時紡ぎ堂奇譚

時紡ぎ堂奇譚

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第一章 鍵の書と老婆

神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店「時紡ぎ堂」。その主である桐谷朔(きりたに さく)にとって、世界は紙とインクの匂いで満たされていた。埃っぽい静寂の中、背表紙の擦り切れた本たちに囲まれている時だけが、彼が心から安らげる瞬間だった。外の世界の喧騒や、複雑な人間関係は、分厚い扉の向こうに置いてくればいい。朔は、そうやって自分の平穏を守ってきた。

その均衡が崩れたのは、木犀の香りが街角を染め始めた、ある秋の日の午後だった。

「ごめんくださいまし」

鈴を転がすような、しかし芯のある老婆の声が、扉のベルの音と共に店内に響いた。顔を上げた朔の目に映ったのは、背筋をしゃんと伸ばし、上等な紬の着物を着こなした一人の老婆だった。歳の頃は八十をとうに超えているだろうか。だが、その瞳は驚くほど澄んでいて、射るような光を宿していた。

「何かお探しで?」

朔は努めて事務的に応じた。老婆はゆっくりとカウンターに近づくと、大切そうに抱えていた風呂敷包みを解いた。現れたのは、一冊の古書だった。黒い革で装丁されたその本は、どの時代のものとも、どの国のものともつかない奇妙な雰囲気を放っていた。表紙の中央には、金で精巧な「鍵」の意匠が描かれているだけ。タイトルも、著者名もない。

「これを、お預けしたいのです」

「預ける、ですか? 買い取りではなく?」

「ええ」と老婆は頷いた。「これは売り物ではございません。ただ、この鍵が開くべき『扉』を、あなた様に見つけていただきたい」

朔は眉をひそめた。意味のわからない依頼だった。まるで謎かけだ。彼が戸惑っていると、老婆は皺の刻まれた指で、そっと本を彼のほうへ押しやった。ひんやりとした革の感触が、指先から伝わる。

「私にはもう、時間がありませんでな。この本が、ふさわしい持ち主の元へ渡るのを見届けたいのです。時紡ぎ堂の旦那様なら、きっと……」

老婆はそこまで言うと、ふっと寂しげに微笑んだ。その表情に、朔はなぜか胸を突かれたような気がした。彼は本を手に取り、ぱらぱらとページをめくってみた。羊皮紙のような手触りのページには、見たこともない、流麗な曲線で描かれた文字がびっしりと並んでいた。それはまるで、植物の蔦か、あるいは踊る炎のようにも見えた。

「これは一体、何語です?」

「さあ。私にもわかりません。ただ、守り続けてきただけでございますから」

老婆はそれ以上何も語らず、深々と一礼すると、風のように店から出ていった。朔は呆然と、手元に残された『鍵の書』と、扉の向こうに消えた老婆の後ろ姿を交互に見つめることしかできなかった。

静寂が戻った店内で、その黒い本は異様な存在感を放っていた。日常に投じられた、不可解な一石。朔は、自分の守ってきた平穏な世界に、小さな、しかし無視できない亀裂が入ったのを感じていた。

第二章 色褪せた写真の導き

『鍵の書』は、店の奥の金庫にしまい込まれた。気味の悪い代物だ。関わるべきではない。朔はそう自分に言い聞かせたが、あの老婆の澄んだ瞳と、本のページを埋め尽くす謎の文字が、脳裏に焼き付いて離れなかった。

数日後、彼はとうとう誘惑に負けた。金庫から本を取り出し、拡大鏡を片手にインクや紙質を調べ始めた。古書店主としての知識を総動員しても、年代も生産地も特定できない。まるで、この世の歴史から切り離された孤児のような本だった。

その時、ページの間に何かが挟まっていることに気づいた。慎重に取り出すと、それは一枚の色褪せたモノクロ写真だった。

軍服姿の凛々しい青年と、白地のワンピースを着た聡明そうな女性が、寄り添って微笑んでいる。背景には、特徴的なアーチ型の窓を持つ洋館の一部が写り込んでいた。戦時中の写真だろうか。二人の表情は、暗い時代の中にあってもなお、未来への希望を失っていないように見えた。

