第一章 歪んだ回廊と残滓の線
僕の通うエイドス学園では、物理法則は気まぐれな神様のように振る舞う。昨日までまっすぐだったはずの廊下は、誰かの嫉妬で蛇のようにうねり、喜びの爆発で教室の天井が抜け落ちて青空が覗くことなど日常茶飯事だ。生徒たちの感情が、この閉じた世界の法則をリアルタイムで書き換えてしまうのだ。
「見て、無月! またやったわ、あの子!」
隣の席の陽菜が、僕の袖を引いて窓の外を指さした。中庭では、告白が成功したらしい男子生徒の周りで、地面から色とりどりの飴玉が噴水のように湧き上がっている。彼の幸福感が、無機物であるはずの土くれを甘い結晶に変質させたのだ。周囲の生徒たちは歓声をあげ、その奇跡の副産物を拾い集めている。
僕は、その光景を見ても何も感じない。嬉しい、楽しい、羨ましい。そういった概念が、僕の中には存在しない。僕の心は、凪いだ水面のように常に静かで、色のない世界が広がっているだけだ。
その代わり、僕の目には他の誰にも見えないものが見える。
飴玉が湧き出る地面の傍ら、空中に淡い光の線が幾重にも漂っていた。それは、この学園の法則が感情によって書き換えられる前の、「本来の世界」の物理法則が遺した残滓。世界が悲鳴を上げて引き裂かれた、その傷跡だ。きらきらと舞う光の塵は、僕にとってはこの歪んだ世界で唯一、秩序と調和を示す美しいものだった。僕はそっと指を伸ばす。触れると、ひんやりとした数学的な感触がした。これが、僕の世界のすべてだった。
第二章 失われた約束と境界の花
「……なんだっけ。昨日、あなたに何か大事なことを話そうとしていたはずなのに」
陽菜が、眉をひそめて首を傾げた。彼女の焦燥が、机の上の消しゴムを僅かに震わせている。最近、学園ではこういうことが頻発していた。強い感情の奔流が法則を書き換えるたび、まるで対価を支払うかのように、誰かの記憶が一片、抜け落ちてしまうのだ。
「思い出せないの。とても、大切なことだった気がするのに」
彼女の瞳が不安に揺れる。その瞬間、僕の視界の端で、陽菜の肩口から金色の糸のような残滓がほどけていくのが見えた。失われた記憶の残滓だ。それは儚く揺らめきながら、校舎の裏手、誰も寄り付かない古い温室の方角へと流れていく。
僕は立ち上がった。
「行こう」
「え、どこへ?」
「君の忘れたもの、そこに在るかもしれない」
僕の言葉に、陽菜は戸惑いながらもついてきた。僕たちは、蔦の絡まる寂れた温室の前に立った。ガラスはところどころ割れ、長い間、誰にも管理されていないことが見て取れる。だが、その中央に、この世のものとは思えないほど鮮やかな青い花が一輪、凛として咲いていた。
境界花(きょうかいか)。
学園の法則がどれほど乱れても、決して形を変えず、常に同じ場所に咲き続ける奇跡の花。僕だけがその存在をはっきりと認識でき、触れることができる。僕は陽菜の失った記憶の残滓が、その花の根元に吸い込まれていくのを見届けた。
第三章 触れた記録の断片
僕はためらうことなく温室に入り、境界花の前に膝をついた。土の匂いと、微かに甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。陽菜が息を呑む気配が背後でした。
「きれい……。こんな花、今まで気づかなかった」
彼女には、この花がおぼろげな幻のようにしか見えていないだろう。僕はそっと指を伸ばし、青い花弁の一枚に触れた。ひんやりと、そして確かな生命の感触。僕はそれを、ゆっくりと摘み取った。
その瞬間、世界から音が消えた。
陽菜の焦燥も、他の生徒たちの喧騒も、風の音さえも遠のき、学園の物理法則が一時的に絶対的な安定を取り戻す。そして、僕の脳裏に、摘み取った花弁が吸い込んでいた残滓の情報が、鮮明な映像となって流れ込んできた。
―――幼い陽菜が、泣いている僕の手を引いている。『大丈夫だよ、無月。私がずっと、隣にいてあげる。約束』。そうだ、彼女は昨日、この幼い頃の約束を、もう一度僕に伝えようとしていたのだ。―――
同時に、もう一つの映像が重なる。白衣を着た、見知らぬ大人たち。設計図。そして『世界を感情の氾濫から隔離する箱庭』という言葉。それは、この学園の設立に関する、誰も知らないはずの記録の断片だった。
視界が元に戻ると、陽菜が僕の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの、無月? なんだか……泣きそうな顔、してる」
僕の顔は、動いていないはずだ。僕は感情がないのだから。だが、彼女にはそう見えたらしい。
第四章 対価としての忘却
あの日以来、僕は学園の法則と記憶喪失の関係性を注意深く観察するようになった。やはり、大きな物理法則の変質が起きた後には、決まって誰かの記憶が失われていた。失われる記憶は、愛情や友情といった、個人の根幹を成す大切なものであることが多い。まるで、この学園という巨大な意識体が、生徒たちの最も純粋な感情の記憶をエネルギー源として喰らっているかのようだった。
「対価」。
