忘却の残響

忘却の残響

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第一章 不可視の侵入者

葉月の部屋は、いつも完璧に整頓されていた。白い壁、ミニマルな家具、一切の無駄を排した空間は、彼女の心の在り方をそのまま映し出しているようだった。まるで、過去の痕跡をすべて拭い去ろうとするかのように。

異変は、ある日突然、何の予兆もなく始まった。

最初に気づいたのは、キッチンのカウンターだった。磨き上げられたステンレスの上に、見慣れない、小さく古びた木製の汽車がぽつんと置かれていた。手のひらサイズで、色が剥げ落ち、車輪の一つが欠けている。葉月は首を傾げた。こんなもの、買った覚えもないし、誰かに貰った記憶もない。誰かの忘れ物にしては古すぎる。恐らく、どこかの店で紛れ込んだのだろうと、深く考えずにゴミ箱に捨てた。

しかし、その翌日、今度は洗面所の鏡台の上に、小さな絵本が置かれていた。色褪せた表紙には、鉛筆で殴り書きされたような「みーちゃん」という文字。記憶にない。またしても不可解な侵入物。葉月は少しだけ嫌な予感がした。自分の生活に、見えない何かが入り込んでいるような。絵本もすぐに捨てた。

三日目には、寝室のクローゼットの奥から、くたびれた毛糸の帽子が見つかった。幼い子供が被るような、鮮やかな黄色。その帽子には、小さなシミがついていて、どこか甘酸っぱいような、微かに鉄っぽいような、奇妙な匂いがした。途端に、葉月の心臓が不規則に脈打ち始めた。これは、さすがにおかしい。扉は閉まっていたはずなのに。

彼女は部屋中を隈なく探した。窓の施錠、玄関の鍵、すべて異常はない。防犯カメラを取り付けているわけではないが、外部からの侵入者がこんな子供じみた物を置いていく理由が見当たらない。恐怖よりも、困惑と不気味さが勝っていた。しかし、その奇妙な「贈り物」は、次第に増えていった。

古ぼけたカスタネット、使い込まれたクレヨン、片方だけの靴下、意味不明な文字が書かれた小さな紙切れ。それらはすべて、幼い子供が使うような物ばかりだった。葉月はそれらをゴミ袋にまとめて、部屋の隅に積み上げた。捨てても捨てても、翌日にはまた、違う物が現れる。それはまるで、彼女の記憶の隙間から、無理やり押し出されてきたかのように。

夜になると、その現象はさらに恐ろべき様相を呈した。

真夜中、葉月は耳元で、かすかな囁き声を聞いた。「おねえちゃん……」。それは、ごく幼い子供の声だった。しかし、声の主を探しても誰もいない。ただ、暗闇の中に、微かに揺らめく影のようなものが、瞬時に消えるのを感じるだけだった。

部屋の空気が、まるで何十年も前の埃を吸い込んだかのように重く、そして冷たい。

錯覚だ。疲れているのだ。そう言い聞かせようとするたび、胸の奥で、言い知れない不安と、抗いがたい既視感が渦巻く。

この現象は、もしかしたら、私が「忘れている」何かに関係しているのではないか。

そう気づいた時、葉月の背筋を、真冬の氷が這い上がるような悪寒が貫いた。

第二章 記憶の具現化

葉月は、自分の過去を意図的に封印してきた。それは、ある出来事を境に、鮮明な記憶が重荷になりすぎたためだった。カウンセリングも受けたが、心の防衛機制は強力で、表面的な部分しか思い出せなかった。それが彼女の心の平穏を保つ唯一の方法だったのだ。しかし、今はその平穏が、内側から食い破られようとしている。

部屋に現れる物たちは、日に日に数を増やし、より鮮明になっていった。

テーブルの上には、使い古された粘土細工の鳥。テレビの前には、表紙が破れた童謡集。ベッドの下からは、色鉛筆の削りカスが散らばった小さな画板。それらはすべて、確かにそこにある「物理的な存在」だった。手で触れると、物の質感や冷たさが伝わってくる。捨てても無駄だと悟った葉月は、それらを一箇所に集め始めた。リビングの隅に、まるで子供部屋の一角が切り取られてきたかのように、奇妙なオブジェクトの山が形成されていった。

夜の現象も激しさを増す。

「おねえちゃん、こっちだよ」

今度は、はっきりとその声が聞こえた。幼い子供の声。すぐ隣にいるかのように。葉月は思わず体を起こし、暗闇の中で息を潜めた。しかし、視界の端を、小さな影が駆け抜けただけ。

翌日、葉月は精神科医のところへ足を運んだ。症状を説明する彼女の声は震えていた。医師は丁寧な言葉で、ストレス性の幻覚や幻聴の可能性を示唆し、安定剤を処方しようとした。

