第一章 砕けた玻璃(はり)の追憶
刻(とき)の仕事場は、静寂と古書の匂い、そして微かなオゾンの香りで満ちていた。彼は歴史修復師(クロノ・リペアラー)。地中深くから発掘される「記憶晶石(クロノ・クリスタル)」の欠片を繋ぎ合わせ、失われた過去の情景を復元する、この時代でも稀有な職人だった。彼の指先は、どんな外科医よりも精密で、その目は、どんな鑑定士よりも鋭く真実を見抜くと噂されていた。
刻は、完全な歴史の復元に一種の強迫観念にも似た情熱を抱いていた。不完全な過去は、人を惑わせ、未来を曇らせる。だからこそ、一点の曇りもなく、ありのままの過去を再現することに己の全てを捧げていた。彼をそうさせたのは、十数年前に彼の全てを奪った、あの夜の大火災だった。原因不明の火事で両親と幼い妹を失い、彼自身もその前後の記憶を焼失していた。残されたのは、肌を刺す熱と、耳を劈く叫び声の断片的な悪夢だけ。
ある雨の降る午後、古物商の老婆が、古びた桐の箱を携えて彼の仕事場を訪れた。
「刻さん、あんたにしか頼めない品物さね」
老婆が差し出した箱の中には、黒いビロードに包まれた、これまで見たこともないほど複雑に砕け散った記憶晶石が横たわっていた。それはまるで、絶望そのものを結晶化させたかのような、鈍い光を放っていた。通常、晶石は内包する記憶の感情によって色合いを変える。喜びは黄金色に、悲しみは深い藍色に。しかし、この晶石は、あらゆる色彩を飲み込んだような、底なしの闇を湛えていた。
刻はピンセットで最大の欠片を摘み上げ、眉間の集中光(フォーカスライト)を当てた。そして、導かれるように、その冷たい面に指先でそっと触れた。
その瞬間、電流のような衝撃が全身を駆け巡った。
――温かいシチューの匂い。父の低い笑い声。ピアノを弾く母の優しい背中。そして、小さな妹が彼の名を呼ぶ、鈴の鳴るような声。
それは、彼が失ったはずの、家族との最後の晩餐の光景だった。しかし、その幸福な情景は一瞬で歪み、鼻を突く煙の匂いと、壁が赤黒く脈打つ灼熱の地獄へと変貌する。
「……これは」
刻は息を呑んだ。この晶石は、彼の失われた過去そのものだった。これを完全に修復しさえすれば、あの夜、何が起こったのか、その真実を知ることができる。誰が、何故、自分の家族を奪ったのか。その答えが、この砕けた玻璃の欠片の中に眠っているのだ。彼の心の奥底で、冷え切っていた何かが、カチリと音を立てて燃え始めた。
第二章 継ぎ合わされる日々の残照
修復作業は、刻の全神経を削り取る過酷なものだった。砕けた晶石の断面は、数ミクロン単位で完璧に合致させなければ、記憶の情景にノイズが走り、歪んでしまう。彼は食事も睡眠も忘れ、まるで何かに取り憑かれたように作業台に向かい続けた。
特殊な接着剤の樹脂の匂いが、仕事場に満ちていく。ピンセットが立てる微かな金属音だけが、彼の世界の全てだった。欠片を一つ繋ぐたび、彼の脳裏には、失われた日々が鮮やかに蘇った。
妹のテアと庭で追いかけっこをした日の、草いきれの匂い。母が焼いてくれたアップルパイの、シナモンの甘い香り。父の書斎で、分厚い歴史書を一緒に眺めた時の、インクと古い紙の匂い。幸福だった日々の記憶が、パズルのピースのように一つ、また一つとはまっていく。
それと同時に、火災の夜の記憶もまた、輪郭を濃くしていった。
窓の外で鳴り響く消防車のサイレン。避難を呼びかける人々の怒号。そして、煙の中で必死に彼を庇い、「生きなさい」と囁いた母の最後の声。記憶が鮮明になるほど、彼の胸は張り裂けそうになった。悲しみと、犯人への燃え盛るような怒りが、彼を修復作業へとさらに駆り立てた。
同業者の老人、ギヨームが心配して訪ねてきたのは、作業を始めてから一週間が経った頃だった。彼は刻の師であり、唯一、彼の過去を知る人物だった。
「刻よ、その晶石からは手を引け。お前の魂を喰らうぞ」
ギヨームの深い皺の刻まれた顔には、憂いの色が浮かんでいた。
「師匠、俺は真実が知りたいんです。完全な真実だけが、俺をこの悪夢から解放してくれる」
「真実が常に救いになるとは限らん。忘却こそが神の慈悲であることもある。触れてはならん記憶というものが、この世には存在するのだ」
しかし、刻にはその言葉は届かなかった。ゴールは目前だった。あと一つ、最後の欠片を嵌め込めば、全てが明らかになる。彼は、真実を知ることこそが過去との決着であり、未来へ進むための唯一の道だと信じて疑わなかった。彼は師の忠告を背中で聞き流し、再び作業台へと向き直った。
