虚ろな空に捧ぐ最後の重さ
2 3068 文字 読了目安: 約6分
文字サイズ:
表示モード:

虚ろな空に捧ぐ最後の重さ

第一章 肩に積もる重さ

リオンの肩には、常に死者の重みがのしかかっていた。それは比喩ではない。彼が最後に言葉を交わした兵士、その瞳の奥に宿った微かな希望が、物理的な質量となって彼の肉体に積もるのだ。泥濘に沈んだ塹壕、黒焦げの森、硝煙の匂いが染みついた廃墟。彼はそんな場所ばかりを渡り歩いていた。死者の希望を拾い集めることで、彼の寿命はかろうじて引き延ばされてきた。

今もそうだ。ひしゃげた鉄兜のそばに横たわる白骨にそっと手を触れる。指先から、じんわりとした温もりのようなものが伝わり、ずしり、と背中に新たな重みが加わった。息が詰まるほどの圧迫感。だが、その重みに比例して、彼の心臓の鼓動は確かな力強さを取り戻す。空を見上げると、巨大な傷口のように裂けた「虚無の穴」が、不気味な静けさで浮かんでいる。あれが閉じる時、世界は気まぐれに時間を吐き出し、過去の戦場が亡霊のように現代に蘇る。リオンのような男にとっては、それが唯一の生きる糧を得る機会だった。

しかし、この重みは諸刃の剣だ。兵士の希望が、残された家族の困窮や、終わらない戦争の報せによって絶望に変われば、その重さは彼の寿命を猛烈な勢いで削り取っていく。希望は脆い。だからリオンは、ただひたすらに集め続ける。絶望が希望を上回る前に。肩に積もる重さだけが、彼がまだ生きている証だった。

第二章 錆びない時計と少女

新たな時間の逆行が起こり、百年前の「霧雨の平原」が灰色の空の下に出現した。ぬかるんだ大地を踏みしめ、リオンが очеред( очеред)の希望を探していると、不意に小さな影が視界の隅を横切った。

瓦礫の山にかがみこむ、幼い少女だった。

「ここで何をしている。危険だ」

リオンの声は、長い沈黙のせいで錆びついた鉄のように軋んだ。少女は怯えたように肩を震わせたが、その手は何かを固く握りしめている。

「……お母さんの、宝物」

少女が差し出したのは、泥に汚れた懐中時計だった。だが、奇妙なことに、その金属には一点の錆もない。リオンが手を伸ばすと、時計は彼の感情に呼応するかのように、鈍い琥珀色の光を放ち始めた。盤面には針も文字盤もなく、ただ複雑な螺旋模様が刻まれているだけだった。

「エラ」と少女は名乗った。両親を先の戦争で亡くしたという。リオンは、エラの澄んだ瞳の中に、かつて看取った幾人もの兵士たちが抱いていた希望の残滓を見た。それは守るべきものだと、理屈ではなく魂が理解した。彼は無言でエラの手を取り、ぬかるんだ平原を歩き始めた。背中の重みが、少しだけ温かく感じられた。

第三章 武器の山

エラを連れて旅を続けるうち、二人はやがて例の場所にたどり着いた。全ての戦場に、まるで呪いのように出現する「無数の錆びた武器が積み上がった山」。剣、槍、銃、そして見たこともない形状の兵器までが、天を突くように雑然と積み上げられている。人々はこれを、次なる戦争の勃発を告げる不吉な予兆だと恐れていた。

その山に近づくにつれ、リオンの背中を圧迫する重みが、氷のように冷たく、そして鋭く軋み始めた。彼が背負ってきた希望たちが、山の放つ圧倒的な絶望の気配に共鳴し、悲鳴を上げているかのようだ。

「リオン、苦しいの……?」

エラが心配そうに見上げる。彼女の手の中の懐中時計は、山が近づくにつれて激しく明滅を繰り返していた。琥珀色だった光は深い藍色に変わり、盤面の螺旋模様がまるで生き物のように脈動している。その光景は、リオンの脳裏に忘れかけていた感覚を呼び覚ました。これは、希望が絶望に転じる瞬間の、あの忌まわしい感覚だ。このままでは、彼の命も、背負った希望も、全てが霧散してしまう。