「でも、先生、それらは実際に『そこにある』んです。手で触れることもできるし、重さもある」

葉月の訴えは、医師には妄想としか聞こえないようだった。彼女は孤立感を深めた。自分が見ている世界は、他者には理解できない。あるいは、私自身がおかしくなってしまったのか。

しかし、その疑問は、さらに不可解な出来事によって打ち砕かれる。

ある夜、具現化した物の中から、一つの古びた木製のオルゴールが、ひとりでに音を奏で始めたのだ。ガタガタと軋むような、微かな音。流れてきたのは、葉月が全く知らないはずの、しかし妙に懐かしいメロディだった。

その音色を聞いた瞬間、葉月の脳裏に、断片的な映像が閃光のように駆け巡った。

夕暮れの公園。ブランコに乗る幼い女の子の背中。風に揺れる黄色い帽子。そして、その子の横で、微笑みかける自分。

記憶の断片は、すぐに闇に消えた。だが、残されたのは、強烈な胸の痛みと、深い悲しみ。

これは幻覚などではない。私が忘れ去ろうとした過去が、形を変えて現れ、私に訴えかけているのだ。

何のために?何を伝えたいのか?

恐怖は薄れ、代わりに、まるで失われた宝物を探し出すかのような、切実な衝動が葉月を支配し始めた。その衝動は、彼女を深い記憶の淵へと引きずり込んでいく。

第三章 忘却の向こう側

リビングの隅に積み上げられた過去の残滓は、もはや恐怖の対象ではなかった。葉月は一つ一つ、それらに触れ、じっと見つめるようになった。すると、触れたものから微かに、当時の情景や感情が流れ込んでくるような錯覚に陥った。粘土細工からは、幼い笑い声と、手のひらに残る粘土の感触。童謡集からは、どこか優しい声で歌われたメロディ。

ある日、葉月は最も古びたカスタネットを手に取った。それは、まだ自分が子供だった頃、よく使っていたような、縁が擦り切れて色あせたものだった。カスタネットを指で挟み、カチカチと鳴らす。その単純なリズムが、葉月の心の奥深くに眠っていた鍵を、ゆっくりと回すような気がした。

その夜、葉月は深い夢を見た。

夢の中で、彼女は若く、まだあどけない顔をしていた。そして、その隣には、鮮やかな黄色の帽子を被った、小さな女の子がいた。瞳は大きく、無邪気な笑顔。その子の名前を、葉月は知っていた。

「みーちゃん」

夢の中の葉月は、みーちゃんの手を握り、楽しそうに走り回っていた。公園の滑り台、お菓子の家のようなパン屋さん、そして、家族で囲む食卓。すべてが温かく、輝かしい記憶。

しかし、突然、景色が歪む。

まばゆい光、激しい衝突音、体が宙に浮くような浮遊感。そして、一瞬の静寂の後に、金属が軋む嫌な音と、どこかから聞こえる嗚咽。

葉月は、夢の中で息を呑んだ。

視界に映ったのは、血に染まった黄色の帽子。そして、動かなくなったみーちゃんの小さな体。

「おねえちゃん、みーちゃんはね……」

声が聞こえた。それは、具現化した記憶の残滓が、最後に葉月に語りかける、決定的な言葉だった。

目覚めた時、葉月の頬は、乾いた涙の跡で固まっていた。

すべてを思い出した。

あれは、十年以上前のことだった。葉月が高校生だった頃、妹のみーちゃんを連れて、祖父母の家へ向かう途中のこと。交差点を曲がる際、一瞬の不注意で、運転していた葉月はハンドルを切り損ねた。対向車との衝突。葉月は奇跡的に軽傷で済んだが、後部座席にいたみーちゃんは、その場で帰らぬ人となった。

葉月はその記憶を、あまりにも強烈な罪悪感と苦痛から、自ら心の奥底に封印した。事故に関する話は一切せず、友人や親戚にも触れさせなかった。彼女にとって、みーちゃんの死は、自分の過失によって引き起こされた、決して癒えることのない傷だったのだ。

しかし、部屋に現れていた物たちは、ホラーの具現化ではなかった。

それは、忘却の淵に沈みかけていたみーちゃんが、姉である葉月に、自分を思い出してほしいと訴える、切なる願いの具現化だったのだ。

黄色の帽子。みーちゃんが大好きだったおもちゃ。鉛筆で書かれた「みーちゃん」の文字。すべてが、亡き妹が葉月との思い出を繋ぎ留めようと、必死に発したメッセージだった。

恐怖は、一瞬にして砕け散り、代わりにはらわたをえぐられるような、言いようのない悲しみと、妹への途方もない愛おしさが、葉月の全身を駆け巡った。

忘却は、救済ではなかった。それは、愛する者への、最も残酷な裏切りだったのだ。

第四章 赦しの調べ

葉月は、リビングの隅に集められた物たちの山に、ゆっくりと近づいた。かつては不気味な侵入者に見えたそれらが、今では愛おしい妹の痕跡、残された唯一の愛情の証に見えた。

