残響のクロニクル
第一章 疼く残響
俺の名は奏(ソウ)。王立古文書館の片隅で、埃を被った羊皮紙の記録を写し続ける記録吏だ。だが、俺の本当の仕事は、書物に記された文字をなぞることではない。俺は、歴史からこぼれ落ちた、名もなき人々の「声」を聞く。
それは祝福ではなく、呪詛に近い。頭蓋の内側で、幾千、幾万もの後悔と願いが絶えずぶつかり合い、ガラスの破片のような不協和音を奏でる。おかげで、俺の人生は鈍い頭痛と共にあった。人々が歴史と呼ぶものは、勝者の都合で編まれた壮麗なタペストリーだ。しかし俺の耳に届くのは、その織り目から抜け落ちた、無数の短い糸屑たちの、救われぬ囁きだった。
「大いなる統合戦争」の終結地として知られる「嘆きの平原」の土を、俺は時折、密かに嗅ぎに行く。歴史の大きな転換点。その場所の土壌は、百年経っても微かな血の匂いを放つのだ。錆びた鉄と、遠い悲鳴が入り混じったような、むせ返る匂い。それが俺にとっての、唯一確かな歴史の感触だった。
だが、最近になって異変が起きた。いつもの頭痛に混じり、奇妙な「無音」の響きが聞こえ始めたのだ。それは声ですらない。音が存在すべき場所に、ぽっかりと空いた穴。その空白は、他のどんな悲鳴よりも深く俺の神経を苛んだ。そして今日、「嘆きの平原」に立った俺は、血の匂いと共に、その空白が恐ろしい速度で広がっているのを感じた。まるで、世界そのものが巨大な消しゴムで、ゴシゴシと乱暴に擦られているような、不吉な予感だった。
第二章 白紙の頁(ページ)
「時空が、揺らいでおる」
古文書館の最奥、インクと古紙の匂いが満ちた部屋で、師である老記録吏エルダーは、蝋燭の炎を見つめながら呟いた。皺だらけの指が、俺の差し出した報告書をゆっくりと撫でる。俺は、日に日に強くなる「空白の響き」と、街の辻々で見かけるようになった陽炎のような空間の歪みを報告していた。
「奏よ、お前のその耳は、世界の綻びを誰よりも早く察知する。もはや、看過できぬ段階に来たのかもしれん」
エルダーは立ち上がると、鍵のかかった古い木箱から、一冊の書物を取り出した。黒い革で装丁された、何の飾り気もない本。だが、それを手にした瞬間、俺は息を呑んだ。本から、あの「空白」と同じ、底なしの虚無が放たれていたからだ。
「これは『未来の歴史書』。我ら記録吏の一族が、代々受け継いできたものだ」
「未来の…?」
「ああ。だが、誰もこの書に何かを書き記すことはできん。インクは弾かれ、刻まれた文字は瞬時に消え失せる。常に白紙であり続ける、呪われた書物よ」
エルダーはそれを俺の手に押し付けた。ずしりと重い。まるで、書かれていない幾多の物語の重みが、そこには詰まっているかのようだった。
「お前が聞く『空白の声』の正体を、突き止めるのだ。それが、我ら記録吏の最後の務めかもしれん」
その夜、俺は自室で「未来の歴史書」を開いた。やはり、そこには何も書かれていない。ただ、ひたすらに白いページが広がっているだけ。俺は意識を集中させ、耳の奥で渦巻く「空白の響き」に神経を研ぎ澄ませた。
すると、どうだ。
真っ白だったはずのページの中央に、淡い光を放つ、奇妙な螺旋状の記号が、インクの染みのようにじわりと浮かび上がり、そしてすぐに消えた。まるで、水面に落ちた一滴の雫が描く、束の間の波紋のように。
第三章 螺旋の囁き
世界の揺らぎは、もはや誰の目にも明らかになっていた。建物の輪郭が不意にぼやけ、遠くの鐘の音が二重に聞こえる。人々はそれを「大気の悪戯」だと噂したが、俺には分かっていた。歴史という名の巨大な織物が、根底から解かれ始めているのだ。
「空白の声」は、囁きから悲鳴へと変わっていった。
「なぜ、我々は消えるのだ?」
「記録してくれ。我々が、ここに在ったという証を」
「思い出せない。昨日、何をしていたのかさえ…」
それはもはや、過去の残響ではなかった。切迫した、今まさに助けを求める叫び。俺はその声を聞くたびに、こめかみを万力で締め付けられるような激痛に襲われた。声と共鳴するように、「未来の歴史書」に浮かぶ螺旋の記号は、数を増し、より長くページに留まるようになった。
このままでは、世界が崩壊する。
俺は決意した。声の源泉、そして世界の歪みの中心地を探らねばならない。俺の感覚が、一つの場所を指し示していた。歴史上、最も多くの血が流れ、最も多くの名もなき声が土に染み込んだ場所。「大いなる統合戦争」が終結した、あの「沈黙の谷」だ。あそこなら、全ての答えがあるはずだ。
荷物をまとめ、エルダーに別れを告げると、彼はただ一言、言った。
「奏。お前の聞く声を、信じろ。たとえそれが、どんな真実を突きつけようとも」
その言葉を胸に、俺は揺らめく街を背にして、西へと向かった。
第四章 忘れられた戦場
数日後、俺は「沈黙の谷」の入り口に立っていた。ごつごつした岩肌が天を突き、風が唸りを上げて吹き抜ける。かつて幾万の兵士が命を落としたこの場所は、草木一本生えない不毛の大地だった。
一歩、谷に足を踏み入れる。
途端に、鼻腔を突き刺す強烈な血の匂いがした。だが、それは過去の遺物である乾いた鉄の匂いではない。今まさに流されたかのような、生々しく、甘ったるい匂い。まるで、見えない傷口から世界の血が流れ出しているかのようだった。
頭痛が限界を超え、俺は膝から崩れ落ちた。耳の中で、「空白の声」が嵐のように荒れ狂う。もはや個々の声は聞き取れない。絶望と懇願が溶け合った、巨大な音の塊だ。
俺はその音の奔流の中で、意識を手放しかけた。
その、刹那。
「助けて、ソウさん」
全ての雑音が消え、たった一つ、少女の澄んだ声がはっきりと聞こえた。俺は愕然とした。その声を知っている。俺が旅立つ日の朝、「気をつけて」と焼きたてのパンをくれた、市場のパン屋の娘、リナの声だ。
なぜだ? なぜ、今を生きる彼女の声が、「過去の残響」として聞こえる?
