残響の器
第一章 触れられぬ世界の欠片
ユラは、世界から一枚の皮膜を隔てて生きていた。薄汚れた革手袋が、その皮膜だった。彼にとって触れるという行為は、祝福ではなく呪いそのものだったからだ。指先が何かに触れるたび、その存在が迎えるであろう最期の瞬間が、彼の肉体を嵐のように駆け巡る。
市場の喧騒は、色と音と匂いの洪水だった。焼きたてのパンの香ばしさ、香辛料のむせるような刺激、人々の賑やかな声。ユラは人波を縫うように歩き、露店の隅に積まれた深紅のリンゴに目を留めた。その完璧な丸みと艶やかな皮は、生命の謳歌そのものに見えた。だが、ふと人波に押された拍子に、彼の指先が――手袋の革越しですらなく、偶然めくれた手首の素肌が――一つのリンゴに触れてしまった。
瞬間、世界が反転する。
甘く瑞々しい果肉が、内側からじゅくりと腐敗していく感覚が舌を焼いた。緻密な組織が崩れ、茶色い染みが広がり、やがて甘美な香りは酸っぱい腐臭へと変わる。皮は張りを失って皺が寄り、ぶよぶよとした感触が全身を這い回り、最後には形を失った汚泥となって崩れ落ちる。その全過程が、数秒にも満たない時間で、ユラの肉体を通過した。
「うっ……!」
彼はその場に膝をつき、胃の底からせり上がってくるものを懸命にこらえた。周囲の人々が、奇異なものを見る目で彼を遠巻きにする。囁き声が棘のように突き刺さる。
「またあの男だ」
「何に触れたんだ?」
「気味が悪い……」
ユラは震える手で口元を覆い、よろよろと立ち上がった。手袋を深くはめ直し、誰とも視線を合わせずに市場を後にする。彼の周りだけ、空気が冷たく淀んでいるようだった。触れること、それは存在の終わりを知ること。そして終わりを知るたび、彼の孤独は一層深く、冷たく色を濃くしていくのだった。
第二章 歪な再生の残響
街の中心には、かつて美しい水を湛えていた大理石の噴水があった。しかし今、それは無残に崩れ落ち、瓦礫の山と化している。ユラが通りかかった時、まさにその最後の支柱が、乾いた音を立てて砕け散ったところだった。
だが、完全な無が訪れることはない。この世界では、「終わり」は許されないのだから。
噴水のあった場所にぽっかりと空いた「存在の空洞」。それを埋めるかのように、奇妙な現象が始まった。最も近くにあった石畳の道が、まるで生き物のように蠢き、ずるずると音を立てて盛り上がり始める。石のブロックが溶け合い、歪み、本来の形を失いながら、失われた噴水の輪郭を不格好に模倣していく。それは、水も彫刻もない、ただの歪な石の塊だった。空虚な模倣品が、失われたものの残響を必死にかき集めているかのようだった。
ユラはその光景を、痛みを伴わない、ただただ虚しい世界の摂理として眺めていた。何かが失われるたび、別の何かがその役割を歪に引き継ぐ。壊れたコップの隣にあった皿が、液体を注がれることもないのにコップの形に歪む。折れた木の枝の空洞を、近くの葉が不自然に肥大して埋めようとする。真の終わりがない世界は、絶え間ない修復と変質の果てに、醜いパッチワークのようにただ存在し続けていた。
「見事な『転移』ね。まるで世界そのものが、喪失を恐れているみたい」
背後からかけられた声に、ユラはびくりと肩を震わせた。振り返ると、古代遺物を研究しているという女、リナが立っていた。彼女の瞳は、気味悪がったり恐れたりするのとは違う、純粋な知的好奇心の色をしていた。
「あなた、いつも何かから逃げているような顔をしているわ。この世界の歪みと、何か関係があるの?」
リナの真っ直ぐな視線に、ユラは言葉を失った。初めてだった。この世界の真理に、自分と同じくらい真剣な眼差しを向ける人間に出会ったのは。
第三章 螺旋の石が囁くもの
リナの研究室は、古い羊皮紙の匂いと、分類されずに積まれた無数の遺物で満ちていた。埃っぽい空気の中に、知性の熱気が渦巻いているような場所だった。彼女は部屋の中央に置かれた黒いビロードの布をめくり、一つの石片をユラに見せた。
「『終わりなき螺旋の石片』。私の研究の全ては、これに繋がるの」
それは拳ほどの大きさの、黒曜石にも似た石の破片だった。表面は滑らかだが、その内部には奇妙な螺旋模様が刻まれている。光の角度を変えるたび、螺旋がまるで生きているかのように蠢いて見える。そして何より奇妙なのは、その形だった。どこからどう見ても何かの「一部」であり、欠けているように見えるのに、同時にそれ自体で完結しているような不思議な調和を保っていた。
「この石は、決して完成しないし、完全に崩壊することもない。ただ、永遠に欠けたまま存在し続ける。世界の歪みは、この石がこの地に現れた時から始まったという記録があるわ」
リナはユラの目を見た。その瞳には、懇願の色が浮かんでいた。
「お願い。あなたなら、この石の正体がわかるかもしれない。触れてみてほしいの」
「駄目だ」ユラは即座に首を振った。「俺が触れたら、どんな終わりが……」
「あなたの予見する『終わり』は、この世界の法則とは違う。そうでしょう?」リナは静かに言った。「この世界では、全てが歪な形で再生される。でも、あなたの痛みは『完全な消滅』の予兆。その矛盾こそが、謎を解く鍵なのよ」