彼女は膝をつき、一つ一つの物に触れた。古びた木製の汽車を手のひらに乗せると、みーちゃんが初めてそのおもちゃを握った時の、小さな手の感触が蘇る。絵本を開けば、みーちゃんが懸命に文字を追っていた、真剣な横顔が目に浮かぶようだった。

「みーちゃん……」

葉月の声は、震えていた。十数年間、その名前を口にすることを避けてきた。呼べば、罪悪感に押し潰されてしまいそうだったから。

「ごめんね……本当に、ごめんね……」

涙がとめどなく溢れ、物たちの上に、ぽたぽたと落ちていく。その涙は、単なる悲しみの涙ではなかった。それは、後悔と、妹への限りない愛、そして、ようやく過去を受け入れようとする、葉月の心の叫びだった。

具現化した記憶の残滓は、葉月の涙を受け止めるかのように、静かにそこにあった。まるで、みーちゃん自身が、姉の傍に寄り添っているかのように。

恐怖の対象だったかすかな囁き声も、今では、姉を呼ぶ妹の、優しい声に聞こえる。

葉月は、自分の過去を直視した。あの日、自分が犯した過ち。それによって失われた、かけがえのない命。その痛みが、心の臓を直接掴まれるように激しく、しかし、同時に、みーちゃんとの温かい記憶も、鮮明に蘇ってきた。

幼い頃、一緒に見た花火大会の鮮やかな光。手をつないで散歩した夏の夕暮れ。二人で分け合った、秘密のお菓子。それらはすべて、葉月が自ら闇に葬り去ろうとしていた、尊い思い出だった。

葉月は、長い間、みーちゃんのことを「存在しないもの」として扱ってきた。それが、自分を守る唯一の方法だと信じて。しかし、みーちゃんは、彼女の中でずっと生きていたのだ。そして、自分が忘れ去られることを拒み、形を変えて、姉に語りかけ続けていた。

夜が明け、陽の光が部屋に差し込む。

リビングの隅の物たちは、以前と変わらずそこにあった。しかし、葉月の目には、もう不気味な影は宿っていなかった。それらは、葉月が過去と向き合い、自分を許し、そして妹を心の中で再び受け入れることを助けてくれた、大切な「証」だった。

葉月の心の中には、まだ深くえぐられた傷跡が残っている。しかし、その傷は、決して癒えない痛みではなく、愛する者を失った悲しみと、そして、その存在を永遠に心に刻むという、新たな覚悟の印となった。

第五章 残された温もり

葉月は、以前のように完璧に部屋を整頓することはなくなった。リビングの隅には、みーちゃんの「思い出の品」が、小さな棚に大切に飾られていた。古びたカスタネット、色褪せた絵本、そして、特に大切な、あの黄色の帽子。それはもう、恐怖の象徴ではなく、葉月が過去と向き合った証であり、みーちゃんとの絆を表す温かい光を放っていた。

あの後、部屋に新しい「侵入者」が現れることはなかった。夜の囁き声も、影も、完全に消え去った。みーちゃんは、もう葉月に思い出してもらう必要がなくなったからだろう。彼女は今、葉月の心の中で、かつてと変わらない無邪気な笑顔で生きている。

葉月は、生活の中で小さな変化を始めた。

今まで避けてきた家族との団欒に、積極的に参加するようになった。以前は罪悪感から避けていた、みーちゃんの思い出話にも耳を傾け、時には自ら語ることもできるようになった。彼女の顔には、以前の閉ざされた表情ではなく、どこか穏やかな微笑みが浮かぶようになった。それは、失われた記憶と向き合い、自分自身を許し、過去を乗り越えた者の顔だった。

ある晴れた日、葉月は、みーちゃんとの思い出の公園を訪れた。

ブランコに座り、空を見上げる。風に揺れる木々の葉が、みーちゃんの笑い声のように聞こえる。

かつては、この場所に来ることすらできなかった。思い出すことが、苦痛だったから。

しかし今、彼女の心には、温かい光が灯っている。悲しみは消えないが、それはもう、彼女を縛り付けるものではなかった。

葉月は、公園のベンチに座り、ポケットから一枚の古い写真を取り出した。それは、幼いみーちゃんが、黄色の帽子を被って、満面の笑みで葉月に抱きついている写真だった。

葉月は、その写真に語りかけるように、そっと呟いた。

「みーちゃん、お姉ちゃん、もう忘れないよ」

彼女は、忘却という名の牢獄から解放された。そして、恐怖の底から、真の愛と、自己赦しの意味を見出したのだ。

あの部屋に残された物たちは、今も葉月の心の中で、静かに輝き続けている。それは、失われた存在が残した、永遠の愛の残響であり、私たちに「本当に忘れてはならないもの」とは何かを問いかける、静かな問いかけでもある。

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