第一章 嘘の残像
霧雨がアスファルトを濡らす午後、僕の営む古書店『幻燈堂』のドアベルが、湿った音を立てた。インクと古紙の匂いが満ちる静寂の中に、一人の女性が立っていた。彼女、陽菜さんの息は白く、その瞳には焦りが滲んでいた。
「妹が、一週間前から帰らないんです」
絞り出すような声だった。警察は動いてくれない、と彼女は続けた。最近街で噂される『共鳴記憶』を妹が体験した、などと口走ったせいらしい。
僕は黙って頷き、彼女の向かいに座るよう促した。僕、霧島朔には、ささやかな秘密がある。他人が嘘をついた瞬間、その人物の脳が紡ぎ出す「偽りの記憶の光景」が、ノイズ混じりの映像のように視界に割り込んでくるのだ。
「妹の友人にも話を聞いたんです。でも、何も知らないって…」
陽菜さんがそう言った瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
―――陽光の差すカフェテラス。知らない少女たちが楽しげに笑っている。その一人のカップに、陽菜さんの妹と思しき少女が何か白い粉末を入れている。テーブルの隅に、一瞬だけ、幾何学的な紋様が刻まれた銀のロケットが映り込む―――
フラッシュバックは一秒にも満たずに消え、目の前の陽菜さんの不安げな顔が焦点を取り戻す。今の光景は、陽菜さんの友人がついた嘘から生まれた、偽りの記憶。だが、あの紋様には見覚えがあった。最近、街で起こる連続失踪事件の関係者の嘘に触れるたび、必ずと言っていいほど、あの奇妙な紋様が視界の片隅を掠めていたのだ。
「そのご友人、もう一度詳しく話を聞かせてもらえませんか」
僕は静かに告げた。雨音だけが、店内に響いていた。
第二章 共鳴する石
陽菜さんの妹、海(うみ)さんの部屋は、主の不在を告げるように静まり返っていた。ラベンダーの芳香剤が微かに香り、窓辺には読みかけの本が伏せられている。僕の視線は、机の上に無造作に置かれた、一つの奇妙な物体に吸い寄せられた。
掌に収まるほどの、黒曜石のような滑らかな球体。陽菜さんによれば、海さんが『共鳴記憶』を体験したという公園で拾ったものらしい。
「ただの石ころだと思ってたんですけど…」
僕がそれに指を触れた瞬間、ひんやりとした石の表面から、微かな振動が伝わってきた。球体の内部で、閉じ込められていたはずの銀色の液体が、まるで嵐の中の海のように激しく渦を巻き始める。
「これ…!」
陽菜さんが息を呑む。球体は不規則な光を明滅させ、天井にぼんやりとした光の模様を映し出した。それは、僕が偽りの記憶の中で何度も見てきた、あの紋様の一部に酷似していた。
古代の言語で『夢の羅針盤』と記された遺物。僕はかつて古書の中でその記述を読んだことがあった。まさか、実在していたとは。
羅針盤は、僕が持っている時だけ、より強く反応するようだった。まるで、僕の能力に共鳴するかのように。僕たちは、この石が示す微かな光を頼りに、海さんの足跡を辿ることに決めた。それは、この街に潜む巨大な謎の中心へと、自ら足を踏み入れることに他ならなかった。
第三章 紋様の囁き
羅針盤を手に、僕たちは失踪者たちが『共鳴記憶』を体験した場所を巡った。夕暮れの河川敷、閉鎖された映画館、深夜の交差点。それぞれの場所で、関係者たちの嘘に触れるたび、僕の脳裏には偽りの光景が焼き付けられた。
「彼なら大丈夫。きっとすぐ戻ってきますよ」
そう語る失踪者の恋人の言葉と共に、視界には、その恋人が誰かと電話で口論する光景が映る。『早く計画通りにしろ』という相手の声。そして、電話を持つ彼の手首には、あの紋様が刻まれたブレスレットが光っていた。
偽りの記憶は、どれも断片的で、核心には触れない。だが、それらが示す断片を繋ぎ合わせると、一つの巨大な構図が浮かび上がってくるようだった。あの紋様は、パズルのピースのように、少しずつその全体像を僕に見せていた。
それはまるで、何かの設計図。あるいは、未知の言語で書かれた、一つの詩のようにも思えた。
陽菜さんは、僕が時折虚空を見つめて立ち尽くす姿を、不安げに見守っていた。彼女には、僕に何が見えているのか知る由もない。
「朔さん…大丈夫?」
彼女の気遣う声が、僕を現実へと引き戻す。僕は大丈夫だと頷きながら、羅針盤を握りしめた。石の内部で渦巻く光は、ますます激しさを増していた。僕たちは、確実に真相に近づいている。だが同時に、得体の知れない何かの領域に、深く踏み込んでいる感覚があった。
第四章 調律師の影
羅針盤が示した最後の場所は、街を見下ろす丘の上に立つ、廃墟と化した天文台だった。錆びたドームの隙間から、冷たい月光が差し込んでいる。埃と金属の匂いが混じり合い、時間の止まった空間に、一人の男が立っていた。
「お待ちしていました、『覚醒者』よ」
男は静かに言った。白衣をまとった、学者のような風貌。彼の穏やかな瞳の奥には、底知れない深淵が広がっていた。
「あなたが、失踪事件の…」
「失踪ではない。保護です」男は僕の言葉を遮った。「この世界は、もうすぐ終わる。彼らの魂は、来るべき『目覚め』の衝撃に耐えられない。だから私が、彼らのために安らかな夢を用意したのです」
男は自らを『調律師』と名乗った。彼は、僕の能力も、羅針盤のことも、全てお見通しのようだった。
「君の見る光景は、単なる嘘の産物ではない。それは、この世界から『削り取られた』真実の断片だ。この夢の整合性を保つために、消された記憶の残響だよ」
夢? 世界が、夢だと?
