音の年輪

音の年輪

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第一章 七年目の手紙

俺、長谷川健太は、死んだ人間を信じない。幽霊も、天国も、ましてや「空から見守っている」などという感傷的な慰めも、すべて論理的思考が欠落した人間の作り話だと思っていた。父、雄介が癌で死んでから七年。その考えはますます強固になるばかりだった。

父は家具職人だった。寡黙で、不器用で、理屈よりも勘で動く人間。システムエンジニアとして、0と1の明快な世界に生きる俺とは、まさに水と油だった。子供の頃、父の仕事場である工房は、俺にとって近寄り難い場所だった。木の匂い、舞い上がる埃、そして仕事に没頭して俺に見向きもしない父の背中。そのすべてが、幼い俺と父との間に、見えない壁を作っていた。

七回忌の法要を終えた日の午後、アパートの郵便受けに、見慣れない一通の封筒が入っていた。クリーム色の、少し厚手の封筒。差出人の名前はない。裏返しても、ただ無機質な糊付けの跡があるだけだ。訝しみながら封を切ると、中から現れたのは一枚の便箋。そこに綴られていたのは、ぎこちない、けれど間違いなく見覚えのある、父の筆跡だった。

『健太へ。これを読んでいるということは、無事に七年が経ったということだな。突然で驚いただろう。お前に、一つだけ頼みがある。俺の最後の作品を探してくれ。それは、まだ誰の目にも触れていない、お前のための家具だ。ヒントは、お前が一番嫌いだった場所にある』

背筋に冷たいものが走った。手の震えを悟られまいと、便箋を強く握りしめる。死者からの手紙だと? 馬鹿馬鹿しい。誰かの悪趣味ないたずらに決まっている。父は死んだ。肉体は焼かれ、骨は墓の下だ。こんな手紙が届くはずがない。

「何、それ?」

背後から声をかけたのは、大学から帰ってきたばかりの妹、美咲だった。俺の手からひったくるように便箋を奪い、目を丸くする。

「お父さんの字だ……! すごい! 最後の作品ですって、お兄ちゃん!」

「馬鹿言うな。親父が死ぬ前に誰かに預けてたんだろ。くだらない」

俺は吐き捨てるように言ったが、美咲は興奮を隠せない様子で俺の腕を掴んだ。「探そうよ! お父さんからの、宝探しだよ!」

リビングでは、母の聡子が静かにお茶を淹れていた。俺たちが差し出した手紙を読み、母は何も言わずに、ただ、ふっと寂しそうに笑った。その表情が、これが単なるいたずらではないことを、俺に嫌でも認めさせていた。

「お前が一番嫌いだった場所……ねぇ」

母の視線が、俺を捉える。その場所がどこかなんて、訊かれるまでもない。俺は深くため息をつき、重い腰を上げるしかなかった。七年前に時が止まった、あの埃っぽい工房へ。

第二章 埃まみれの設計図

実家の裏庭にぽつんと立つ工房の扉は、錆び付いて軋んだ音を立てた。中へ足を踏み入れた瞬間、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。杉や檜の甘く乾いた香り、油の染みた機械の匂い、そして、時間の澱のような埃の匂い。壁には使い込まれた鉋(かんな)や鑿(のみ)が整然と並び、作業台の上には、作りかけの椅子の脚が、まるで主の帰りを待つように置かれていた。

「わあ……なんだか、お父さんがまだここにいるみたい」

美咲は目を輝かせ、あちこち見て回る。一方の俺は、この空間に満ちる父の痕跡に、胸がざわつくのを感じていた。ここで父は、俺たち家族を置いて、一人、木と向き合っていた。その事実が、子供の頃の俺には、何よりの裏切りのように思えたのだ。

「『一番嫌いだった場所』って、ここ以外にないもんな」

俺は皮肉っぽく呟きながら、壁際の棚に積まれた設計図の束に手を伸ばした。父の最後の作品とやらが、この工房にあるというのなら、まずは図面から探すのが合理的だ。

一枚、また一枚と、黄ばんだ紙をめくっていく。テーブル、本棚、箪笥……どれも父が手掛けた、実直で温かみのある家具の設計図だった。しかし、それらしい「最後の作品」は見当たらない。

