奏でられなかったレクイエム

奏でられなかったレクイエム

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第一章 音のない依頼

相葉律(あいば りつ)の日常は、完璧に調律されたピアノのように、正確で、しかし情熱を欠いていた。かつて絶対音感の神童と持て囃された彼は、今では都心から少し離れた工房で、黙々と鍵盤と向き合う一人の調律師に過ぎない。あるトラウマが、彼の耳から音楽の色彩を奪って久しかった。

その日、工房の古い電話が鳴った時も、律はいつものように客先のリストを無感情に眺めていただけだった。受話器の向こうから聞こえてきたのは、鈴を転がすような、しかしどこかガラス細工めいた脆さを感じさせる女性の声だった。

「調律師の、相葉律さんでいらっしゃいますか」

「はい、そうですが」

「月島と申します。……月島玲奈、と聞けば、お分かりになりますか」

その名を聞いた瞬間、律の指先が微かに震えた。月島玲奈。五年前に彗星の如く現れ、あらゆるコンクールを席巻しながら、最も栄誉ある国際コンクールの直前に忽然と姿を消した天才ピアニスト。彼女の演奏は、神の息吹そのものだと評された。その彼女が、なぜ自分に。

「ピアノの調律をお願いしたいのです。一台、どうしても鳴らない音があるピアノがございまして」

話は奇妙だった。玲奈が言うには、場所は奥多摩の山中にある古い洋館。そして問題のピアノは、ある特定の三つの音で構成される和音だけが、全く鳴らないのだという。物理的に鍵盤が落ちないわけではない。ハンマーも弦を叩く。しかし、音だけが虚空に吸い込まれたように消えるのだ、と。

「呪われているのかもしれません」

電話の向こうで、彼女はそう言って静かに笑った。その笑い声は、ひどく寂しく響いた。

数日後、律は重いチューニングケースを手に、霧に煙る山道を登っていた。辿り着いた洋館は、蔦の絡まる石造りの壁が、まるでここが忘れられた場所だと主張しているかのようだった。出迎えた月島玲奈は、写真で見た華やかな姿とは程遠く、色のないワンピースを纏った儚げな影のようだった。

案内された音楽室には、一台の壮麗なグランドピアノが鎮座していた。最高級とされるスタインウェイ。しかし、その黒曜石のような艶を持つ蓋には、うっすらと埃が積もっていた。

「これです」

玲奈が、細く白い指で鍵盤を指し示す。

「ラ、ド、ミの和音。この三つだけが、どうしても……」

律は促されるままに椅子に座り、鍵盤に指を置いた。まずは単音で確かめる。どの音も、狂いはあるが美しく響く。次に、問題の和音を奏でた。

―――無音だった。

信じがたいことに、確かに音が出なかった。指先には鍵盤を押し下げた確かな感触がある。ハンマーが弦を打つ微かな機械音も聞こえる。だが、肝心の音色だけが、そこには存在しなかった。まるで、その和音が存在する空間だけが切り取られてしまったかのようだ。

律は内部の構造を隈なく調べた。アクション、ハンマー、弦、響板。どこにも異常はない。物理的にあり得ない現象だった。

「……どうでしょう。この呪い、解けそうですか」

窓の外の霧を見つめながら、玲奈が問いかける。その横顔は、まるでこの世のものではないかのようだった。律は、自分が音楽そのものではなく、得体の知れない巨大な謎の縁に立たされていることを悟った。

第二章 沈黙の旋律

洋館での奇妙な共同生活が始まった。律は来る日も来る日もピアノに向き合ったが、謎は深まるばかりだった。彼は玲奈に、このピアノの来歴や、彼女自身の過去について、少しずつ尋ねることにした。

玲奈は、初めこそ心を閉ざしていたが、律の真摯な仕事ぶりに、次第に断片的に語り始めた。

このピアノは、彼女の母の形見なのだという。母もまた優れたピアニストであり、玲奈にとっての唯一の師であったこと。そして、彼女が失踪するきっかけとなった国際コンクールの二週間前、その最愛の母が交通事故で帰らぬ人となったこと。

