嘘喰いの見た夢

嘘喰いの見た夢

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第一章 嘘喰いと琥珀の結晶

カイの仕事は、世界の澱みを掻き出すことだった。人々が「嘘」と呼ぶ、目に見えぬはずの感情の残滓。この街では、嘘は形を持つ。些細な見栄やごまかしは灰色の塵となり、悪意に満ちた欺瞞は粘つく黒いタールとなって、路地裏や人の心の隅に溜まっていく。カイは、そんな「嘘塊(きょかい)」を特殊な燐光灯で炙り、消滅させることを生業とする「嘘喰い」だった。

彼にとって、嘘はすべて等しく醜悪な汚物だった。真実こそが揺るぎない価値であり、いかなる理由があろうと、嘘は世界を歪める病巣に過ぎない。その信念は、彼の両目を氷のように冷たくさせ、人との間に見えない壁を築いていた。

その日、カイが訪れたのは、蔦の絡まる寂れた屋敷だった。依頼主は、最近亡くなったという屋敷の主の孫娘からだった。「祖母が遺した、一番大きな嘘を片付けてほしいんです」電話越しの声は硬く、震えていた。

埃と黴の匂いが混じり合うホールを抜け、案内されたのは屋敷の最奥にある書斎だった。そしてカイは、息を呑んだ。

そこに鎮座していたのは、彼がこれまで対峙してきた、およそ全ての嘘塊とは似ても似つかぬものだった。

それは、人の背丈ほどもある巨大な結晶体だった。磨き上げられた琥珀のように透き通った蜂蜜色で、その内部からは、まるで呼吸するかのように、淡く、温かい光が明滅している。表面は滑らかで、指でなぞれば心地よい音色を奏でそうだ。邪悪な気配も、澱んだ空気も一切ない。むしろ、神聖ささえ感じさせるその佇まいに、カイは言葉を失った。

「これが……嘘?」

彼の呟きに、依頼主の娘――リナと名乗った――がこわばった顔で頷いた。「ええ。祖母が生涯をかけてつき続けた、たった一つの、巨大な嘘です」

リナの瞳には、結晶に向けられた憎しみと、拭いきれない悲しみが浮かんでいた。カイは混乱していた。醜悪であるはずの嘘が、なぜこれほどまでに美しい形をとるのか。彼の信じてきた世界の法則が、目の前で音を立てて軋み始めた。この琥珀色の謎を解き明かすまで、自分はこの場を動けないだろうと、カイは直感していた。

第二章 偽りの系譜

「あの結晶を、跡形もなく消してください。それが私の願いです」リナは、カイにそう言って深々と頭を下げた。彼女は、祖母の嘘が家族の間に不和をもたらし、両親を苦しめ、結果的に一家を不幸にしたと信じ込んでいた。

カイは、すぐには仕事に取り掛かれなかった。あの結晶が放つ静謐な光が、彼の心を捉えて離さなかったからだ。彼は嘘喰いの矜持として、対象を完全に理解するまで手は下さないと決め、老婆の過去を調べることにした。

リナの許可を得て、カイは屋敷に残されたものを調べ始めた。埃を被ったアルバムには、穏やかに微笑む老婆と、少し寂しげな表情のリナが写っていた。日記や手紙の類は見当たらない。まるで、意図的に過去を消し去ったかのようだ。

カイは街へ出て、老婆を知る人物を探した。市場の老人、隣家の主婦、誰もが口を揃えて老婆を「慈愛に満ちた、素晴らしい人だった」と褒めそやした。しかし、彼女の家族の話になると、皆一様に口を噤み、憐れむような視線をカイに向けるのだった。

「あのお方は、大きな秘密を抱えておられたからのう」古道具屋の主人が、ぽつりと漏らした。「誰かを、命懸けで守っておられた。そのために、たった一つだけ、大きな嘘をつかねばならなかったんじゃ」

その言葉が、カイの心に小さな棘のように刺さった。命懸けで守るための、嘘。そんなものが、存在するのだろうか。

数日後、調査に行き詰まったカイは、再びあの書斎を訪れた。琥珀の結晶は、変わらず静かな光を放っている。カイは無意識に、その滑らかな表面に手を伸ばした。ひんやりとしているが、どこか生き物のような温もりが伝わってくる。その瞬間、書棚の陰に隠された小さな引き出しが、カチリと音を立ててわずかに開いた。

中には、一冊の古びた日記帳が収められていた。老婆の筆跡だ。カイは息を殺してページをめくった。そこには、老婆の苦悩と、ある存在への狂おしいほどの愛情が、インクの滲みと共に綴られていた。

『あの子が、ただ人として幸せに生きてくれるなら、私はどんな嘘つきにでもなろう』

『この秘密が、あの子を傷つける刃となりませんように』

『私の嘘が、あの子を守る温かい繭となりますように』

日記は、ある特定の人物――彼女が「私の光」と呼ぶ存在――を守るための決意で満ちていた。しかし、その「光」が誰なのか、最後まで明かされることはなかった。ただ、カイの脳裏には、アルバムの中で寂しげに笑っていた少女、リナの顔が浮かんでいた。

