第一章 食卓の棘
夕食のスープは、強烈な鉄錆の味がした。
具材はカボチャと玉ねぎ。
本来なら甘く、とろりとしたポタージュのはずだ。
けれど、僕の舌が拒絶している。
対面に座る父から滲み出る、ざらついた感情の粒子。
それが湯気に混じり、スープを赤黒い汚泥の味に変えていた。
カチャリ。
父の手元が狂い、スプーンが床に落ちる。
以前の父ならあり得ない失態だ。
だが父は拾おうともせず、天井の染みを見つめたまま動かない。
「……また、ヒビが広がっている」
父の視線の先。
堅牢を誇ったダイニングの漆喰壁に、稲妻のような亀裂が走っていた。
昨日までは指の太さだったものが、今は拳が入りそうなほど口を開けている。
パリン、と遠くで何かが割れる音がした。
使用人が皿を落としたのだろう。
今夜で三度目だ。
かつてこの屋敷には「不注意」など存在しなかった。
「病」も「怪我」も、葛城(かつらぎ)の名の下では無縁のものだったはずだ。
「湊(みなと)。味がしないぞ」
父が掠れた声で呟く。
その顔色は蝋のように白く、首筋には原因不明の湿疹が赤くただれている。
「もっと塩を足せ。何も感じん」
違う。味がしないのではない。
父さんの感覚が、恐怖で麻痺しているんだ。
僕は無言でスプーンを口に運んだ。
舌の上で、父の焦燥感が弾ける。
酸っぱい。
腐りかけた果実のような、饐(す)えた酸味。
喉が焼けるように痛い。
それでも僕は飲み込んだ。
父の感情を拒絶すれば、この食卓は完全に崩壊してしまう気がしたからだ。
「……美味しいですよ、父さん」
嘘をついた。
その瞬間、口の中がジャリリと音を立てた。
灰の味だ。
自分の嘘が、こんなにも乾燥していて、味気ないものだとは知らなかった。
「お前は強いな。何も感じないのか」
父の瞳に映るのは、羨望と、それ以上の侮蔑。
父に愛されたい。
そう願うたび、父から流れ込む「失望」という苦い泥を飲まされる。
僕の味覚は、僕自身を傷つけるためだけにある。
守りは消えかけている。
屋敷を包んでいた見えない膜が、ボロボロと剥がれ落ちていく音。
僕には、それが咀嚼音のように聞こえてならなかった。
第二章 空白のレシピ
逃げるように自室の書庫へ入った。
胃の奥が重い。
父の汚い感情を消化できずにいる。
僕は震える手で、一冊の古い本を開いた。
『葛城家 献立覚書』。
代々の当主が記した、一族の記憶の集積。
ページをめくれば、インクの匂いと共に過去の感情が奔流となって押し寄せる。
祖父のページからは、重厚な赤ワインのような誇りが。
母が嫁いできた日のページからは、春の陽だまりのような甘い花の香りが。
けれど、僕が求めているのは、もっと古い記憶だ。
二十年前。僕が五歳だった夏。
『七月七日。夏祭り。のち、無花果(いちじく)のコンポート』
そこだけ、紙の質感が違った。
文字が滲んでいるのではない。
まるで、そこにあるはずの「味」だけが、スプーンでえぐり取られたように欠落している。
指でなぞる。
冷たい。
氷のような冷気ではなく、存在そのものが欠けた虚無の冷たさ。
僕の記憶にも、同じ穴が空いている。
幼い頃、熱を出した僕に冷たい果実を食べさせてくれた手。
父のゴツゴツした手ではない。
もっとしなやかで、どこか悲しげな指先。
誰だ。
誰が、僕に「味」を教えてくれた?
レシピの余白に、薄い鉛筆の跡を見つけた。
目を凝らす。
震える筆跡で、たった一行。
『愛するとは、手放すことだ』
読んだ瞬間、舌の奥に強烈な電流が走った。
塩辛い。
海水の味だ。いや、これは涙の味だ。
誰かの慟哭が、二十年の時を超えて僕の味蕾(みらい)を突き刺す。
「うっ……」
あまりの塩辛さに、僕は口元を押さえた。
けれど、その強烈な刺激が、錆びついていた記憶の歯車を無理やり回し始めた。
浮かび上がる座標。
ダウンタウンの片隅。
そこに行けば、この涙の主がわかる。
僕は本を抱え、深夜の屋敷を飛び出した。
第三章 分配された魂
屋敷のある高台から下りるにつれ、空気の味が変わっていく。
カビと排気ガス、そして饐えた油の臭い。
葛城家の「盾」が及ばない、下界の現実。
普段なら吐き気を催すほどの悪臭だが、今夜は不思議と気にならなかった。
その場所から、圧倒的な「甘い香り」が漂ってきていたからだ。
古びた児童養護施設だった。
外壁は塗装が剥げ、窓枠は歪んでいる。
貧しい場所だ。
けれど、僕の目は奇妙な違和感を捉えていた。
深夜だというのに、庭で数人の子供が走り回っている。
一人が派手に転んだ。
コンクリートの上だ。膝を擦りむいて当然の勢いだった。
「あっ、へいき!」
子供はすぐに立ち上がり、笑って走り去った。
傷一つない。
別の子が、錆びた遊具から飛び降りる。
着地失敗。
だが、まるでクッションの上のような柔らかい音と共に、何事もなく立ち上がる。
……異常だ。
彼らは守られている。
