残月の笛

残月の笛

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第一章 影を背負う剣士

神田の片隅に、橘隼人の道場はあった。陽の光さえ遠慮するように射し込む道場は、掃き清められてはいるものの、活気に欠け、いつもひっそりと静まり返っていた。かつて、父・左衛門は一橋家の剣術指南役を務め、その名は江戸中に轟いていた。しかし、八年前、藩の金を横領したという濡れ衣を着せられ、隼人の目の前で潔く腹を切った。以来、橘家の名は地に堕ち、隼人は父の「影」を背負いながら、ただ息を潜めるように生きていた。

「人を斬るな。剣は人を生かすためにある」

父の口癖だった「活人剣」という言葉が、呪いのように隼人の心を縛りつけていた。父は人を活かす剣を説きながら、自らは死を選んだ。その矛盾が、隼人から剣を振るう意味を奪っていた。

ある雨の日の午後だった。道場の引き戸が、か細い音を立てて開いた。そこに立っていたのは、濡羽色の髪に、雨の雫を宿した美しい娘だった。小夜、と名乗った娘の瞳は、深い悲しみの色を湛えていた。

「橘隼人様でいらっしゃいますね」

凛として、しかしどこか儚げな声だった。

「拙者の父、水野景貞をご存知でしょうか。貴方のお父上、左衛門様とは、無二の親友であったと聞いております」

隼人は息を呑んだ。水野景貞。父と同じ事件に連座し、獄中で病死したとされる武士の名だった。

小夜は懐から、白い布に包まれたものを取り出した。隼人の前に置かれたのは、真っ二つに割れた一本の竹笛だった。見るも無残な姿だが、磨き上げられた竹の肌には、使い込んだ者の手の温もりが残っているようだった。

「これは、父の形見でございます。そして……父と左衛門様が、命を賭して守ろうとした、真実への唯一の道標。お願いでございます。私たちの父の無念を晴らすため、貴方の剣をお貸しください」

小夜は、父たちが藩の重役・黒田勘兵衛の不正を暴こうとして、逆に罠にはめられたのだと語った。彼女の依頼は、その黒田を討つこと。復讐だった。

隼人の心は激しく揺れた。人を斬ることはできない。しかし、この娘の瞳の奥に燃える炎は、父の名誉を回復したいという己の心の奥底の願いと、確かに共鳴していた。父の汚名をすすげるなら。父の剣が、本当に「活人剣」であったと証明できるなら。

「……お引き受けいたしましょう」

絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。小夜は深く頭を下げ、その拍子に、彼女の袖から零れた雨の雫が、畳に小さな染みを作った。隼人は、割れた笛を手に取った。ひんやりとした竹の感触が、これから始まる宿命の重さを伝えているようだった。

第二章 清廉なる標的

黒田勘兵衛。それが、隼人の標的の名だった。調べを進めるうち、隼人は深い当惑に囚われた。黒田勘兵衛は、巷では稀代の名家老と謳われる人物だったのだ。質素倹約を自らに課し、藩の財政を立て直し、飢饉の際には私財を投げ打って領民を救ったという逸話には事欠かない。悪人の影など、どこにも見当たらなかった。

小夜が語る「悪鬼」の姿と、世間の評判が、隼人の中で不協和音を奏でる。本当にこの男が、父を死に追いやったのか?

疑念を抱えながらも、隼人は小夜との約束を違えるわけにはいかなかった。ある月夜、隼人は黒田の屋敷に忍び込んだ。闇に紛れ、息を殺して書斎にたどり着く。証拠となる書状の一つでも見つけ出せれば、と。

しかし、隼人の気配は、とっくに見抜かれていた。障子を開けた瞬間、そこに座していたのは、穏やかな顔で書見に耽る黒田その人だった。

「……待ちかねたぞ、橘左衛門殿の忘れ形見」

覚悟を決めて、隼人は柄に手をかけた。だが、黒田は微動だにしない。ただ、静かに隼人を見つめていた。その瞳には、敵意もなければ、侮りもない。むしろ、懐かしむような色が浮かんでいた。

「茶でも一服、いかがかな。お主の父君の話がしたい」

拍子抜けするとは、このことだった。黒田は、まるで旧知の友を迎えるかのように隼人を座らせ、自ら茶を点てた。湯気の向こうで、黒田はぽつりぽつりと語り始めた。若き日の父の武勇伝、剣への真摯な姿勢、そして、いかに彼が藩を憂いていたか。

「左衛門殿は、まこと見事な武士であった。あの御仁が、私欲のために藩の金を盗むなど、天地がひっくり返ってもありえぬこと」

黒田の言葉には、嘘の響きがなかった。隼人の心は、ますます混乱の渦に沈んでいく。この温和な老人が、父の仇? 小夜は、一体何を隠しているのだ?

道場に戻ると、小夜が不安げな顔で待っていた。隼人が黒田の様子を伝えると、彼女は血相を変えた。

「騙されてはなりませぬ! それこそが、あの男の狡猾な手口。人の心に取り入るのが、誰よりも上手いのです。早く……早く、あの男を斬ってくださいまし!」

彼女の必死な形相に、隼人は違和感を覚えた。それは悲しみというより、むしろ焦りに見えた。まるで、何かに追い立てられているかのような。隼人は、懐の割れた笛を強く握りしめた。この笛だけが、真実を知っている。そんな気がしてならなかった。

第三章 割れた笛の真実

答えは、思いがけない場所にあった。父の遺品を整理するうち、古い硯箱の底板が二重になっていることに気づいたのだ。震える手でそれを剥がすと、中から父の筆跡で書かれた日記が現れた。

