追憶の砂、忘却の空
第一章 凍てつく残響
レンの事務所の空気は、いつも冬の匂いがした。埃と古紙、そして微かなインクの香り。それらが混じり合い、まるで忘れ去られた時間そのものが澱んでいるかのようだった。ドアベルが錆びた音を立て、一人の女性が入ってくる。冷たい外気を纏った彼女は、ミサキと名乗った。
「兄が、死にました」
震える声は、部屋の静寂に鋭い亀裂を入れる。彼女はテーブルの上に、黒檀の万年筆をそっと置いた。鈍い光を放つそれは、主を失ったばかりの孤独をまとっている。
「警察は心不全だと。でも、違うんです。兄は死ぬ直前まで怯えていました。『ありえないものが見える』と……」
レンは黙って頷き、その万年筆に視線を落とす。彼の右手の指先が、無意識に微かに震えた。この指で触れれば、故人の記憶を追体験できる。その映像、音、感情、痛みまで、すべてを自分のものとして。だが、その代償は重い。他者の記憶を一杯飲み干すごとに、自身の過去がグラスの底から一滴、また一滴と消えていくのだ。
部屋の隅で、古びた砂時計が静かに時を刻んでいた。決して止まることのない、琥珀色の砂。その流れを見つめながら、レンは自分という存在の輪郭が、日に日に曖昧になっていくのを感じていた。
「お願いします。兄が最期に何を見たのか、知りたいんです」
ミサキの瞳に宿る切実な光が、レンの空虚な心を刺す。彼はゆっくりと手を伸ばし、ひやりとした万年筆の感触を指先に受け止めた。
第二章 錆びたインクの記憶
指が触れた瞬間、世界が反転した。
インクの匂いが鼻腔を満たし、知らない男の書斎が目の前に広がる。ミサキの兄の記憶だ。ペン先が紙を滑る、心地よい摩擦音。しかし、その平和は突如として破られる。
窓の外。夕暮れの空が、ありえないほど深く、暗い紫色に染まっていく。部屋の温度が急速に奪われ、吐く息が白く凍った。そこに『それ』はいた。公園にあるはずのブランコが、歪にねじ曲がった黒い影として宙に浮かんでいる。実体はない。だが、その存在感は空間そのものを侵食し、見る者の正気を削り取っていく。
『失われたもの』。人々が抱く集合的な後悔の具現。
兄の心臓が恐怖に鷲掴みにされる感覚が、レン自身のものとなる。影がゆっくりと、軋むような音もなく揺れた。その動きに呼応して、世界の色彩が褪せていく。恐怖。絶望。そして、深い、深い後悔の念が津波のように押し寄せ、彼の意識を飲み込んだ。
ふっと、レンは自分の事務所の椅子に座っていた。額には冷や汗が滲み、心臓が激しく脈打っている。万年筆は床に転がっていた。同時に、頭の中にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われる。子供の頃、夏祭りで食べた綿菓子の味。初めて自転車に乗れた日の、膝の擦り傷の痛み。そんな些細で、けれど確かに自分のものであったはずの記憶が、跡形もなく消え失せていた。
部屋の隅の砂時計に目をやる。くびれた部分を流れ落ちる砂が、ほんの一瞬、奇跡のように逆流していた。だが、底に溜まったわずかな砂は、決して上に戻ることはない。あれが、自分の最後の砦だ。
第三章 後悔の連鎖
事件は一件だけではなかった。ミサキの兄と同じように、不可解な状況で命を落とした者が、この数週間で他に二人いた。レンは彼らの遺族を訪ね、遺品に触れた。
古い懐中時計。栞が挟まれたままの文庫本。
どの記憶の中にも、『それ』は現れた。歪んだブランコの影。被害者たちはそれぞれ異なる人生を送り、異なる後悔を抱えていた。事業に失敗した男。愛する人を裏切った女。だが、彼らが見た『失われたもの』は、寸分違わず同じ形をしていた。まるで、彼らの後悔が、たった一つの巨大な後悔に引き寄せられるように。
記憶を消費するたび、レンの自己はさらに崩壊していく。鏡を覗き込んでも、そこに映る男が誰なのか、確信が持てなくなった。自分の好きな食べ物も、眠るときの癖も、何もかもがおぼろげな霧の向こう側にある。ただ、他者の記憶だけが、生々しいリアリティを持って彼の中に蓄積されていく。
「彼らには、何か共通点が?」
事務所を訪れたミサキが尋ねる。彼女の存在だけが、今のレンをこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「場所だ」とレンは答えた。「彼らの後悔はすべて、街外れにある、閉鎖された古い公園へと繋がっている」
砂時計の砂は、消費のたびに逆流を繰り返す。しかし、底に沈む最後のひとかけらは、頑なにその場を動かない。まるで、決して失ってはならない、たった一つの真実を守るかのように。
第四章 公園の蜃気楼
錆びた鉄格子の門を抜け、レンとミサキは雑草に覆われた公園に足を踏み入れた。夕暮れの光が長く影を伸ばし、世界から色彩を奪っていく。空気が肌を刺すように冷たい。