物理法則すらねじ曲げるほどの、分厚い加護によって。
僕は鼻から深く息を吸い込んだ。
肺が満たされる。
黄金色の蜜の味。
葛城家から失われたはずの「運」と「守り」が、ここでは飽和して溢れ出している。
この子たちは知らない。
自分たちが、本来なら一人の人間に独占されるはずだった莫大なエネルギーによって、理不尽なほど守られていることを。
「こんばんは。こんな時間に珍しいですね」
背後から声をかけられた。
施設の職員らしき初老の女性だ。
彼女からは、日向で干した布団のような、乾いた安心感の味がした。
「子供たちが、随分と……丈夫そうですね」
僕の問いに、彼女は目尻を下げた。
「ええ、本当に。この子たちは不思議と大きな怪我や病気をしないんです。まるで、見えない誰かがずっと手を繋いでいてくれるみたいに」
見えない誰か。
手を繋ぐ。
脳裏に、ボロボロのレシピ帳が浮かぶ。
『愛するとは、手放すことだ』
そうか。
あの日、記憶から消された「彼」は、盗み出したんだ。
葛城家の金庫に眠っていた「幸福」をすべて持ち出し、この子たちのスープに溶かし込んだ。
自分の存在と引き換えに。
一族の繁栄よりも、名もなき子供たちの生存を選んで。
「昔、ここに料理が得意な男性がいませんでしたか?」
僕が尋ねると、女性は少し驚いた顔をした。
「ええ。もう亡くなりましたが……とても優しいスープを作る方でしたよ。ただ」
彼女は困ったように笑う。
「ご自分の名前すら、忘れてしまっていたようで」
やはり。
記憶も、名前も、家族も。
すべてを「調味料」として使い切ったのか。
胸が熱くなった。
怒りではない。
これは、最高級のコンソメスープを飲んだ時に似た、身体の芯から温まる感覚。
叔父さん。
あなたは、僕に何を味わわせようとしたんだ。
第四章 最後の晩餐
屋敷に戻り、僕はキッチンに立った。
夜明け前の光が、シンクに青白く反射している。
手元には、熟した無花果。
赤ワイン、シナモン、そして一欠片のビターチョコレート。
叔父が遺した「空白のレシピ」を、僕の舌が記憶していた味で埋めていく。
コトコトと鍋が歌う。
甘い香りが立ち昇る。
けれど、僕はそこに一匙(さじ)だけ、強烈なスパイスを加えた。
「現実」という名の苦味を。
完成した皿を持って、父の寝室へ向かう。
ノックもせずにドアを開けた。
父は窓辺に立ち尽くしていた。
庭の木々が枯れ始めているのを、呆然と見下ろしている。
「……湊か。何の用だ」
「朝食です。食べてください」
僕は皿を押し付けた。
赤黒く煮込まれた無花果。
それは、今の崩れかけた屋敷の色に似ていた。
父は拒絶しようとした。
だが、漂う香りに何かに気づいたように、震える手でスプーンを握った。
一口。
父の口に運ばれる。
「っ……!」
父の顔が歪んだ。
「不味い!」と叫ぼうとしたのだろう。
けれど、その言葉は喉で詰まった。
僕にもわかる。
今、父の口の中に広がっている味が。
最初は、焼け付くような嫉妬の辛味。
優秀すぎた弟への劣等感。
家を捨てた裏切り者への憎悪。
だが、無花果を噛み砕いた瞬間、中から溢れ出すのは、とろけるような甘い愛情だ。
『兄さん、幸せになってくれ』
そんな、愚直で切実な祈りの味。
相反する味が、父の舌の上で喧嘩し、混ざり合い、やがて一つに融和していく。
カラン。
スプーンが皿に落ちた。
今度は、父の意思で落としたのだ。
「……エイイチ。そうか、お前……こんな味を」
父が両手で顔を覆う。
指の隙間から、堰(せき)を切ったように嗚咽が漏れた。
その瞬間だった。
ガガガガ、と屋敷全体が大きく鳴動した。
守りが、消える。
今まで辛うじて屋敷を繋ぎ止めていた、歪な執着という接着剤が溶けていく。
窓ガラスがビリビリと震え、次の瞬間、静寂が訪れた。
何かが壊れたのではない。
壁がなくなったのだ。
屋敷の中にこもっていた空気が、外の世界へと解き放たれていく。
僕は窓を開け放った。
吹き込んでくる朝の風。
それを舌で味わう。
雑多だ。
泥の臭い、花の香り、誰かの朝食の匂い、排気ガス。
喜びも悲しみも、幸運も不運も、すべてが混ざり合った混沌としたスープ。
「……苦いな」
涙を拭った父が、隣で風に吹かれている。
その顔からは、あの病的な湿疹が消えていた。
代わりに刻まれた深い皺は、年相応の弱々しさを帯びている。
「ええ。とても苦い」
僕は答えた。
口の中に残るビターチョコレートの余韻が、外気の雑味と混ざり合う。
叔父さんは、この味を僕に教えたかったんだ。
甘いだけの守られた世界ではなく、苦味も渋味も丸ごと飲み込んで、それでも「美味しい」と言える強さを。
「でも、悪くない味でしょう? 父さん」
父は僕を見た。
その瞳にはもう、僕を映す曇りはない。
「……ああ。少し、おかわりを貰おうか」
朝日が差し込む。
崩れかけた壁の隙間から入る光は、かつてないほど眩しく、そして鮮烈な味がした。