第三章 未完のクロニクル
最後の欠片は、涙の滴のような形をしていた。これを中央の窪みに嵌め込めば、修復は完了する。刻は震える指で、その小さな欠片を摘み上げた。長年の渇望が、今、満たされようとしていた。彼は息を止め、ゆっくりと欠片を晶石へと近づけていった。
その瞬間だった。
欠片が晶石に触れる寸前、晶石全体がまばゆい光を放った。それは、怒りや悲しみの色ではない、純粋で、どこか神々しささえ感じさせる白光だった。光に包まれた刻の意識は、再びあの夜の家へと引き込まれた。だが、そこは炎に包まれてはいなかった。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜ、家族の笑い声が響いている。しかし、その光景はどこかおかしかった。まるで、薄いガラス越しに見ているように、全てが脆く、不確かに揺らめいている。
次の瞬間、彼の視点は、幼い自分自身のものになっていた。彼は、父が書斎で使っていた古いオイルランプを、興味本位で持ち出していた。ランプの美しい装飾に見とれていた彼は、妹のテアに呼ばれ、振り向いた拍子にランプを取り落としてしまう。ランプは絨毯の上に転がり、燃料が漏れ出し、暖炉の火がそれに引火した。一瞬にして、幸福な日常が阿鼻叫喚の地獄へと変わる。
「……違う」
刻は呻いた。火災の原因は、外部の誰かによる放火などではなかった。幼い自分の、ほんの些細な不注意だったのだ。彼は、憎むべき犯人を、ずっと自分自身の内に飼い続けていたのだ。
絶望が彼の心を打ち砕いた。だが、本当の衝撃は、その後に訪れた。
目の前の光景が、再び変化した。今度は、現在の彼が、作業台で最後の欠片を嵌め込もうとしている姿が映し出された。そして、脳内に直接、声とも思念ともつかないものが響き渡った。
『これを確定させてはならない』
それは、晶石そのものの声だった。
『我は過去の記録にあらず。我は「可能性の分岐点」を封じた稀有なる晶石。汝がその欠片を嵌め込むことは、「選択」を意味する。その行為は、起こり得たかもしれない悲劇の未来を、唯一無二の確定した過去へと変えてしまうだろう』
刻は全てを理解した。この晶石は、歴史の記録ではなかった。それは、未来の可能性を映し出す、予言の結晶だったのだ。そして、彼が行ってきた「修復」という行為は、失われた過去を取り戻す作業などではなく、悲劇的な未来を「創造」し、「確定」させる儀式に他ならなかった。ギヨームの言葉が脳裏に蘇る。「触れてはならん記憶」。師は、この晶石の正体を知っていたのだ。
彼の信念が、足元から崩れ落ちていく。完全な真実の追求。それは、彼が最も避けたかった結末を、自らの手で引き寄せる行為だった。
震える手から、ピンセットが滑り落ち、床に甲高い音を立てた。彼は、あと数ミリで晶石に触れようとしていた涙の滴のような欠片を見つめた。これを嵌めれば、「真実」は完成する。そして、彼の家族は「確定した過去」の中で永遠に死ぬ。だが、嵌めなければ?
嵌めなければ、火事は起こらない。少なくとも、この晶石の中では。彼の家族は、不完全で、揺らめく、ガラス細工のような世界の中で、笑い続けることができる。それは偽りの過去かもしれない。だが、暖かく、優しい、「可能性」としての過去だ。
刻はゆっくりと立ち上がった。そして、作業台の上の不完全な晶石を、両手でそっと包み込むように持ち上げた。欠けた中央の窪みからは、不確かな、しかし温かい光が漏れ出していた。彼は、その光の中に、笑いかける家族の幻影を見た気がした。
彼は、職人としての己の全てを否定することを選んだ。「不完全さ」を受け入れることを選んだのだ。真実を闇に葬り、美しい可能性のままにしておくこと。それは、彼が最も嫌悪した行為だったが、今は、それこそが唯一の愛の形なのだと分かった。
窓の外では、夜の闇を溶かすように、朝の光が差し込み始めていた。刻は、未完の晶石を胸に抱きしめた。そこにはもう、炎の熱も、叫び声もない。ただ、決して確定することのない、家族との幸福な日々の残照が、静かに、そして永遠に揺らめいているだけだった。
歴史とは、ただ一つの確定した事実の連なりではない。それは、選ばれなかった無数の可能性の光が織りなす、壮大なタペストリーなのかもしれない。刻は、その不完全な光を道しるべに、初めて、本当の意味で未来へと歩き出す決意を固めた。