僕は、誰もいない図書室で、古い羊皮紙に書かれた学園の理念を読んでいた。そこには美辞麗句が並んでいるだけだったが、その文字の連なりの奥に、僕は無数の残滓が蠢いているのを見た。設立者たちの強い意志、願い、そして諦念。それらが複雑に絡み合い、この学園の歪んだ法則を織り上げていた。
この学園は、何かを守るために、何かを犠牲にし続けている。生徒たちの記憶を対価として。
僕は、このシステムの冷酷なまでの合理性に、何の感想も抱かなかった。ただ、事実として認識するだけだ。だが、陽菜が時折見せる、何かを思い出そうとする切なげな表情を見るたび、僕の内で、名前のない何かが静かに波立つような、不思議な感覚がした。
第五章 崩壊の序曲
その日は、突然やってきた。学園長の声が、スピーカーを通して全校に響き渡ったのだ。
『親愛なる生徒諸君。君たちに伝えなければならないことがある。このエイドス学園は、本日をもってその役目を終え、閉鎖されることになった』
絶望。その一言が、巨大な感情の津波となって学園全体を飲み込んだ。悲鳴、怒号、嗚咽。ありとあらゆる負の感情が渦を巻き、学園の物理法則はかつてない規模で崩壊を始めた。
校舎の壁が砂のように崩れ落ち、床は底なしの沼に変わる。空は血のような赤黒い色に染まり、あちこちで生徒たちの身体が半透明に透け、消えかかっていた。記憶どころではない。存在そのものが、暴走したシステムの燃料として奪われようとしていた。
「いやっ……! 無月、助けて!」
隣で、陽菜の身体もまた、輪郭を失い始めていた。彼女の悲痛な声が、僕の鼓膜を震わせる。
僕は、消えゆく陽菜と崩壊する世界を、ただ静かに見つめていた。僕には悲しみも恐怖もない。だからこそ、見えたのだ。この混沌の中心、すべての残滓が螺旋を描きながら吸い込まれていく一点。
時計塔。あそこが、この学園の心臓部だ。
僕は、沼に変わりゆく床を、残滓として浮かび上がる「本来の床」の痕跡だけを頼りに跳躍し、時計塔へと向かって走り出した。
第六章 時計塔の真実
時計塔の内部は、時間の流れさえ歪んでいた。過去と未来が混ざり合い、壁には設立当初の光景や、まだ見ぬ未来の廃墟が幻のように映し出されては消える。僕はそれらを無視し、ひたすら頂上を目指した。
最上階の扉を開けると、そこは息を呑むような光景だった。床一面に、無数の境界花が咲き乱れていたのだ。青い光が部屋を満たし、その中央には巨大な水晶のようなコアが、弱々しく明滅を繰り返している。
僕がコアに近づくと、設立者の「記録」が直接僕の意識に流れ込んできた。
―――外の世界は、憎悪や絶望といった負の感情の氾濫によって、とうに崩壊寸前だった。この学園は、未来を担う子供たちをその汚染から守るための巨大なバリアであり、シェルターだったのだ。生徒たちの純粋な感情をエネルギーに変換してバリアを維持し、卒業生は感情を完全に制御できる存在として、世界を浄化するために送り出される。それが、エイドス学園の真の目的。だが、長い年月の間にシステムは劣化し、エネルギー効率は低下。対価として、生徒たちの記憶、そして存在そのものを消費しなければ維持できない、破綻寸前の状態に陥っていた。閉鎖の放送は、システムの最終的な崩壊を誘発する引き金に過ぎなかった。―――
すべてを理解した。このままでは、学園も、外の世界も、すべてが共倒れになる。
第七章 感情なき卒業
選択肢はなかった。僕は、明滅するコアに手を伸ばした。
感情を持つ人間が触れれば、その感情を吸い尽くされて暴走を引き起こすだろう。だが、僕には感情がない。僕の心は、完全な「零(ゼロ)」。システムにとって、僕は予測不可能なイレギュラー。
僕の指がコアに触れた瞬間、境界花が一斉に光を放った。システムは僕から感情を吸い上げようとして、しかしそこには何もなく、代わりに僕という存在の「純粋な在り方」そのものを吸い込み始めた。僕は導管となったのだ。
学園のバリアが、ゆっくりと開かれていく。外の世界へ流れ出すのは、蓄積された生徒たちの絶望ではない。それは、設立者が最初に抱いた、ただ一つの純粋な願い。
「未来の子供たちに、希望を」
青い光が、希望そのものとなって世界に満ち溢れていく。憎悪に満ちた外の世界の空が浄化され、澄み切った青空に変わっていくのが、僕には見えた。
気づくと、僕は学園の門の前に立っていた。崩壊は止まり、物理法則は完全に安定している。生徒たちの記憶も、存在も元に戻っていた。ただ、この学園で起きた奇跡のような日々の記憶だけは、まるで夢であったかのように皆の心から薄れていくだろう。
「無月!」
陽菜が駆け寄ってくる。彼女の頬を、涙が伝っていた。
「ありがとう。……なんだか、すごく嬉しいのに、すごく悲しい。不思議」
僕には、彼女の言う「嬉しい」も「悲しい」も、やはり理解できない。ただ、彼女の瞳が濡れているという事実を認識するだけだ。
僕は、一度だけ振り返り、静かになった校舎を見た。そして、門の外へと一歩を踏み出す。
感情を知らないまま、僕は世界を救った。感情を理解しないまま、僕はたった一人、この学園を「卒業」する。
見上げた空は、あの境界花と同じ、どこまでも澄んだ青色をしていた。