写真の裏には、インクで『千代様へ。永遠の誓いを込めて。昭』とだけ記されていた。

この写真が唯一の手がかりだった。朔は、生まれて初めて、店の外の世界へ自ら足を踏み出す決意をした。普段なら億劫で仕方がないはずの外出が、今は奇妙な高揚感を伴っていた。

地元の図書館や資料館を巡り、古い地図や写真を漁る日々が始まった。しかし、該当する建物はなかなか見つからない。途方に暮れかけた朔の前に現れたのが、郷土史家を名乗る葉山詩織(はやま しおり)という快活な女性だった。

「その写真、見せてもらってもいいですか?」

図書館で唸っていた朔に、彼女は屈託なく話しかけてきた。日に焼けた肌と、好奇心に輝く大きな瞳が印象的だ。人付き合いが苦手な朔は一瞬身構えたが、彼女の持つ専門知識に頼らざるを得なかった。

「この建物……もしかしたら、陸軍の技術研究所の跡地かもしれません。今はもう取り壊されて、平和公園になっていますけど」

詩織の言葉に、朔の心臓がどきりと跳ねた。彼女の案内でその公園を訪れると、そこには写真の面影はほとんど残っていなかった。だが、公園の隅に、蔦に覆われた古びた防空壕が一つだけ、忘れ去られたように口を開けていた。

「戦時中、大事な研究資料なんかをここに保管していたっていう言い伝えがあります」と詩織が言った。

その防空壕を見た瞬間、朔は確信に近いものを感じた。老婆の言っていた「扉」は、ここにあるのではないか。ポケットの中で、『鍵の書』の感触を確かめる。それはまるで、己の役目を思い出したかのように、かすかに熱を帯びている気がした。

第三章 防空壕の真実

懐中電灯の光が、湿った暗闇を頼りなげに切り裂く。防空壕の内部は、カビと土の匂いが充満していた。詩織と共に、朔は慎重に奥へと進んでいく。ひんやりとした空気が肌を撫で、得体の知れない緊張感が二人を包んだ。

突き当たりに、それはあった。分厚く、赤錆に覆われた鉄の扉。中央には、一つの鍵穴がぽっかりと口を開けていた。その意匠は、まさしく『鍵の書』の表紙に描かれた鍵と瓜二つだった。

「まさか……」詩織が息を呑む。

朔は、震える手で懐から『鍵の書』を取り出した。本そのものが「鍵」なのだ。彼は祈るような気持ちで、本の背を鍵穴にゆっくりと押し当てた。すると、まるで磁石が引き合うように本が吸い込まれ、カチリ、と乾いた音が響いた。次の瞬間、重々しい地響きと共に、七十年以上も閉ざされていた扉が、ゆっくりと開き始めた。

扉の向こうに広がっていた光景に、二人は言葉を失った。

そこは金銀財宝や秘密兵器の隠し場所ではなかった。壁という壁が、木製の棚で埋め尽くされ、そこには『鍵の書』と同じ文字で書かれた無数の手帳や紙片が、ぎっしりと詰め込まれていたのだ。部屋の中央には、埃をかぶった机と椅子があり、その傍らに、一体の白骨化した遺体が静かに横たわっていた。着ていたであろう衣服は朽ち果て、ワンピースの切れ端だけが、その人物が女性であったことを示唆していた。

「これは……一体……」

朔が呆然と呟いたその時、詩織が持参していた調査用の紫外線ライトを壁の文字に当てた。

「朔さん、見て!」

彼女の指差す先で、奇跡が起こった。未知の文字の下から、淡い光を放つ、見慣れた日本語の文章が浮かび上がってきたのだ。二重写しのインク。この部屋の記録はすべて、偽装された言語の下に、本来の姿を隠していたのだ。