混乱する僕の隣で、陽菜さんが震えていた。調律師は、その彼女に優しく微笑みかける。
「さあ、お嬢さん。彼に、最後の嘘を」
陽菜さんは涙を浮かべ、僕を見つめた。
「ごめんなさい、朔さん……私、ずっと嘘をついてた。妹は…妹は、最初から、いなかったの」
その言葉が引き金になった。
世界が、砕け散る。
僕の脳内に、今まで経験したことのない、圧倒的な光景が流れ込んできた。それは、誰かの記憶ではなかった。星々が生まれ、銀河が渦を巻き、生命が芽吹く、創世の光景。そして、その宇宙の中心で、僕が追い求めてきたあの『紋様』が、完璧な形で燦然と輝いていた。
第五章 夢の終わり、世界の始まり
それは、この世界という壮大な『夢』の設計図だった。
調律師は静かに語り始めた。我々の住むこの世界は、名も知らぬ『誰か』が見ている、束の間の夢に過ぎないのだと。
『共鳴記憶』とは、夢の境界が曖昧になり、他の登場人物(人間)の記憶が混線するバグのような現象。そして、失踪した人々は、夢の終わりが近いことを無意識に察知し、精神の均衡を崩しかけていたのだという。
「私は彼らを救いたかった。だから、私の作った安定した『偽りの記憶』という箱庭に、彼らを避難させたのです」
調律師の目的は、破壊ではなく、歪んだ形での救済だった。
「では、僕は…?」
「君は特別だ」調律師は僕を真っ直ぐに見つめた。「君は、この夢のシステムが生み出した、唯一のイレギュラー。夢の矛盾――すなわち『嘘』を感知し、その綻びから『真実』を垣間見ることができる、覚醒した存在だ」
陽菜さんもまた、調律師によって作られた存在だった。僕をこの真実へと導くために、『妹を探す姉』という役割を与えられた、悲しい操り人形。彼女の流す涙は、与えられた設定(嘘)と、僕と過ごすうちに芽生えた本物の感情との間で引き裂かれた、魂の叫びだった。
僕の能力は、崩壊の前兆。
そして僕は、この夢の終焉を看取るために生まれた、孤独な観測者だったのだ。
第六章 夜明けの羅針盤
「さあ、選びなさい」
調律師は、僕に選択を迫る。
「このまま、私が用意した偽りの夜明けの中で、人々を穏やかな眠りにつかせるか。あるいは、その『夢の羅針盤』で真実の扉を開き、全ての夢を終わらせ、残酷な『目覚め』を迎えさせるか」
僕は、手のひらの羅針盤を握りしめた。石は脈打つように熱を持ち、壁一面に完成された紋様を映し出している。それは終焉への扉であり、あるいは新たな創世への鍵かもしれなかった。
ふと、陽菜さんが僕の手をそっと握った。その手は温かかった。
「たとえ嘘から始まったとしても…」彼女は涙の跡が残る顔で、微笑んだ。「あなたと過ごした時間は、私にとって本物だったわ」
その言葉が、僕の心を貫いた。
そうだ。偽りの記憶、作られた役割、終わるべき世界。全てが嘘で塗り固められていたとしても、そこで感じた痛みも、温もりも、紛れもなく本物だった。
僕は空を見上げた。天文台のドームの隙間から見える星空に、ガラスのような亀裂が走り始めている。世界の終わりは、もう止められないのかもしれない。
だが、それでも。
「僕は、この嘘を愛してみるよ」
僕は静かに告げた。
その瞬間、手の内の羅針盤が放っていた光が、ふっと和らぎ、静かに消えていった。
世界の崩壊が止まったのか、それとも、ただ猶予が与えられただけなのか、それはわからない。僕たちは、ひび割れた空の下で、静かに夜明けを待っていた。
それが偽りの朝だとしても、僕たちにとっては、紛れもない世界の始まりだった。