
「え……?」
呆然とする彼女の体は、まるで重力から解放されたかのように軽くなっていた。僕が彼女に触れたことで、彼女を苛んでいた全ての「重さ」が、僕の内に流れ込んできたのだ。
共有じゃなかった。交換でもない。これは、完全な「移行」だ。
愛する人に触れるということは、相手の感情の重さを、自分の魂に肩代わりすることだったのだ。僕たちが恐れていた禁忌は、実は、究極の愛情表現だった。
「ああ……」
響の全ての悲しみを引き受けた僕の体は、もう立っていることができなかった。僕はその場に崩れ落ちる。体は鉛のように重いが、心は奇妙なほど満たされていた。誰かのために、自分の全てを差し出すこと。それが、これほどの歓びを伴うものだとは知らなかった。
腕の中で、無重力になった響が、涙の浮かんだ瞳で僕を見つめていた。僕が彼女の悲しみを全て引き受けたのだと、彼女は悟ったのだろう。
「カナデくん……」
彼女は、生まれて初めて重力から解放されたかのように、軽やかに僕を抱きしめ返した。その抱擁には、もう僕を押し潰す重さはなかった。
第四章 ふたりの引力
僕が響の悲しみを引き受けてから、数ヶ月が過ぎた。
僕の日常は、常に微かな重さを引きずっている。朝、ベッドから起き上がるのが少し億劫で、階段を上るのが前より少しだけ辛い。それは、響から受け取った悲しみの残滓だった。だが、その重さは決して不快なものではなかった。むしろ、それは僕が彼女を愛し、彼女の痛みの一部になったという、温かい証のように感じられた。
一方の響は、驚くほど明るくなった。悲しみの重圧から解放された彼女は、以前よりも自由に笑い、自由に感動するようになった。彼女の感情は相変わらず豊かだったが、それが僕に直接的な重圧を与えることはもうない。僕たちは、ようやく、普通に手をつなぎ、隣り合って歩けるようになった。
ある晴れた日、僕たちは以前訪れた公園のベンチに座っていた。今度は、隣同士に。
「まだ、重い?」
響が、僕の顔を覗き込みながら尋ねた。
「少しだけね。でも、大丈夫。この重さは、君を想う重さだから」
僕は微笑んで答えた。僕たちは学んだのだ。愛とは、重荷をなくすことではない。その重さを、どう分かち合うかということなのだと。
響は黙って僕の手を取り、自分の胸に当てた。
「今度は、私の番」
彼女は、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「あなたのその重さを、少しだけ私にちょうだい。あなたが私の悲しみを引き受けてくれたように、私もあなたの重さを、愛したいから」
彼女の指先に、かすかな力がこもる。僕は、彼女が僕の重さを自ら引き受けようとしているのを感じた。それは、自己犠牲ではない。僕たちが二人で生きていくための、新しい引力の法則の発見だった。
僕たちは、これからも互いの重さを引き受けたり、預け合ったりしながら生きていくのだろう。時には一人で背負い込み、時には二人で分かち合う。完璧な均衡など存在しない、不器用で、重たくて、それでもどうしようもなく愛おしい、ふたりだけの引力圏の中で。
僕はそっと目を閉じた。肩にかかっていた重みが、ほんの少しだけ軽くなるのを感じる。それは、僕の心を温める、世界で一番優しい重さだった。