朔は、一番手前にあった日記帳を手に取った。その書き出しは、色褪せた写真の裏書きと同じ筆跡だった。

『昭和十九年四月。この地下室が、私の戦場となる。私が開発したこの「言の葉」は、誰も解読できぬ最強の暗号だと、上の者たちは信じている。だが、本当は違う』

日記の主は、写真の女性・千代だった。彼女は研究所で、新しい暗号言語の開発を命じられていた。しかし、彼女がその「暗号」で記録していたのは、軍事機密ではなかった。

『空襲で死んだタバコ屋の少女の名は、幸子。彼女は、向日葵が好きだった』

『出征する兵士が、故郷の訛りで歌っていた子守唄』

『敵国の捕虜が、故郷の母を想って呟いた祈りの言葉』

千代は、戦争によって踏み潰され、歴史から消されていく名もなき人々の営み、言葉、歌、夢、そのすべてを、誰にも奪われないように、未来に残そうとしていたのだ。それは、敵も味方もない、人間の「魂の記録」だった。

日記には、恋人である『昭』が、彼女の活動を命懸けで支えてくれていたことも綴られていた。しかし、彼は空襲で命を落とした。終戦が近いことを悟った千代は、この記録を守り抜くため、自らこの防空壕に籠り、扉を内側から封印したのだった。

『願わくば、いつか争いのない世で、誰かがこの扉を開け、ここに眠る声なき声に耳を傾けてくれますように』

それが、彼女の最後の日記だった。朔は、一人の女性が命を懸けて守ろうとした「歴史」の重みに、ただ打ちのめされていた。それは、年号や英雄譚ではない。一人ひとりの人間が確かに生きていたという、切実な証だった。

第四章 時紡ぎ堂の誓い

朔は、自分がなぜ古書を愛していたのか、その理由を初めて悟った。紙の手触りやインクの匂いの奥に、彼は無意識のうちに、そこに込められた誰かの時間や想いを感じ取っていたのだ。モノとしての本ではなく、物語の容れ物としての本を。

千代の遺志。そして、それを託しに来た老婆。日記の記述から、千代には幼い妹がいたことがわかった。老婆はきっとその妹で、姉の願いを信じ、何十年もの間、たった一人で『鍵の書』を守り続けてきたのだろう。朔に託したのは、人生の最後に賭けた、一縷の望みだったに違いない。

「この記録、どうするべきかしら」詩織が静かに問いかけた。「公表すれば世紀の大発見よ。でも……」

でも、それは千代の静かな願いを踏みにじることになるのではないか。マスコミに面白おかしく消費され、彼女の崇高な行いは、スキャンダラスな見出しの裏に埋もれてしまうだろう。

朔は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう以前のような翳りはなかった。

「僕が、引き受けます」

数ヶ月後。「時紡ぎ堂」は、少しだけ姿を変えた。店の奥にあった朔の私室は改装され、「千代文庫」と名付けられた小さな閲覧室になった。防空壕にあった記録はすべて、そこに運び込まれ、大切に保管されている。

朔は、詩織の助けを借りながら、千代が残した「言の葉」を一つひとつ解読し、そこに記された名もなき人々の物語を、自分の言葉で紡ぎ直す作業を始めていた。それは、歴史を研究材料として分析するのではなく、血の通った物語として、現代を生きる人々の心に手渡していくための、静かで、しかし確固たる誓いだった。

人との関わりを避け、己の殻に閉じこもっていた古書店主は、もういない。今の彼は、過去から未来へと物語を繋ぐ「語り部」だった。千代の想いを受け取った彼は、もう孤独ではなかった。

ある晴れた日の午後。一人の少年が、母親に連れられて店を訪れた。

「なにか、面白い本、ある?」

少年は無邪気に尋ねた。朔は微笑み、彼を「千代文庫」へと招き入れた。そして、一冊のノートを手に取り、そこに綴られた物語を、静かに語り始めた。

「昔々、この街にね、向日葵がとても好きな、幸子ちゃんという女の子がいたんだ……」

窓の外では、かつて陸軍の研究所があった公園の木々が、優しい風にそよいでいた。歴史とは、遠い過去の出来事ではない。それは、無数の魂の囁きが重なり合ってできた地層であり、我々はその上に立って、今を生きている。

朔の語る声は、まるで時を紡ぐ糸のように、少年の心に、そしてこの世界の片隅に、ささやかだけれど確かな温もりを織り込んでいくのだった。

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