鼓動の在り処、空白の傷痕
第一章 溶け合う鼓動
僕の心臓は、とても臆病だ。親しい誰かがすぐそばにいて、その存在を感じていないと、自分の鼓動の音が周囲の雑音に紛れて、やがて溶けて消えてしまう。だから僕は、いつも誰かと一緒にいた。とりわけ、シロの隣は格別だった。彼の静かな呼吸音、隣を歩く時の規則正しい足音、それらが僕の心臓に確かなリズムを教えてくれる。
この世界は、「共有された感情」が形を成す。喜びは光となり街を照らし、悲しみは雨となって大地を濡らす。僕の体に刻まれたいくつかの細い線は、友人たちと分かち合った小さな痛みの記憶だ。彼らの心の傷が、共感を通して僕の皮膚に具現化した証。それは、僕が彼らと繋がり、この世界に確かに存在しているという証明でもあった。
けれど、奇妙なことが一つだけあった。最も親しく、僕の存在の錨であるはずのシロ。彼の心の傷だけが、ただの一度も僕の体に現れたことがないのだ。
「シロは、本当に強いんだね」
夕暮れの公園のベンチで、僕はそう呟いた。橙色の光が世界を柔らかく包んでいるが、よく見ると遠くの建物の輪郭が、水彩絵の具のように滲んで見えた。最近、世界の質感が少しずつ失われている気がする。
「強いかな」
シロは、どこか遠くを見つめながら静かに微笑んだ。その微笑みは綺麗だったが、まるで薄いガラス越しに見ているような、現実感のない儚さをまとっていた。僕の心臓は、彼の隣にいるのに、トクン、トクンと、どこか心許ない音を立てていた。
第二章 希薄な現実
世界の希薄化は、日増しに顕著になっていった。街角のカフェから漂うはずの香ばしい珈琲の香りは薄れ、人々の笑い声はくぐもって遠くに聞こえる。共有されるべき感情の総量が減り、世界がその実体を失いかけているのだと、誰もが噂した。まるで、古い写真が色褪せていくように、僕たちの現実はゆっくりと白紙に戻ろうとしていた。
僕は焦っていた。この世界の崩壊と、シロの傷が僕の体に現れないことの間に、何か関係があるのではないか。その疑念が、胸の中で冷たい靄のように広がっていく。
ある雨の日、僕らは図書館の窓際で、濡れた街を眺めていた。悲しみの雨のはずなのに、窓を叩く音はか細く、地面に水たまりを作る力もなかった。
「ねえ、シロ」
僕は、意を決して切り出した。
「君は、何か隠してるんじゃない? 僕に共有できないほど、深い傷があるんじゃないの?」
シロは僕の視線から逃れるように、窓の外へ目を向けた。ガラスに映る彼の横顔は、いつも以上に白く、透き通って見えた。
「僕に、アオイに具現化するような深い傷なんてないよ」
その声は、凪いだ水面のように穏やかだった。けれど、その静けさの底に、計り知れないほどの何かが沈んでいる気がしてならなかった。彼の言葉は、僕の不安を拭うどころか、より一層濃く塗り重ねるだけだった。
第三章 氷の羽飾り
シロの部屋は、いつも静謐な空気に満ちていた。余計なものは何一つなく、彼の存在そのものを映したかのように、がらんとしている。僕が彼の部屋を訪ねたのは、世界の異変の原因がここにあるという、ほとんど確信に近い予感に導かれてのことだった。
本棚の隅に、それを見つけた。
掌に乗るほどの、精巧な氷細工の羽飾り。部屋の明かりを吸い込んで、青白い光を放っている。まるで、凍てついた吐息そのものが結晶になったかのようだ。触れてもいないのに、指先に突き刺すような冷気が伝わってくる。
「それは?」
僕が問いかけると、シロは少しだけ目を見開いた。
「……ただの、古い飾りだよ。昔、ここで見つけたんだ」
嘘だ、と直感した。僕がそれに手を伸ばそうとした瞬間、シロが弾かれたように僕の腕を掴んだ。その力は驚くほど強く、彼の必死さが伝わってきた。
「触らないでくれ!」
今まで聞いたことのない、張り詰めた声。彼の瞳には、苦悩と、そして恐怖のような色が浮かんでいた。その表情を見た時、僕の中で最後の疑念が砕け散った。この羽飾りが、全ての謎を解く鍵なのだと。
第四章 触れた記憶
その夜、僕は再びシロの部屋に忍び込んだ。眠りについた彼の穏やかな寝顔は、まるで彫像のようだ。感情の揺らぎが一切見えない。僕は罪悪感を覚えながらも、本棚の上の「氷の羽飾り」に、そっと指を伸ばした。
触れた瞬間、世界が反転した。