「母は、私のすべてでした。私の指は母の指。私の音は母の音。……母がいなくなって、私はどうやってピアノを弾けばいいのか、分からなくなったんです」

玲奈の声は、凪いだ湖面のように静かだったが、その底には計り知れない悲しみが澱のように溜まっていた。

律は彼女の話を聞きながら、自身の心の古傷が疼くのを感じていた。数年前、彼が精魂込めて調律したピアノで、ある若手ピアニストがコンクールに臨んだ。しかし、プレッシャーに負けた彼はステージで惨敗し、終演後、律にこう言い放ったのだ。

「君の調律が硬すぎたせいだ。僕の音楽を殺したのは君だ」

その言葉が、律の心に棘のように突き刺さった。それ以来、彼は音に感情を乗せることを恐れるようになった。彼の仕事は、ただ音程を正確に合わせるだけの、無機質な作業へと成り果てた。玲奈の喪失感と、自分のそれとが、律の中で静かに共鳴していた。

ある夜、書斎で母の遺品を整理していた玲奈が、一枚の古い楽譜を見つけてきた。

「これ……母が私のために作ってくれた、子守唄の楽譜です」

それは手書きの、温かみのある楽譜だった。しかし、インクが滲んで一部が読めなくなっている。律がその楽譜をピアノで弾いてみると、それは優しく、どこか懐かしい旋律を奏でた。だが、曲のクライマックス、最も胸を打つであろう部分で、旋律はぷつりと途切れた。滲んで読めない箇所が、そこにあった。

「この続きが、思い出せないんです。母がいつも弾いてくれたのに……」

玲奈は悔しそうに唇を噛んだ。その姿を見て、律の胸にひとつの仮説が稲妻のように閃いた。まさか、とは思う。しかし、もしそうだとしたら……。

彼はもう一度、あの「鳴らない和音」――ラ、ド、ミ――を、楽譜の途切れた部分に当てはめてみた。旋律が、あまりにも自然に、そして完璧に繋がった。それはまるで、乾いた大地に染み込む慈雨のように、聴く者の心を潤す美しい響きだった。

鳴らない和音は、この子守唄の心臓部だったのだ。

第三章 偽りの不協和音

答えは、ピアノの中にはなかった。それは、月島玲奈自身の心の中にあった。

律は確信していた。これは物理現象ではない。心理的な現象だ。母の死という、彼女の許容量を遥かに超える悲劇が、彼女の脳に特殊な防衛機制を作動させたのだ。

「心因性選択的失聴」

専門書で目にしたその症例が、律の頭をよぎる。強烈な精神的ショックが原因で、特定の音や言葉だけが聞こえなくなるという、稀な症状。ピアノは正常に鳴っている。だが、玲奈の耳にだけは、その音が「届いていない」。母の愛の象徴であった子守唄の、最も重要な和音。それを聞くことは、彼女にとって、耐えがたいほどの苦痛を伴う母の記憶そのものを呼び覚ますことだった。だから、彼女の心は無意識にその音を遮断したのだ。「呪い」の正体は、彼女自身の、あまりにも深い悲しみの壁だった。

真実をどう伝えるべきか。律は苦悩した。下手に告げれば、彼女の繊細な心の均衡を完全に壊してしまうかもしれない。事実を突きつけるだけでは、何も解決しない。

その時、彼は気づいた。自分もまた、玲奈と同じだったのだ、と。

失敗への恐怖から、観客の拍手や演奏者の感情といった、音楽に付随するあらゆる「音」から耳を塞いできた。ただ正確なだけの、魂のない調律。それは、聞こえないふりをすることと何が違うだろう。玲奈の呪いを解くことは、自分自身の呪いを解くことでもあった。