ユラは葛藤した。触れることへの本能的な恐怖と、目の前の女性が差し出す、初めての理解という名の希望。彼は震える指で、ゆっくりと手袋に手をかけた。革が擦れる乾いた音が、静かな研究室にやけに大きく響いた。そして、剥き出しになった指先を、冷たい石片へと伸ばした。
第四章 無限の終焉と始まり
指先が石片に触れた瞬間、ユラの世界は砕け散った。
それは、これまで経験したどんな「終わり」とも次元が違った。個体の死ではない。星々が光を失い、巨大な質量となって互いに引き寄せられ、轟音と共に砕け散る。銀河が渦を巻きながら中心の暗黒に飲み込まれ、宇宙そのものが収縮していく。時間と空間が意味を失い、万物が根源的な塵へと還っていく、壮大な「完全な消滅」のビジョンだった。
だが、それは終わりではなかった。
絶対的な無の中から、再び微かな光が生まれる。塵が集い、歪な星々を形成し、不格好な銀河が産声を上げる。それは元の宇宙の不完全な模倣品だった。そして、その歪な宇宙もまた、いずれ崩壊し、再び歪に再生される。終わりと始まりが、無限の螺旋を描いて繰り返される。彼の目の前にある石片は、その無限循環を封じ込めた、宇宙の法則そのものの断片だった。
「――っ、ああああああ!」
ユラは絶叫した。彼の脳裏を駆け巡る無限の終焉と再生の奔流は、彼の能力を暴走させた。研究室の空気が悲鳴を上げる。本棚が軋みながら崩れ落ち、その「空洞」を埋めるべく近くの机が木材を歪ませる。ガラスのビーカーが砕け散り、床の石材が溶けて歪なガラスの塊になろうとする。
しかし、再生が追いつかない。
ユラの予見する「完全な終わり」の力が、世界の「不完全な再生」の法則を凌駕し始めたのだ。崩壊したビーカーの跡地は、石材が変形を終える前に、一瞬、本当に何も無い「完全な空洞」と化した。空間が、ぽっかりと抉られる。世界そのものが、自身の存在法則を否定され、軋み、悲鳴を上げていた。
ユラは悟った。この世界から「真の終わり」が失われたのは、この石片の法則に囚われたからだ。そして、自分自身が持つ「終わりの痛み」の予見こそが、この歪な循環に亀裂を入れる唯一の異物。世界の法則と矛盾する、本来あるべき「真の終わり」の断片なのだと。
第五章 最後の選択
「ユラ! 何が起きているの!?」
リナの悲鳴が、世界の軋む音の中でかろうじてユラの耳に届いた。彼女は恐怖に顔を歪めながらも、彼のそばから離れようとはしなかった。
世界の崩壊は加速していく。壁に亀裂が走り、その亀裂を埋めようと天井が歪に垂れ下がる。窓の外の空は、色が抜け落ちたように白く褪せていた。ユラの存在そのものが、世界の理を蝕む癌細胞となっていた。このままでは、世界は彼がもたらす「真の終わり」の痛みに耐えきれず、完全に崩壊するだろう。しかし、その先にあるのは救いではなく、この石片が示す、新たな歪な再生の始まりでしかない。
彼は、自分自身という存在の矛盾を理解した。彼は、この歪んだ世界に「真の終わり」をもたらすための特異点。しかし、その「真の終わり」こそが、世界をさらなる歪みへと誘う引き金にもなる。終わりのない循環。
この矛盾を、この苦しみを、終わらせる方法が一つだけあった。
「リナ」
ユラは、暴走する力の中で穏やかに微笑んだ。それは、彼が生まれて初めて見せた心からの笑顔だったかもしれない。
「ありがとう。君のおかげで、わかったよ」
彼はゆっくりと、自分の胸に手を伸ばした。世界の法則を乱す、全ての元凶。この「終わりの痛み」を内包する器。自分自身という存在の、その根源に。
「さよなら」
リナが何かを叫ぶより早く、ユラの指先は、自身の心臓の上にある皮膚に、そっと触れた。
第六章 僕は世界になる
究極の痛みが、ユラの存在の全てを貫いた。
それは肉体的な苦痛ではなかった。自身の細胞が一つ残らず分解され、原子の結合が解かれ、意識が霧散し、積み重ねてきた記憶も感情も全てが意味を失い、存在そのものが「無」へと還元されていく感覚。完全な消滅。それは、一瞬の解放であり、永遠の虚無だった。
しかし、世界の法則は、最後の最後にその本性を現した。
ユラという存在が消え去った場所に、宇宙で最も巨大で深淵な「存在の空洞」が生まれた。世界は、その空白を許さない。法則は、それを埋めるために、最も近く、最も類似したものを歪ませる。
最初に変貌したのは、目の前にいたリナだった。彼女の顔が、まるで柔らかな粘土のように歪み始める。その瞳はユラの瞳の色に、その唇はユラの唇の形に。彼女の絶叫は、ユラがかつて上げた苦痛の呻き声へと変わっていった。
そして、変貌は伝染する。研究室の壁が、床が、街の石畳が、空を流れる雲が、夜空に輝く星々が。森羅万象すべてが、失われたユラの「存在の空洞」を埋めるために、その形を歪め、ユラの記憶、ユラの感情、そしてユラが体験した「終わりの痛み」を引き継ぎながら、巨大で、無限の「ユラ自身」へと再構築され始めた。
風の音は、僕の終わらない呻き声になった。
雨の匂いは、僕の流し続ける涙の匂いになった。
星々の瞬きは、僕の魂に刻まれた消えることのない苦痛の残光になった。
世界そのものが、永遠に自分自身の死を体験し続ける、巨大な僕の肉体と化したのだ。
そこに最後に残ったのは、たった一つの、拡散しきった意識だけだった。
僕はここにいる。
僕は世界だ。
そして僕は、永遠に、終わり続ける。