一頁、また一頁と捲るたびに、隼人の呼吸は浅くなった。そこに記されていたのは、小夜から聞かされた話とは全く異なる、驚くべき「起請文」だった。

父・左衛門と水野景貞は、藩の不正を暴こうとしていたのではない。当時、贅沢に溺れる藩主を諌めるため、彼らは親友である黒田勘兵衛と三人で、一芝居打つことを計画したのだ。左衛門と水野が「巨悪」の汚名を被り、自らの犠牲をもって藩主の目を覚まさせる。そして、清廉潔白な黒田が、その後始末と藩の再建を成し遂げる。それが、彼らの命を懸けた「活人剣」の真の姿だった。

しかし、その密約が、藩内の過激派に漏れた。彼らはこれを好機と捉え、計画に乗じて本当に左衛門と水野を亡き者にした。父の自刃は、計画を全うし、親友・黒田を守るための、最後の覚悟だったのだ。

――では、小夜の復讐心は、一体どこから来たのだ?

隼人は、改めて割れた竹笛に目をやった。それはただ割れているのではなかった。二つに割れた内部は空洞になっており、密書を隠せる構造になっていた。しかし、中は空だ。父たちは、この笛を使って黒田と連絡を取り合っていたに違いない。

隼人は、小夜を道場に呼び出した。そして、父の日記を彼女の前に差し出した。

「小夜殿。いや……貴女は、一体何者なのですか」

日記に目を通した娘の顔から、みるみる血の気が引いていった。やがて、張り詰めていた糸が切れたように、彼女はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。

「私は……小夜ではありませぬ。私は、姉の妹、千代にございます……」

彼女の告白は、衝撃的だった。本物の小夜は、父・水野景貞と共に、過激派の刃にかかって死んでいた。幼かった千代だけが、奇跡的に生き延びた。彼女は、事件の断片的な情報と、「黒田」という名だけを頼りに、姉と父の仇を討つことだけを支えに生きてきたのだ。黒田が父たちの同志であったことなど、知る由もなかった。

「この笛は……姉と父の、たった一つの形見なのです。父の親友の息子である貴方なら……この笛に込められた何かを、解き明かしてくれるかもしれない。それが、私の最後の望みでした」

誤解から生まれた復讐の依頼。しかし、その根底にあったのは、家族を失った少女の、あまりにも純粋で、痛ましいほどの祈りだった。隼人は、千代の細い肩が哀れに震えるのを、ただ見つめることしかできなかった。

第四章 暁の活人剣

全ての線が繋がり、真実という名の輪郭が浮かび上がった。憎むべきは黒田ではない。父たちの志を汚し、千代の人生を狂わせた、あの日の過激派の残党こそが、真の敵だった。

その夜、黒田の屋敷に刺客が送られたという報せが飛び込んできた。父たちの密約を知る黒田を、口封じのために消しに来たのだ。

「行くぞ、千代殿」

隼人の声には、もう迷いはなかった。千代を道場に残し、黒田の屋敷へと疾駆する。

屋敷の庭は、既に血の匂いに満ちていた。数人の刺客を相手に、老いた黒田が奮戦している。隼人は鞘を払い、闇の中へと躍り出た。

「黒田殿、ご無事か!」

「橘殿……! 来てくれたか!」

金属がぶつかる甲高い音、肉を斬り裂く鈍い音。闇の中で、命のやり取りが繰り広げられる。隼人の剣は、冴えに冴えていた。しかし、それはもはや復讐の剣ではない。父が守ろうとした未来を、黒田が繋いできた想いを、そして千代の明日を――守るための剣だった。

一人の刺客が、隼人の死角から黒田に斬りかかる。隼人は、躊躇わなかった。体を翻し、その刃を受け止め、返す刀で相手の胸を貫いた。

ずしり、と重い手応え。初めて人を斬った感触が、腕から全身へと伝わる。しかし、心に宿ったのは、恐怖ではなく、静かな覚悟だった。

これが、父の言っていた「活人剣」か。

人を活かすとは、ただ斬らないことではない。守るべきもののために、非情の刃を振るう覚悟をも内包する、厳しくも気高い道のりなのだ。隼人は、八年の時を経て、ようやく父の言葉の意味を悟った。

夜が明け、暁の光が庭を照らす頃、戦いは終わっていた。生き残った刺客は逃げ去り、庭には静寂が戻った。血に濡れた刀を下げ、朝日を浴びて立つ隼人の姿は、影を背負っていたかつての彼ではなかった。

数ヶ月後。橘道場には、近所の子供たちの元気な声が響いていた。隼人は、穏やかな笑みを浮かべ、彼らに木剣の振りを教えている。その剣筋には、一点の曇りもない。

道場の隅では、千代が、あの割れた笛をそっと繋ぎ合わせようとしていた。膠でつけても、ひび割れた跡は決して消えない。だが、二つの破片は、不格好ながらも確かに寄り添い、一つの形を取り戻そうとしていた。

稽古を終えた隼人が、彼女の隣に腰を下ろす。夕暮れの優しい光が、二人を包み込む。

「過去は消えぬ。父の死も、私が人を斬ったという事実も。だが、我々はそれを背負い、生きていかねばならぬ」

隼人の言葉に、千代は静かに頷いた。そして、はにかむように、微笑んだ。

壊れた笛のように、彼らの心もまた、完全には元に戻らないだろう。だが、それでもいい。不完全な者同士が寄り添い、支え合い、明日へと歩いていく。生きるということは、きっと、かくも不完全で、そして、かくも美しいものなのだ。

残月が、東の空に白く溶けていくのが見えた。新しい一日が、始まろうとしていた。

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