「お兄ちゃん、見て! これ、お兄ちゃんが小さい時に作ったやつじゃない?」

美咲が指差したのは、作業台の隅に置かれた、いびつな形のペン立てだった。そうだ。小学生の夏休み、父に無理やり手伝わされて作ったものだ。ささくれ立った表面、斜めに空いた穴。不格好なそれを、父は「健太の処女作だな」と笑って、ずっと作業台に置いていた。俺はそれを、見るのも嫌だった。

苛立ちと、説明のつかない感傷が胸の中で渦を巻く。早くこんな場所から立ち去りたい。焦りながら図面の束を乱暴にめくった、その時だった。一枚だけ、手触りの違う、薄くて硬い紙が指に触れた。

引き抜いてみると、それは家具の設計図ではなかった。複雑な歯車や仕掛けが細かく描き込まれた、小さな箱の図面。いわゆる「からくり箱」だ。そして、その図面の裏に、鉛筆で書かれた小さな文字があった。

『始まりの音、終わりの木の下で』

「なんだ、これ……」

新たな謎。まるで、俺の論理的な思考を嘲笑うかのような、詩的な言葉。美咲が隣から図面を覗き込む。

「からくり箱……? お父さん、こんなものも作ってたんだ。ねえ、『始まりの音』って、なんだろう?」

俺は目を閉じ、記憶の引き出しを懸命に探った。始まりの音。終わりの木。点と点だった言葉が、ふと、一本の線で繋がった。

「……桜だ」

「え?」

「俺が生まれた日だ。親父が記念に植えた桜の木があったろ。毎年、春になると、俺たちはその木の下で花見をした。親父は、俺が生まれた時の産声を『始まりの音』だって言ってた」

そして、と思い出す。あの桜の木は、父が亡くなった年の夏、病気で枯れてしまったのだ。俺たちは、泣きながらその木を切り倒した。始まりの象徴であり、終わりの象徴でもあった木。

「庭だ。桜の木があった場所を掘るんだ」

俺は埃まみれの手を握りしめ、工房を飛び出した。父が仕掛けた謎解きの終点が、すぐそこにある予感がした。

第三章 からくり箱の告白

かつて見事な花を咲かせていた桜の木があった場所は、今ではただの更地だった。俺と美咲は、物置からシャベルを持ち出し、黙々と土を掘り返し始めた。ざく、ざく、と乾いた土を掻く音だけが、夕暮れの庭に響く。何をしているんだろう、俺は。死んだ人間の言葉に踊らされて。それでも、シャベルを握る手は止まらなかった。何かを確かめずにはいられない衝動が、俺を突き動かしていた。

三十分ほど掘っただろうか。シャベルの先が、こつん、と硬いものに当たった。土の中から現れたのは、湿気で黒ずんだ桐の箱だった。そっと抱え上げ、蓋を開ける。中には、丁寧に布で包まれた、美しい木目の「からくり箱」が鎮座していた。設計図で見たものと寸分違わない、精巧な作りだ。

「開けてみて、お兄ちゃん」

美咲に促され、俺は箱を手に取った。表面には、継ぎ目が見当たらない。子供の頃、父にいくつか簡単なからくり細工の解き方を教わったことがあった。特定の場所を押し、スライドさせ、また別の場所を捻る。記憶の糸を手繰り寄せ、指を動かす。カチリ、と小さな音がして、側面の一部が滑るように動いた。一つ、また一つと仕掛けを解いていくたびに、心臓の鼓動が速くなる。父の指が、思考が、この箱の中に封じ込められているようだった。

そして、最後の仕掛けを解いた時、カタン、と心地よい音を立てて、箱の天板が開いた。

息をのむ俺たちの前に現れたのは、予想していたような、小さな木彫りの芸術品ではなかった。

中に入っていたのは、びっしりと詰められた、何十本ものカセットテープ。そして、一台の小さなポータブルカセットプレーヤーと、もう一通の手紙だった。

『よく見つけたな、健太』

父の字が、今度はやけにはっきりと目に飛び込んできた。

『これが、俺の本当の「最後の作品」だ。驚いたか? お前はいつも、俺が工房にこもってばかりいると不満そうだったな。遊んでやれなくて、すまなかった。だがな、俺はあそこで、木だけを相手にしていたわけじゃない。これは、お前に聞かせたかった「本当の俺の声」だ。臆病で、不器用で、面と向かっては何も言えなかった、父親の声を』

