彩色のレクイエム、忘却のパストラーレ
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彩色のレクイエム、忘却のパストラーレ

第一章 灰色の平原と甘い香り

アッシュの鼻腔を、腐臭に混じって不釣り合いなほど甘い香りがかすめた。それはかつて『希望』と呼ばれた感情の香りだった。彼の足元には、色を失い、ただの濃淡の染みと化した大地が広がっている。大戦の終結から十年。この世界は、まるで古い写真のように、少しずつ色褪せていた。

彼は膝をつき、灰色の土を指でなぞる。目を閉じると、香りは一層濃くなる。焼き菓子のような甘い香りの向こうに、残像が揺らめいた。泥にまみれた若い兵士が、故郷に残した恋人の写真を握りしめ、微笑んでいる。その笑顔が弾けた瞬間、彼の胸を敵弾が貫いた。残像はノイズと共に消え、アッシュの胸に鈍い痛みが残る。

「また、見えたのか」

背後からの声に、アッシュはゆっくりと振り返った。歴史学者のリラが、分厚いノートを片手に心配そうに彼を見つめている。彼女の髪は、本来の色を思い出せない、くすんだ亜麻色だった。

「兵士の……最後の希望だ」アッシュは呟き、懐から小さな石を取り出した。『色を失った虹の石』。リラがそう名付けた、ただの乳白色の石ころだ。彼は吸い込んだ甘い香りを、そっと石に吹きかけた。すると、石の表面に一瞬だけ、鮮烈な緋色――『勇気』の色が奔った。その光の中に、銃剣を構え、雄叫びを上げて突撃する兵士たちの幻影が映り込み、すぐに消えた。

「緋色……『勇気』はまだ、この地に微かに残っているのね」リラはそう言って、ペンを走らせる。「けれど、それもすぐに消える。この世界から、また一つ色が薄れる」

アッシュは立ち上がり、遠くを見つめた。地平線の彼方、世界の中心とされる場所だけが、奇妙な光を放っている。まるで、世界中から盗んだ色彩を、そこに塗りたくったかのように。

第二章 境界を越えて

二人の旅は、失われた色の境界線を越える旅だった。青を失った川は、まるで水銀が流れているかのように無機質に光り、そのほとりでアッシュは『悲しみ』の、塩辛い涙の香りを嗅いだ。黄色を失った麦畑は、収穫の喜びを知らないまま枯れた亡霊のように垂れ下がり、そこには『歓喜』の、太陽のような温かい香りの残滓があった。

リラは、アッシュが嗅ぎ取る感情の香りと、その場所で失われた色彩を几帳面に記録していく。彼女は信じていた。世界の中心、『禁断の地』と呼ばれる極彩色の領域に、この世界を救う答えがあると。

「理論上、色は消滅したわけじゃない。どこかに集積されているはずなの」夜、焚き火の揺らめく光の中でリラは語った。「その場所こそが、世界の色彩を取り戻すための鍵よ」

アッシュは黙って、火を見つめていた。彼の耳には、リラの声と共に、別の音が聞こえ始めていた。風の音に混じる、微かな囁き。それは『禁断の地』に近づくにつれて、少しずつ輪郭を帯びてきていた。

「何か聞こえないか」

「いいえ、風の音だけよ」

リラは不思議そうに首を傾げた。だがアッシュには分かっていた。あれは風ではない。世界から失われた感情たちが、一つの場所で共鳴し、生み出している不協和音だ。そしてその不協和音の中から、ひときわ甘美な誘惑の声が、彼を手招きしていた。

第三章 誘惑の残響

『禁断の地』を囲む最後の壁、巨大な山脈を越えたとき、アッシュは息を呑んだ。眼下に広がる光景は、狂気的とさえ言えるほどの色彩で溢れていた。空はコバルトブルーと茜色が混じり合い、大地にはエメラルドとルビーを砕いて撒いたような花々が咲き乱れている。世界が失ったはずの、全ての色彩がそこにあった。過剰に、暴力的に。

そして、香り。

希望の甘さ、憎悪の焦げ付き、悲しみの塩辛さ、喜びの温かさ、絶望の酸っぱさ――あらゆる感情の香りが巨大な渦となり、アッシュの感覚を麻痺させた。

「見て、アッシュ!なんて美しいの……!ここよ、ここが再生の地よ!」

リラが歓喜の声を上げる隣で、アッシュは頭を抱えてうずくまった。誘惑の声が、今や脳に直接響き渡る。

『争え。憎め。奪え』

『さすれば、その手に色は蘇る』

『お前たちが失ったものは、戦うことでしか取り戻せない』

それは、戦場の記憶が持つ、抗いがたい魔力にも似た響きだった。この極彩色の地は、再生の場などではない。世界を再び戦争の坩堝に突き落とすための、巨大な罠なのだ。

第四章 極彩色の心臓

二人が谷の中心に辿り着くと、そこには半透明の巨大な結晶体が存在した。それはまるで巨大な心臓のように、ゆっくりと脈動し、その度に周囲の色彩が波紋のように揺らめく。誘惑の声は、間違いなくこの結晶体から発せられていた。