冷気が全身を駆け巡り、僕の意識は眩い光の奔流に飲み込まれていく。
――気づくと、僕は見知らぬ丘の上に立っていた。隣には、今よりも少し幼いシロがいる。これが、僕たちが初めて出会った日だ。一人でいる恐怖に心臓が消えそうになっていた僕に、彼が声をかけてくれた。
「君の鼓動、僕に聞かせて」
そう言って、彼は僕の胸に耳を寄せた。その瞬間、二人の間に生まれた安らぎと喜びの感情が、世界に溢れ出し、丘一面に見たこともない花々を咲かせた。僕たちは笑い合った。この世界で、ようやく自分の居場所を見つけたと、心からそう思った。
しかし、風景は暗転する。
世界が色褪せ始めた、あの日。人々が感情の共有をためらい、世界から力が失われていく。僕の心臓が、再び消えかける恐怖に苛まれ始めた時、シロは一人で決意していた。
『アオイが安心して鼓動を刻める世界を守る。そのために、僕の全てを捧げよう』
彼の孤独な決意が、痛いほど伝わってくる。シロは、自らの内にあった喜び、悲しみ、怒り、愛情、その全ての感情を凝縮し、凍結させた。そして、それを世界の綻びを繋ぎ止める「核」として、現実の基盤に埋め込んだのだ。
彼の感情が世界を支える楔となった。その代償は、彼自身の感情の完全な喪失。
「氷の羽飾り」は、その壮絶な儀式の際に、彼の中からこぼれ落ちた、僕への「友情」という感情の、最後の、そして唯一の欠片だったのだ。
第五章 空白の傷痕
意識が現実に戻る。目の前には、眠り続けるシロの姿。
僕は、全てを理解した。彼の傷が僕の体に現れなかった理由。それは、傷が「痛み」や「悲しみ」といった感情ではなかったからだ。シロの傷は、感情そのものがごっそりと抜け落ちた「存在の空白」。形を持つことのできない、絶対的な無。だから、具現化のしようがなかったのだ。
世界を救うために、彼は自らを空っぽにした。僕が鼓動を失う恐怖に怯えなくて済むように、彼は感情を失う痛みさえも感じられない存在になった。
涙が溢れて止まらなかった。彼が一人で背負ったものの重さに、胸が張り裂けそうだった。
僕はベッドの傍らに膝をつき、彼の冷たい手を握った。決意は、もう固まっていた。
君が僕を守ってくれたように、今度は僕が君を救う番だ。
「シロ、聞こえる?」
僕は囁きかけた。
「君の空白を、僕がもらう。僕の恐怖と、交換しよう」
僕は自らの胸に手を当てた。絶え間なく僕を苛む、心臓が消えることへの根源的な恐怖。僕が持つ最も強い、最も純粋な感情。それを、凍てついた彼の心へと、祈るように送り込む。そして、もう片方の手で、「氷の羽飾り」を強く、強く握りしめた。
第六章 再生する世界
僕の恐怖と、羽飾りに宿るシロの友情が、共鳴した。
凍てついた氷が、内側から熱を帯びていく。
握りしめたシロの手が、ぴくりと震えた。閉ざされた彼の瞼から、一筋の雫が静かにこぼれ落ちた。それは、長すぎる冬の終わりに訪れた、最初の雪解け水だった。
その瞬間、僕の胸を、今までに感じたことのない激痛が貫いた。
息が詰まるほどの痛み。それは、シロが感情を失っていた間の、計り知れない孤独と虚無。彼の「空白」が、僕の「恐怖」と交換され、初めて感情の形を得て、僕の体に傷として刻まれたのだ。
胸に現れた傷痕は、まるで凍てついた茨が心臓に深く巻き付くような形をしていた。痛い。けれど、その痛みは不思議なほど温かかった。それは、シロの存在そのものを、僕がようやく共有できた証だったから。
僕たちの感情が完全に溶け合った時、窓の外の世界が、鮮やかな色彩を取り戻していくのが見えた。くぐもっていた音は明瞭になり、空気は芳醇な香りで満たされる。希薄だった現実が、確かな手触りと重みを取り戻していく。
ゆっくりと、シロが目を開けた。その瞳には、もうガラスのような隔たりはない。感情の光が、瑞々しく揺らめいていた。
「……アオイ」
掠れた声で、彼は僕の名を呼んだ。
僕は痛む胸を押さえながら、精一杯の力で微笑んだ。
「おかえり、シロ」
僕の胸に刻まれた傷痕は、もう二度と消えることはないだろう。だが、それでいい。これは、友情が時に痛みを伴いながらも、世界さえ救うほどの力を持つことを示す、永遠の証なのだから。僕とシロは、この傷と共に、確かな鼓動を刻んで生きていく。