震える手で、俺はプレーヤーに「1」と書かれたテープを入れた。再生ボタンを押す。イヤホンから聞こえてきたのは、ノイズ混じりの、少し若い、父の声だった。

『……あー、健太。聞こえるか。昭和六十三年、四月十日。お前が生まれた日だ。さっき、病院から帰ってきた。三千グラムの、元気な男の子。聡子も、よく頑張った。……お前の泣き声、すごかったな。あれが、俺の人生の「始まりの音」だ。これから、よろしくな、息子よ』

テープは続く。

『……健太、一歳。今日、初めて歩いた。三歩進んで、尻餅ついて、わんわん泣いた。その顔が、面白くて、可愛くて……』

『……健太、七歳。小学校の入学式。ぶかぶかの制服が、やけに頼もしく見えたぞ』

『……健太、十五歳。反抗期、真っ盛り。俺の言うこと、全部無視。部屋のドアを蹴るなよ。あれ、結構いい木なんだからな。……でもな、お前の気持ちも、分かる気がする。俺もそうだった』

テープを一本、また一本と変えていく。そこには、俺の知らなかった父がいた。俺が忘れてしまった俺自身の成長を、父は一日たりとも忘れず、その喜び、戸惑い、そして愛情を、夜ごと工房で、一人、テープに吹き込んでいたのだ。俺が父から最も遠いと感じていたあの時間は、父が俺に最も寄り添おうとしていた時間だった。

「愛してるぞ、健太」

不意に聞こえた言葉に、俺の思考は停止した。一度も、直接聞いたことのない言葉。

『……言えねえなあ、面と向かっては。でも、本当だ。お前は、俺の最高の傑作だ。自慢の、息子だ』

涙が、勝手に頬を伝っていた。論理も、理屈も、現実主義も、すべてがこの温かい声の前で溶けていく。俺はその場に蹲り、子供のように声を上げて泣いた。

第四章 音の年輪

嗚咽する俺の肩を、美咲がそっと抱いた。いつの間にか隣に来ていた母も、静かに涙を流していた。

「知ってたのよ、少しだけ」

母は、しゃがみこんだ俺の頭を優しく撫でた。

「お父さん、毎晩工房で何かしてるなとは思ってた。でも、何をって訊いても『秘密だ』って笑うだけで。……あなたのこと、本当に自慢だったのよ。ただ、伝え方が、あの人以上に下手な人を、私は知らないわ」

父の愛情は、言葉や態度という形にはならなかった。それは、無骨な家具のように、ただそこにあるだけだった。そして、このからくり箱とカセットテープは、そんな父が遺した、声でできた家具だったのだ。何十年経っても色褪せず、使うほどに温もりを増す、世界でたった一つの。

数日後、俺は自分の部屋のデスクに、あのいびつな木彫りのペン立てを置いた。かつては目を背けていた不格好な作品が、今では何よりも愛おしい宝物に見えた。

パソコンのモニターに向かい、キーボードを叩く。0と1で構成されたデジタルの世界。だが、もう以前と同じには見えなかった。この無機質なコードの羅列の向こうにも、誰かの不器用な想いや、伝えきれない愛情が込められているのかもしれない。そう思うと、冷たい画面に、ふと人の体温が宿るような気がした。

俺は時々、イヤホンで父の声を聴く。過去から届く声は、未来へ向かう俺の背中を、そっと押してくれる。父が一本一本の木に年輪を読み解いたように、俺もまた、カセットテープという年輪の中に、父の生きた証と、消えることのない愛情を見つけたのだ。

もう、父の新しい声が吹き込まれることはない。けれど、それでいい。

窓の外には、七年前と同じ夕焼けが広がっている。父が遺した音の年輪は、確かに俺の心に根付き、これから俺が生きていく日々の、揺るぎない支えとなってくれるだろう。俺は、もう一人ではなかった。

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