第一章 灰色のモザイク
レンの肉体は、時が綴る不揃いな詩だった。街の市場を歩けば、石畳の冷たさが足元から這い上がり、不安が胸をざわつかせる。その瞬間、彼の右手は節くれだった老人のものへと変じ、左手はまだ土の匂いも知らぬ子供のそれに縮んだ。道行く人々は『赫灼(かくしゃく)の赤』や『豊穣の緑』といった定められた色彩をその身にまとい、定められた人生を歩んでいる。だが、レンに与えられた色は『虚無の灰色』。どの色にも属さぬ異端の証であり、彼の不安定な存在そのものを象徴していた。
「見ろ、またあの『継ぎ接ぎ』だ」
露店の店主が吐き捨てる声が、香辛料のむせるような匂いに混じって耳に届く。侮蔑。それはレンにとって呼吸と同じくらいありふれたものだった。怒りが込み上げ、彼の頬には未来の自分が負うであろう深い傷跡が、まるで幻影のように一瞬浮かび上がっては消えた。人々は眉をひそめ、疫病神でも見るかのように道を空ける。その視線の棘に耐えながら、レンはただ俯き、灰色の外套のフードを深く被り直した。彼の世界は、常に断片化された自分と、それを拒絶する色彩豊かな世界との境界線上で、危うく揺れていた。
第二章 蒼の探求者
「あなたのその身体、呪いではなく祝福かもしれないわ」
その声は、古書の黴臭い香りが満ちる書庫で響いた。声の主はアオイ。『沈黙の蒼』の色彩を持つ彼女は、歴史の闇に埋もれた真実を探る考古学者だった。彼女の瞳は、レンを化物としてではなく、解読すべき古代文字のように、純粋な知的好奇心で見つめていた。
アオイは埃を払いのけ、ベルベットの布に包まれたものを机の上に置いた。中から現れたのは、光を吸い込むように鈍く佇む、無色の球体だった。
「先日の遺跡調査で見つけたものよ。『響石(きょうせき)』と呼ばれていたらしいわ」
その球体は、まるで何の変哲もないガラス玉に見えたが、レンが近づくと、彼の耳にだけ聞こえる微かな高周波の振動音が空間を震わせた。キーン、と頭蓋に響く音。
「触れてみて」
アオイに促され、おそるおそる指先を伸ばす。球体に触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。ひんやりとした滑らかな感触が指を走り、次の瞬間、脳内に無数の光景が奔流となってなだれ込んできた。陽光の下で笑う幼い自分。剣を握り、何かと戦う青年の自分。そして、穏やかな顔で空を見上げる、見知らぬ老年の自分。時間断片が激しく明滅し、彼の身体は痙攣するように揺れた。アオイが支えなければ、彼は床に崩れ落ちていただろう。球体は、彼の不安定な時間に共鳴していた。
第三章 綻びる世界
その日から、世界は静かに軋み始めた。『規律の黄』で統一された工業地帯の歯車が、突如として『憂鬱の紫』に染まり、機能を停止した。海の『深淵の藍』に、『情熱の橙』の魚が群れをなして現れた。禁忌とされる『混色』。ありえないはずの現象が、各地で不吉な兆候として報告され、人々は世界の終末が近いと囁き合った。秩序を司るはずの色彩の法則が、根底から崩れ始めていた。
レンとアオイは、書庫に籠もり『響石』の調査を続けていた。レンが球体に触れるたび、彼の時間は揺らぎ、球体自身も微かな光を放って、壁に断片的な映像を投影した。それは、見たこともない古代の儀式の風景だった。巨大な光の存在。その光が世界をいくつもの『色彩』に分かち、生命に割り振っていく。
「やはり……」アオイが息をのむ。「この世界の法則は、自然発生したものじゃない。誰かが、何かの目的で『創った』ものなのよ」
その『誰か』とは、世界を統べるとされる伝説の存在、『統一色』以外に考えられなかった。
レンは、自らの掌を見つめた。ある時は若々しく、ある時は老いている、奇妙な掌を。この身体と、世界の異変は無関係ではない。彼は確信していた。
第四章 神殿への道標
「行くしかない。世界の中心、統一色の神殿へ」
レンの決意に、アオイは黙って頷いた。混色現象は激しさを増し、社会の混乱は極に達していた。もはや、この謎から目を背けている時間はない。
旅は過酷を極めた。色彩の境界が曖昧になった大地は、予測不能な変化を繰り返した。緑の森が一夜にして白銀の雪原と化し、穏やかな川が灼熱の溶岩流に変わる。人々は己の色彩に閉じこもり、異なる色を持つ者を激しく排斥した。そんな中、どの色にも属さないレンの存在は、ある意味で自由だったが、同時に絶対的な孤独を意味した。