律は決意した。言葉で伝えるのではない。音で、想いで、伝えるのだ。

彼はチューニングケースを開けた。そこから取り出したのは、いつも使うチューニングハンマーだけではない。湿度計、各種工具、そして、彼が長らく触れることを避けていた、自分自身の心の鍵だった。

彼は数時間かけて、完璧な調律を施した。それは、単に音程を合わせる作業ではなかった。このピアノが持つ本来の歌声を、その魂を、呼び覚ますための儀式だった。一音一音に、祈りを込めるように。玲那の悲しみに寄り添い、彼女の母の愛情を想像し、そして、自分自身の再生への願いを込めて。

調律を終えたピアノは、まるで深呼吸をしたかのように、静かにその時を待っていた。

第四章 時を超えたアンコール

夜の帳が下りた音楽室で、律は月島玲奈をピアノの前に招いた。

「玲奈さん。今から、僕がこのピアノを弾きます。ただ、聴いていてください」

彼の真剣な眼差しに、玲奈は戸惑いながらも静かに頷いた。

律は鍵盤に指を置いた。目を閉じ、深く息を吸う。そして奏で始めたのは、あの母の子守唄だった。

優しく、慈しむような旋律が、静寂に満ちた部屋に響き渡る。律の演奏は、技術的に完璧ではなかったかもしれない。しかし、そこには彼が失っていたはずの感情が、想いが、溢れるほどに込められていた。

やがて、曲はあの問題の箇所に差し掛かる。ラ、ド、ミの和音。

律は一瞬ためらった。だが、彼は自らを奮い立たせ、心を込めてその三つの鍵盤を押し下げた。

玲奈の耳には、やはりそこだけが空白に聞こえた。旋律は無情に途切れ、沈黙が訪れる。彼女の瞳に、絶望の色が浮かんだ。

しかし、律は演奏を止めなかった。彼はもう一度、そしてもう一度、その和音を弾き続けた。それは懇願のようであり、祈りのようでもあった。

―――お願いだ、届いてくれ。君は一人じゃない。悲しみも、音楽も、分かち合うことができるんだ。

彼の想いが、音の粒子となって空間を満たしていく。すると、信じられないことが起きた。

玲奈の耳に、微かに、本当に微かに、何かが聞こえた。最初は幻聴かと思った。だが、律が和音を繰り返すたびに、その音は少しずつ輪郭を帯びていく。それは、硬い氷がゆっくりと溶けていくような、奇跡の瞬間だった。

そしてついに、遮断されていた心の壁が崩れ落ち、温かく、懐かしい和音が、何の妨げもなく彼女の鼓膜を震わせた。

ラ、ド、ミ。母の温もり。母の笑顔。母の愛。

忘れかけていた記憶の洪水が、その和音と共に蘇る。

「……あ……」

玲奈の唇から、声にならない声が漏れた。彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ落ち、鍵盤の上にいくつもの染みを作った。

「……聞こえる。お母さんの、音……」

それは、何年もの間、彼女の心の中で凍りついていた悲しみが、ようやく溶け出した瞬間だった。律は演奏を終え、泣きじゃくる彼女の隣で、ただ静かに佇んでいた。呪いは、解けたのだ。

数ヶ月後。律の工房には、以前のような活気が戻っていた。彼の施す調律は、再び豊かな色彩と感情を取り戻していた。そんな彼の元に、一枚の封筒が届く。中には、コンサートのチケットが入っていた。

『月島玲奈 ピアノ・リサイタル』

その文字が、誇らしげに輝いている。プログラムの最後の曲目には、こう記されていた。

『母に捧ぐ子守唄』

律はチケットを胸に当て、窓の外の青空を見上げた。彼の調律したピアノが、今宵、一人のピアニストの再生を、そして時を超えた母子の愛を、満員のホールに響かせるだろう。その音はきっと、誰かの心の呪いを解く、新たな希望の旋律になるはずだ。彼はチューニングケースを手に取り、静かに微笑んだ。

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