混乱する俺の脳裏に、エルダーの言葉が蘇る。『お前の聞く声を、信じろ』。
俺は震える手で「未来の歴史書」を開いた。白紙のページが、風もないのに激しくはためく。そこに浮かび上がっていたのは、もはや螺旋の記号ではなかった。かすれて、消え入りそうなインクで書かれた、見慣れない文字の羅列だった。
第五章 反転する時間
俺は、その文字を読めた。なぜ読めるのか分からない。だが、その意味は雷鳴のように俺の魂を撃ち抜いた。それは、未来の言語で書かれた、未来の歴史書の一節だった。
『――かくして、大統合暦三百年に発生した時間的矛盾、通称『空白の時代』は、その存在の痕跡もろとも時間軸から剪定された。この外科的処置により、世界の安定は回復。偉大なる初代統一王の輝かしい功績に、一点の曇りもなくなったのである――』
血の気が引いていくのが分かった。
空白の時代。
時間的矛盾。
剪定。
謎のピースが、恐ろしい形で一つにはまった。俺が聞いていた「空白の声」は、過去の死者のものではなかったのだ。
俺たちが生きるこの時代、この瞬間こそが、未来の歴史において「存在しないはずの空白の時代」だったのだ。
大いなる統合戦争の勝者、初代統一王。彼、あるいはその後継者たちが、自らの血塗られた歴史を完璧なものにするため、未来の技術か何かで、歴史そのものに干渉したのだ。自らに不都合な事実が芽生えた、この未来――つまり、俺たちの現在を、丸ごと歴史から消し去ろうとしている。
俺が聞いていた名もなき人々の声は、過去の亡霊などではなかった。それは、未来からその存在を否定され、消えゆく運命にある、俺自身の、隣人たちの、リナの声の、最後の残響だったのだ。
俺たちは、未来にとっての「過去の亡霊」になりかけていた。
第六章 最後の記録者
絶望が全身を支配する。どうすればいい? 未来から「存在しない」と確定された事象に、抗う術などあるのだろうか。世界の揺らぎは、俺たちの存在が薄れていく過程そのものだったのだ。
俺は「沈黙の谷」の硬い地面に座り込み、空を見上げた。空はひび割れたガラスのように、きしむ音を立てていた。もう、時間がない。
だが、不思議と頭痛は消えていた。聞こえるのは、無数の「我々の声」。それはもはや苦痛ではなく、一つの巨大な意志、一つの願いとなっていた。「生きたい」「在ったのだと、記憶されたい」という、魂の叫び。
俺は立ち上がった。懐から小さなナイフを取り出し、躊躇なく自らの左手のひらを切り裂く。熱い血が溢れ出し、乾いた土に染みを作った。
そして、血塗られた指先で、「未来の歴史書」の白紙のページに、文字を書き始めた。
インクを弾いたはずのページが、俺の血を拒まない。いや、まるで渇いた喉が水を求めるように、俺の血を吸い込んでいく。指先から伝わる、俺自身の命、そして俺の耳に届く全ての声の想いを、一文字一文字に込めて。
『我々は、ここに在った』
たった一行。だが、それは俺たちの時代の、全ての人々の存在証明だった。
書き終えた瞬間、書物が眩い光を放った。世界が真っ白な光に包まれ、俺の意識は遠のいていく。消えゆくのか、あるいは書き換えられるのか、それは分からない。
ただ、最後に俺の耳に届いたのは、幾万もの声が重なり合って生まれた、たった一つの、静かで穏やかな「ありがとう」という響きだった。
遠い、遠い未来。
誰かが、埃を被った一冊の古書を開く。その最初のページには、インクでも顔料でもない、古代の血によって記された、消えない一行だけが、静かに刻まれている。
『我々は、ここに在った』