第四章 虚ろな穴が開く時

その瞬間だった。空の「虚無の穴」が、これまで見たこともないほど大きく、黒く、深く広がった。世界がぐにゃりと歪み、耳鳴りのような空間の軋む音が響き渡る。

「きゃっ!」

エラが握りしめた懐中時計が、閃光と呼ぶべきほどの眩い光を放った。リオンは思わず目を閉じる。だが、光は彼の瞼を貫き、直接脳髄を焼き付けた。

――無数の光の矢が空を覆う戦場。

――大地を焼き尽くす、見たこともない巨大な鉄の巨人。

――絶望に歪んだ兵士たちの顔、顔、顔。

それは、過去の光景ではなかった。未来だ。これから起こる、さらに凄惨な戦争の記憶の断片。虚無の穴から零れ落ちた、未来の残滓。

リオンは全てを悟った。あの武器の山は、次なる戦争の『予兆』などではない。あれは、これから起こる未来の戦争で使われ、打ち捨てられる兵器たちの『墓標』そのものなのだ。そして、繰り返される戦争は、この地に降り注ぐ未来の絶望的な記憶を、兵士たちの死という器を使って『回収』するための、巨大で残酷な儀式だったのだ。懐中時計の螺旋は、過去と未来を繋ぐ、終わらない戦争の系譜図だった。

第五章 最後の希望

絶望的な真実を前に、リオンの選択肢は一つしかなかった。この呪われた螺旋を、自分の代で断ち切る。

彼はエラの頭をそっと撫でた。

「エラ。君は生きろ。俺のことは、忘れていい」

少女の戸惑う顔を背に、リオンは錆びた武器の山へと、一歩、また一歩と足を進める。背中の重みが、鉛のように彼の身体を大地に引きずり込もうとする。だが、彼は歩みを止めなかった。

山の麓にたどり着き、彼は冷たい鉄の塊に手を触れた。そして、意識を集中させる。これまで集めてきた、彼の命を繋ぎ止めてきた、全ての兵士たちの「最後の希望」。その全ての重さを、今、この瞬間に解放する。

「次の戦争の礎になるくらいなら……この希望で、全ての戦いを終わらせてやる」

彼の背中から、眩いばかりの光の奔流がほとばしり、武器の山へと注ぎ込まれていく。凄まじい圧迫感から解放され、彼の身体は羽のように軽くなる。それは、彼の命が急速に失われていく感覚と同義だった。薄れゆく意識の中で、リオンは錆びた武器の山が、まるで新品であったかのように、清浄な銀色の輝きを放つのを見た。

第六章 新しい夜明け

武器の山から放たれた光は一本の柱となり、天を衝き、空に開いた「虚無の穴」を꿰뚫いた。黒い傷口は聖なる光に浄化され、ゆっくりと、しかし確実に塞がっていく。やがて、世界そのものが真っ白な光に包まれた。

どれほどの時が経っただろうか。

エラは、朝露に濡れた草原に一人で立っていた。なぜここにいるのか、思い出せない。手には、何の変哲もない古い懐中時計が握られている。盤面の螺旋模様は消え、ただの傷だらけの金属板に変わっていた。

彼女は、誰かのことを忘れてしまったような、胸が締め付けられるほどの喪失感に襲われた。理由もわからないのに、涙がとめどなく頬を伝う。

空を見上げると、そこには一点の曇りもない、どこまでも青い空が広がっていた。かつてそこにあったはずの、不気味な穴の気配は微塵もない。遠くの集落から、槌を打つ音が聞こえてくる。それは何かを壊す音ではなく、何かを創り出す、穏やかでリズミカルな音だった。人々は、武器の作り方も、戦争という概念そのものも、全て忘れてしまったのだ。

エラは涙を拭うと、その音のする方へ歩き出した。新しい世界が、静かに始まろうとしていた。それは、一人の男が捧げた、無数の希望の重みの上に築かれた、あまりにも優しい夜明けだった。


TOPへ戻る