「これが……全ての源……」リラが呆然と呟く。

アッシュが結晶体に一歩近づいた瞬間、強烈な感情の奔流に押し流され、彼はよろめいた。その手から、『色を失った虹の石』が滑り落ち、カラン、と音を立てて結晶体に触れた。

その瞬間、世界が白く染まった。

アッシュとリラの脳裏に、直接、一つの記憶が流れ込んできた。それは、遥か昔の、一人の人間のビジョンだった。終わらない戦争、血と涙に濡れた大地を嘆き、世界から『争い』という概念そのものを消し去ろうと願った、最初の人間。彼は自らの感情の全てを触媒とし、世界中の戦争と、それに伴う憎悪や悲しみを一身に吸収しようとした。

だが、その試みは失敗した。

人間の器は、世界の『戦争』を抱えるにはあまりに小さすぎた。彼は制御を失い、人の形を失い、吸収した感情と戦争の記憶を永遠に循環させる、この巨大な結晶体へと変貌してしまったのだ。世界から色が失われていくのは、この結晶体が新たな感情を求め、人々から絶えずそれを吸い上げているからだった。そして、あの誘惑の声は、結晶体と化した彼が吸収した、純粋な『闘争本能』そのものの叫びだった。

第五章 香りのレクイエム

意識が現実に戻ったとき、リラは膝から崩れ落ちていた。「なんてこと……ここは墓場だったのよ。失われた色の、そして……平和を願った一人の人間の」

アッシュは静かに立ち上がった。彼の表情には、迷いはなかった。彼は結晶体を見据え、ゆっくりと息を吸い込む。彼の記憶の中にある、全ての香りを呼び覚ますために。

戦場で死んだ兵士の最後の『希望』。

我が子を失った母親の底なしの『悲しみ』。

故郷を焼かれた男の焦げ付いた『憎悪』。

ささやかな日常にあった、温かい『喜び』。

彼は、自分がこれまで嗅ぎ分けてきた全ての感情の香りを、その想いの全てを、掌の中の『色を失った虹の石』に、そっと吹き込んでいった。それは、鎮魂歌(レクイエム)を捧げる祈りのようだった。

石は、七色の光を放ち始めた。虹、という言葉を誰もが忘れてしまった世界で、それは奇跡的な輝きを放っていた。

アッシュは、光り輝く石を両手で包み、再び結晶体に触れさせた。

「思い出せ」

彼の声は、囁きのようだった。

「お前が本当に願ったことを。お前が、何のために全てを犠牲にしたのかを」

結晶体は激しく脈動し、誘惑の声と、か細い平和への祈りがせめぎ合うように明滅する。そして――。

第六章 色彩の孤独

パリン、と澄んだ音が響き、巨大な結晶体は光の粒子となって砕け散った。そこから解放された膨大な色彩が、奔流となって世界中に広がっていく。

空は忘れ去られていた紺碧を取り戻し、雲は純白に輝いた。アッシュたちの足元の花々は、それぞれの名前通りの色を咲かせ、リラの髪は美しい亜麻色に輝いた。灰色の世界に、色が還ったのだ。

人々は空を見上げ、歓声を上げた。だが、その顔にはどこか困惑の色が浮かんでいた。彼らは、なぜ今まで世界が色を失っていたのか、その理由を理解できなかった。

『戦争』という概念そのものが、結晶体と共に消滅したのだ。

人々は、『争う』という行為が何であるかを忘れた。憎しみも、嫉妬も、そして過去の過ちから何かを学ぶということも、できなくなった。歴史を研究していたリラでさえ、自分が何を追い求めていたのかを見失い、ただ美しい空を呆然と見上げていた。

世界は完璧に平和になった。だがそれは、感情的に未熟で、何も学べない、ガラス細工のような危うい平和だった。

アッシュだけが、全てを覚えていた。焦げ付いた憎悪の香りも、金属的な勇気の香りも、彼の記憶にはっきりと刻み付けられている。彼は、色鮮やかに蘇った世界で、ただ一人、戦争の記憶を抱きしめていた。

美しすぎる世界の中で、アッシュの『平和の孤独』が、静かに始まった。

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