認識の残響、忘却の種
1 3548 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

認識の残響、忘却の種

第一章 触れたものの影

カイは、呪われた指先をいつも革の手袋の中に隠していた。彼が素手で触れたものは、その存在感を失い、輪郭を曖昧にしていく。壁の染みも、道端の小石も、ただの一輪の花でさえも。触れるたびに、対象が宿していた記憶の断片が、夜ごと彼の夢に流れ込んできた。それは、見知らぬ誰かの喜びであり、悲しみであり、そして静かな諦念だった。

代償は、彼自身の存在だった。

姿見を覗き込む。そこに立つ青年は、まるで薄い水彩画のようだった。背景の壁紙の模様が、彼の身体を透かして見える。息を吸い込む。吐き出す。その行為だけが、かろうじて彼がまだこの世界に繋ぎ止められている証だった。

この世界は、他者からの「認識の光」によって形作られている。誰もが見つめ、心に留めることで、万物はその実体を保つのだ。しかし、その光が急速に弱まっていた。街から色が抜け落ち、建物の角は丸くぼやけ、人々の声は風に溶けるようにか細くなっていく。誰もが消滅の予感に怯え、互いの顔を必死に見つめ合うが、その眼差しさえも次第に力を失っていた。

カイは夕暮れの公園を歩いていた。錆びたブランコが、陽炎のように揺らめいている。かつて子供たちの笑い声が満ちていたはずの場所は、今はただ静寂が支配していた。ふと、バランスを崩した彼の指先が、手袋の隙間から滑り出て、ブランコの鎖に触れてしまった。

ひやり、とした金属の感触。そして、微かな抵抗が霧散するように消える。ブランコの輪郭が、さらに淡く、朧げになった。

その夜、カイは夢を見た。小さな手が鎖を握りしめ、空を蹴る。高く、もっと高く。耳元で響く快活な笑い声と、背中を押す優しい手の温もり。それは、彼が吸収したブランコの記憶。目覚めた時、枕に落ちた涙の跡が冷たかった。そして鏡の中の彼は、昨日よりもさらに透明になっていた。

第二章 忘却の囁き

世界の崩壊は加速していた。人々は互いを忘れないよう名前を呼び合い、過去を語り合ったが、その声は虚しく響くだけだった。まるで、巨大な何かが世界中の認識を吸い上げているかのように。

「元凶は、僕のこの能力なんじゃないか」

その疑念は、冷たい霧のようにカイの心を覆っていた。彼は答えを求め、忘れられた書物だけが眠る旧市街の図書館へ向かった。埃の匂いが鼻をつく。指先で背表紙をなぞるだけで、その本を綴じた職人のため息が聞こえてきそうで、彼は慎重に歩を進めた。

古い羊皮紙の束の中に、彼は「大鏡」の伝説を見つけた。かつて世界の中心に聳え立ち、あらゆる存在からの認識を集め、世界の形を安定させていたという巨大な鏡。だが、ある時原因不明のまま砕け散り、その破片は世界中に散らばったと記されていた。

文献を置こうと、書棚に手をついた瞬間だった。

「あっ……!」

手袋越しながらも、強い力が彼の意識を引いた。脳裏に流れ込む、木を削る音、ニスを塗る指の感触、そして書棚を完成させた老いた職人の静かな満足感。カイはよろめき、壁に背を預けた。吸収する記憶が多すぎる。心が、他人の感情で飽和していく。

ふらつく足で図書館の奥へ進むと、書物の山の中に、一点だけ幽かな光を放つものがあった。掌ほどの大きさの、虹色にきらめくガラス片。引き寄せられるように手を伸ばし、それを拾い上げる。

瞬間、世界が歪んだ。激しいめまいの後、彼の目の前に、見たこともない風景が広がった。それは原初の光と混沌が渦巻く、まだ名前のない世界の姿だった。

第三章 ガラス片が見せる真実

それは「忘却のガラス片」。大鏡の破片の一つだった。伝説によれば、触れた者の最も古い「認識の欠片」を映し出すという。カイがガラス片を握りしめると、混沌の風景は次第に形を成し、ある光景を映し出した。

暖かい光。柔らかな産着の感触。そして、彼の小さな身体を包み込む、優しい腕の温もり。

『私の、可愛いカイ』

囁くような声が、魂の奥深くに直接響いた。それは、彼が赤ん坊の頃、母親に見つめられていた記憶。彼女の愛情に満ちた眼差しこそが、カイという存在をこの世に形作った、最初の「認識の光」だった。涙が、彼の薄くなった頬を伝った。