第三章 愛が紡いだ真実

日記の最後のページに、一枚の古びた紙片が挟まっていた。それは、この地方の古い伝承を書き写したものだった。

『森の奥深く、月の雫を浴びて生まれた精霊は、人の形をとる。だが、その命は短く、触れた人間の生気を吸い、やがては災いを呼ぶ……』

カイの背筋を、冷たい汗が伝った。彼は慌てて古道具屋の主人の元へ駆け込み、この伝承について尋ねた。主人は重い口を開いた。

「六十年ほど前、この街は大きな災厄に見舞われた。森から現れた美しい精霊が、次々と村人の命を奪っていったんじゃ。討伐隊が森を焼いたが、その時……赤子が一人、焼け跡に残されておった」

その赤子は、災厄を呼んだ精霊の忘れ形見だった。村人たちは、その子を処分しようとした。その時、一人の若い女が皆の前に立ちはだかり、こう宣言したという。

「この子は、私の娘です。私が責任をもって育てます」

その女こそ、若き日の、屋敷の老婆だった。

カイの頭の中で、すべてのピースが繋がった。老婆がつき続けた、たった一つの巨大な嘘。それは、「リナは自分の孫である」という嘘だった。リナこそが、あの精霊の子だったのだ。

老婆は、リナが人間として幸せに生きられるよう、彼女の出自という真実を隠し通した。リナが家族の不和の原因だと思っていた出来事は、すべて彼女の特異な体質――無意識に周囲の生気を吸ってしまう――から人々を遠ざけ、彼女自身を守るための、老婆の苦肉の策だったのだ。村人たちも、老婆の覚悟を知り、長年その嘘に加担してきた。だから誰もが口を噤んだのだ。

書斎に戻ったカイは、琥珀色の結晶を呆然と見つめた。これは、欺瞞や悪意の塊ではない。一人の人間が、愛する者を守るためだけに紡ぎ続けた、六十年分の献身と愛情の結晶だった。だからこそ、こんなにも清らかで、温かい光を放っているのだ。

「嘘は、すべて醜悪なものだと思っていた……」

カイの足元が、ぐらりと揺れた。彼が寄りかかっていた世界の法則、彼の生きる意味そのものが、根底から覆された瞬間だった。彼は嘘喰い。嘘を憎み、消し去る者。だが、目の前にあるこの美しい「嘘」を、彼はどうすればいいのか。真実を告げれば、リナは自分が人間ではないという事実に絶望するだろう。しかし、このままにしておくことは、嘘を肯定することになる。カイは、生まれて初めて、嘘の前で立ち尽くしていた。

第四章 壊されなかった嘘

数日間、カイは屋敷に泊まり込み、琥珀の結晶の前で過ごした。その光は、まるで老婆の魂が語りかけてくるようだった。それはカイに、真実と嘘の二元論では計れない、世界の複雑さと、その奥にある人の想いの深さを教えていた。

やがて、カイは決意を固めた。彼はリナを書斎に呼んだ。リナは、カイがまだ仕事を終えていないことに苛立ちを隠せない様子だった。

「まだ壊せないのですか?そんなに厄介な嘘なのですか?」

カイは静かに首を振った。そして、燐光灯を手にすることなく、リナの目をまっすぐに見つめて言った。

「この結晶は、壊さない」

「……どういうことですか」リナの声が震える。

カイは言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。「リナさん。君のお祖母さんは、嘘つきだったのかもしれない。でも、それは君を不幸にするためじゃなかった。逆だ。彼女は、君を誰よりも深く、強く、愛していた。この結晶は、その六十年分の愛が形になったものだ。いわば、君のお祖母さんの、魂そのものなんだ」

彼は、リナの出自という「真実」には触れなかった。それは、老婆が命懸けで守った秘密であり、今のリナにはあまりにも重すぎる荷物だった。カイは、嘘喰いでありながら、生まれて初めて、嘘を守ることを選んだのだ。

「真実が何であったとしても、君が深く愛されていたという事実だけは、決して揺らがない。この結晶がその証拠だ」

リナは、カイの言葉と、琥珀の光を交互に見つめ、やがてその場に崩れるようにして泣き出した。それは憎しみの涙ではなく、ようやく祖母の愛に触れることができた、安堵と悔恨の涙だった。結晶は、彼女の涙に呼応するように、一層優しく、温かい光を放った。

カイは静かに屋敷を後にした。報酬は受け取らなかった。彼が得たものは、金銭では計れない、価値観の変革という、あまりにも大きな報酬だったからだ。

嘘喰いの仕事は続く。だが、彼の仕事への向き合い方は、もはや以前とは違っていた。彼は街に溜まる嘘塊を消し去りながらも、その背景にある人の弱さや、悲しみ、そして、ごく稀に存在する優しさに想いを馳せるようになった。

ある夕暮れ時、カイは公園のベンチで、小さな男の子が転んで泣いているのを見かけた。駆け寄ってきた母親に、男の子は涙をこらえて言った。「へっちゃらだよ!痛くないもん!」

その瞬間、男の子の足元から、蛍のような、小さくて温かい光の粒がふわりと浮かび上がった。それは、母親を心配させまいとついた、優しい嘘の欠片だった。

以前のカイなら、躊躇なくそれを消し去っていただろう。だが、彼はただ黙って、その小さな光が夕闇に溶けていくのを見送った。そして、彼の口元には、自分でも気づかないうちに、微かな笑みが浮かんでいた。世界は、彼が思っていたよりもずっと、複雑で、哀しくて、そして美しいのかもしれない。カイは、琥珀色の光を心に灯しながら、ゆっくりと歩き出した。

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