そして、レンはそれを見つけた。
砂場の中心に、記憶で見たものと寸分違わぬ『失われたもの』が、陽炎のように揺らめいていた。歪んだブランコの影。その周囲だけ、空間が凍り付いている。
「何か、あるんですか?」隣でミサキが訝しげに呟く。彼女には、何も見えていない。
レンは吸い寄せられるように、一歩、また一歩と影に近づいた。その瞬間、激しい頭痛と共に、忘却の底に沈んでいたはずの光景が脳裏に迸った。
幼い自分の手。その手に繋がれた、もっと小さな、温かい手。ブランコを力いっぱい押す。高い、高い、と喜ぶ少女の笑い声。
――そして、手が滑り、少女が宙を舞うスローモーション。
地面に叩きつけられ、動かなくなった小さな体。その少女の顔が、今、隣にいるミサキと瓜二つであることに、レンは気づいてしまった。
「思い出した?」
ミサキの声は、氷のように冷徹だった。彼女は兄を探す依頼人ではなかった。
「あなたは、私の手を離した。あの日、ここで」
ミサキはレンの妹だったのだ。いや、妹の記憶が作り出した幻影か。彼女の兄など存在しない。連続怪死事件の被害者たちは、レンの巨大な後悔に引き寄せられ、その断片を見てしまったに過ぎない。
「違う、あれは事故だった」レンは喘ぐように言った。そうだ、自分のせいじゃない。だが、心の奥底ではずっと叫んでいた。もし、あの時、もっと強く手を握っていれば。その『たった一つの後悔』こそが、この世界に『失われたもの』を生み出す根源だった。
彼の能力も、この耐え難い記憶から逃れるために、無意識が生み出した防衛本能だったのだ。
第五章 砂時計の告白
全てが繋がった。あの砂時計は、彼が妹の記憶を心の奥底に封印したその瞬間から、時を刻み始めたのだ。それは彼の後悔そのものの結晶体だった。
他者の記憶を消費して砂が逆流するのは、他人の後悔で自分の後悔を上書きし、忘却しようとする無駄な足掻き。そして、底に決して消えずに残る砂粒。それは、妹の記憶。彼が彼であるための、最後の欠片。
「ごめん……」レンの口から、何十年も言えなかった言葉が漏れた。「ごめん、ミサキ」
彼の言葉に、ミサキの幻影が悲しげに微笑む。周囲に浮かぶ歪んだブランコの影が、まるで苦しむように激しく揺らぎ始めた。レンの後悔が、世界そのものを侵食し尽くそうとしている。
どうすれば、この連鎖を断ち切れる?
答えは、一つしかなかった。この世界に『失われたもの』を生み出す根源、その巨大な後悔の記憶そのものを、この身で完全に消費し尽くすこと。それは、レンという存在の完全な消滅を意味していた。
第六章 最期の消費
事務所に戻ったレンは、迷わず隅の砂時計を手に取った。ひやりとしたガラスの感触が、彼の最後の決意を肯定するようだった。
ミサキの幻影が、心配そうに彼を見つめている。
「今度こそ、守るよ」
レンは微笑みかけ、砂時計にそっと指を触れた。己の最も深く、最も辛い記憶の核心へと潜っていく。
温かい妹の手の感触。無邪気な笑い声。空高く舞い上がるブランコ。そして、永遠に続くかのような、手を離した瞬間の静寂。
彼の体が、足元からゆっくりと光の粒子に変わっていく。まず、名前を失った。次に、顔の輪郭がぼやけていく。他者を記憶することで失ってきた自己の断片が、今度は根源たる記憶を消し去るための燃料となって燃え上がっていく。
痛みはなかった。ただ、途方もない解放感と、そして微かな寂しさだけがあった。
愛していた。たった一人の妹を。そして、その愛ゆえに、後悔し続けてきた。その感情が、最後の輝きとなって霧散していく。
砂時計のガラスが砕け散り、底に残っていた最後の砂粒が、光となって空に溶けた。
第七章 空白の空の下で
世界から、『失われたもの』は消えた。街は何もなかったかのように平穏な日常を取り戻し、人々は理由の分からない不安感から解放された。
誰も、レンという男がいたことを覚えていない。彼が住んでいた事務所の部屋は、ずっと前から空き家だったことになっている。
あるアパートの一室。ミサキという女性が、窓の外をぼんやりと眺めている。彼女の部屋の壁には、一枚の写真が飾られている。幼い彼女と、少し年上の少年が、公園で笑顔で写っている。二人とも、幸せそうだ。
ただ、よく見ると、写真には不自然な空白があった。まるで、そこにいるはずのもう一人の誰かが、丁寧に切り取られてしまったかのように。
ミサキは時折、理由も分からず胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われることがあった。そんな時、彼女は決まって空を見上げる。
今日の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。その空の片隅から、まるで誰かが見守っているかのように、一筋の優しい光が、まっすぐに彼女の頬を照らしていた。