何度も心が折れそうになるたび、アオイの『沈黙の蒼』が彼を支えた。彼女は変わらずレンを「可能性の塊」として見つめ、その知性で道を切り拓いた。冷たい夜、アオイが焚き火のそばで、凍えるレンの子供のように小さな手を、彼女の大人びた手でそっと包んだことがあった。その温かさが、彼の心に初めて確かな輪郭を持つ感情を灯した。それは、何色とも名付けられない、ただただ尊い光だった。
第五章 統一色の告白
幾多の困難を乗り越え、二人はついに世界の頂にそびえる神殿にたどり着いた。そこは物理法則を超越した空間だった。壁も床も天井もなく、ただ無限の色彩が星雲のように渦巻き、静かな音楽を奏でていた。
神殿の最奥で、彼らは『統一色』と対面した。それは神々しい人型でも、荘厳な玉座でもなかった。ただ、宇宙そのものを凝縮したかのように、あらゆる光を内包し、静かに脈動する巨大な光球だった。
《よく来た、時の迷い子よ》
声は鼓膜を震わせず、直接魂に響いた。
《お前たちが思う通り、この世界の色彩法則は私が創ったもの。かつて、無限の混色は混沌と飽和を呼び、世界そのものを消滅させようとしていた。故に私は世界を分かち、調和という名の『停滞』を与えたのだ》
統一色の言葉は、伝説を肯定し、そして覆した。
《だが、生命は進化を求める。停滞という檻の中で、世界は自ら次の段階へ進もうと足掻き始めた。今起きている混色現象は、私の意志ではない。世界の、生命そのものの渇望なのだ》
光がひときゆらめき、衝撃の事実が明かされる。
《そして、私自身もまた、その進化の奔流の中にいる。私は、この停滞した世界を超え、時間さえも内包する『究極の統一色』へと変容しようとしている。……レン、お前はその進化の過程で、不完全に零れ落ちた最初の『雛形』なのだ》
レンの不安定な肉体。それは、過去と未来、全ての時間を統合しようとする、究極の存在の試作品だった。
第六章 時間の担い手
《雛形よ、お前が鍵だ》
統一色の声が、選択を突きつける。
《お前が自らの存在を肯定し、その本質を受け入れるならば、お前は究極への『道』となる。この世界は色彩の檻から解放され、時間は再編され、新たな次元へと昇華されるだろう。だが、それは今ある世界の終わりを意味する》
《拒絶するならば、進化の力は行き場を失い暴走する。全ての色が、全ての時が無秩序に混ざり合い、世界は完全な『無』に帰す》
世界の存亡が、化物と蔑まれてきた自分の双肩に懸かっている。なんという皮肉か。レンは震える手で、アオイから受け取った『響石』を握りしめた。もし世界を救えば、この温かい手も、自分を初めて人間として見てくれた蒼い瞳も、失われてしまうかもしれない。だが、拒絶すれば、彼女さえも無に消える。
彼の頬を、一筋の涙が伝った。その雫が落ちる瞬間、彼の顔は深い皺に刻まれた老人のものとなり、涙は長い年月を生きた者の諦観を滲ませていた。しかし、次の瞬間には、未来を知らぬ少年の顔に戻り、瞳には純粋な決意が宿った。
彼は、アオイに向かって微笑んだ。それは、彼が生まれて初めて見せた、どの時間の断片でもない、ただ一人の「レン」としての微笑みだった。
第七章 無限色の夜明け
「僕は、僕を選ぶよ。過去も、未来も、全ての僕を」
レンがそう告げると、握りしめた『響石』が甲高い音と共に砕け散った。無色の光の粒子が、彼の身体に吸い込まれていく。
彼の身体が、眩い光の奔流となった。
幼い子供の無邪気な笑い声。青年の力強い眼差し。壮年の深い苦悩。そして、老人の穏やかな叡智。無数の時間の彼が、モザイクのように、しかし完璧な調和をもって同時に存在し、やがて一つの輝きへと収束していく。それは、赤でも青でも黄でもない。世界が今まで一度も見たことのない、名状しがたい、しかし万物を内包する究極の『色彩』だった。
世界が白光に塗り潰される。アオイは咄嗟に腕で顔を覆ったが、指の隙間からその光景を目に焼き付けた。それは破壊ではなかった。創造だった。
やがて光が収まると、神殿は消え、彼女は元の荒野に立っていた。レンの姿はどこにもない。だが、何かが決定的に変わっていた。
彼女が顔を上げると、空には、かつてのように単一の『蒼』が広がってはいなかった。
オーロラのように、あるいは夜明けの空のように、無限の色彩が溶け合い、混ざり合い、絶えず新しい色を生み出しながら、壮麗なグラデーションを描いていた。
それは希望か、それとも新たな混沌の始まりか。答えは誰にも分からない。だが、アオイは、その空にレンの微笑みを見た気がした。色彩の檻から解き放たれた世界で、人々はこれから、本当の自分の色を見つけていくのだろう。彼女は頬を伝う光の粒を拭いもせず、ただ、その無限色の夜明けを見つめ続けていた。