しかし、安らぎは束の間だった。ガラス片を握る指先が、まるで砂糖菓子が水に溶けるように、さらに透けていくのを感じる。このガラス片は、古い認識を映し出す代償に、触れた者の存在そのものを吸い取るのだ。

それでも、カイはガラス片を離さなかった。これが、世界の謎を解く唯一の手がかりだと確信していた。彼は決意した。大鏡があったとされる、地図にも載っていない「世界の頂」へ向かうことを。この呪われた能力の意味と、世界の消滅の真実を知るために。

第四章 過負荷の残響

世界の頂への旅は、孤独な巡礼だった。道中で出会う消えかけの風景、忘れられた家、名前のない墓標。カイはそれらすべてに触れた。触れるたびに、無数の記憶が彼の内に流れ込み、蓄積されていく。誰かの初恋の甘酸っぱさ、夢破れた夜の苦さ、家族と囲んだ食卓の暖かさ。彼の心は、消えゆく世界の巨大な墓標となり、彼の身体は、月の光さえ透かすほどに希薄になった。

頂が近づくにつれて、空気が奇妙な圧力を帯びてくるのを感じた。そして、カイは恐るべき真実にたどり着く。

世界が消えかけているのは、「認識の光」が弱まったからではなかった。

逆だ。過剰になりすぎたのだ。

絶え間なく流れる情報、無数の視線、SNSで増幅された感情。誰もが誰もを認識し、評価し、消費する。世界は、その膨大すぎる認識の奔流に耐えきれず、過負荷で悲鳴をあげていた。存在の器が、注がれる認識の圧力で砕け散ろうとしていたのだ。

そして、彼の能力。

「存在感吸収者」。それは呪いではなかった。飽和し、崩壊寸前の世界が生み出した、苦肉の安全装置。溢れ出す認識を吸収し、世界が崩壊するのを防ぐための、孤独な調整弁。彼は世界の元凶などではなかった。世界を救うために生まれた、悲しい防御機構だったのだ。

第五章 無になるための選択

ついにカイは世界の頂にたどり着いた。そこには風化した大鏡の台座だけが、静かに佇んでいた。彼の身体はもはや陽炎のようで、背後の空の色がはっきりと透けて見える。風が吹けば、そのまま霧散してしまいそうだった。

彼は震える手で「忘却のガラス片」を台座の中央に置いた。するとガラス片は、カイがその身に宿してきた無数の存在感、吸収した全ての記憶を吸い上げるように、まばゆい光を放ち始めた。

カイは、自らの役目を悟った。

古い、飽和した認識で満たされたこの世界を、一度「無」に還す。彼が吸収した全ての存在感を、新しい世界を始めるための「認識の種子」として解放する。そのために、彼自身が最後の器となり、完全に消滅するのだ。

彼は静かに目を閉じ、最後にもう一度、ガラス片に映る母親の温かい記憶を心に浮かべた。あの最初の光だけが、彼自身の、唯一の記憶だった。

ありがとう、お母さん。

カイは微笑み、革の手袋をゆっくりと外した。ほとんど透明になった、骨張った指先。彼はその手を、自らの胸にそっと触れさせた。自分という存在に残された、最後のひとかけらを、愛する世界に還すために。

第六章 新しい世界の夜明け

カイの身体は、音もなく光の粒子へと分解された。それは、夜空に生まれたばかりの銀河のように、静かで荘厳な光景だった。彼が吸収してきた全ての喜びと悲しみ、愛と憎しみの記憶が、無数の「認識の種子」となって空へと舞い上がり、ゆっくりと世界中に降り注いでいく。

光の雨が止む頃、世界は生まれ変わっていた。

ぼやけていた街の輪郭は再び鮮明な線を取り戻し、人々の顔には血の気が差し、その瞳には確かな光が宿っていた。世界は、過剰な認識の喧騒から解放され、静かで穏やかな、新しいサイクルを開始したのだ。

世界の頂では、台座に置かれたガラス片が、澄み切った輝きを放つ「真実の目」へと姿を変えていた。それは、まだ誰の認識にも染まっていない、生まれたばかりの美しい世界を、ただ静かに映し出している。

カイという青年は、もうどこにもいない。彼の名前を覚えている者も、彼の姿を見た者も、誰一人として存在しない。

だが、街を吹き抜ける風の音に、朝露に濡れた花々の香りに、そして、すれ違う人々の微笑みの中に、世界を救うために自らを「無」にした、一人の青年の優しさの残響が、確かに感じられた。

新しい世界は、彼の静かな自己犠牲の上に、今、始まったばかりだった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る