余白に触れる者
第一章 澱に触れる指
古書店『揺り籠』の奥、埃とインクの匂いが染みついたカウンターで、俺、響(ひびき)は息を潜めていた。客が置いていった一冊の恋愛小説。その表紙に、歪んだ陽炎のようなものがまとわりついている。他人の『嘘によって生まれた余白』だ。俺にはそれが見え、そして触れてしまう。
指先が、その陽炎に触れる。
途端に、冷たい水が脳髄に流れ込んできた。甘ったるい香水の匂い。知らない男の低い囁き声。『――愛しているよ、君だけを』。そして、その言葉とは裏腹の、別の女性の肌の感触。嘘で塗り固められた関係の、ねっとりとした澱(おり)。俺は顔をしかめて指を引いた。吐き気がする。これが俺の日常だった。人々が保身や見栄のために吐いた嘘は、記憶に空白を生み、その『余白』が俺の世界には物体として存在している。それに触れるたび、嘘の裏側にある不快な真実が感覚として流れ込んでくるのだ。
だから、俺は人を避けて生きてきた。この古書店は、そんな俺にとって完璧な隠れ家だった。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。入ってきたのは、春の陽光をそのまま編み込んだような髪を持つ女性だった。彼女の周りだけ、空気がきらきらと輝いているように見える。感情が豊かな人間ほど、記憶が曖ăpadăになる。この世界の法則だ。彼女のその輝きは、尋常ではなかった。
「あの、探し物をお願いしたいんです」
彼女はリナと名乗った。その声は、まるで風鈴のように澄んでいた。彼女がカウンターにそっと置いたのは、古びた木製のオルゴールだった。そして俺は、息を呑んだ。
オルゴールには、これまで見たこともないほど巨大で、そして複雑な『余白』がまとわりついていた。それは冷たい硝子細工のようでありながら、どこか温かい光を内包しているようにも見える、奇妙な物体だった。
「これ、亡くなった恋人から貰ったものなんです。でも、彼がどんな人で、どんな声で、どんな風に笑う人だったのか……思い出せないんです」
リナは悲しそうに眉を寄せたが、その瞳は不思議なほど穏やかだった。強い感情の輝きが、彼女から大切な記憶を奪い去ったのだろう。
「このオルゴールに残された、彼の記憶を見つけてほしいんです」
俺はためらった。こんな巨大な余白に触れれば、どんな澱を追体験させられるか分からない。だが、その余-白が放つ、矛盾した気配――冷たさと温かさが、俺の心を捉えて離さなかった。俺は無言で頷き、震える指を、その硝子細工のような余白へと伸ばした。
触れた瞬間、世界が反転した。
一面のひまわり畑。焦げるような夏の日差し。誰かの優しい歌声。そして、温かい大きな手に包まれる、幸福な感覚。
それは、澱ではなかった。あまりにも純粋で、美しい記憶の断片だった。
第二章 笑顔の裏の空白
リナの過去を辿る調査は、奇妙なものだった。彼女の友人や知人は、誰もが口を揃えて彼女の明るさを褒め称えた。
「リナはいつも笑っている太陽みたいな子よ」
「彼女が悲しんでいるところなんて、見たことがないわ」
彼らの言葉は真実なのだろう。だが、その言葉の端々には、必ず小さな『嘘の余-白』が生まれていた。それらはまるで、リナの笑顔という完璧な絵画に、無数の小さな傷を隠すための上塗りのようだった。
俺がその小さな余白に触れるたびに、断片的な感覚が流れ込んできた。救急車のサイレンの音。誰かの悲痛な叫び声。雨に濡れたアスファルトの冷たさ。リナの笑顔とは正反対の、暗く、冷たい記憶の残滓。
「響さん、何か分かりましたか?」
リナは、調査に付き添いながら、屈託なく尋ねる。彼女は本当に何も覚えていないのだ。彼女の周りの人間が、彼女を守るために、巨大な悲劇を覆い隠している。その無意識の共犯関係が、彼女の記憶を空白にし、代わりに感情の輝きを与え続けている。
俺たちは調査の末、一つの伝説にたどり着いた。『記憶の番人』。この世界で唯一、鮮明な記憶と豊かな感情を両立させているという存在。そして、その番人が住まうという、決して砂の落ちる止まることのない砂時計が置かれた古い時計塔の噂。
「番人なら、何か知っているかもしれない」
俺の言葉に、リナはこくりと頷いた。彼女の瞳の奥に、初めて強い意志の光が揺らめいたように見えた。
霧深い丘の上に、その時計塔はひっそりと建っていた。錆びついた鉄の扉を開けると、無数の歯車が噛み合う、低い駆動音が響いていた。塔の中心には、巨大な砂時計が鎮座していた。金色の砂が、さらさらと音もなく落ちていく。世界の誰かの記憶が失われ、どこかで感情が生まれる瞬間。だが、よく見ると、砂時計の下皿の一点から、まるで泉が湧くように、新しい砂が絶えず生成され続けていた。
「よく来たな、余白に触れる者よ」
声は、砂時計の影からした。そこに立っていたのは、少年とも老人ともつかぬ、不思議な雰囲気を持つ男だった。彼が『記憶の番人』だろう。
「その女の『嘘の余白』の正体を知りに来たのだろう」
番人は、リナの持つオルゴールを一瞥して言った。その視線は、全てを見透かすように深く、そしてどこか哀しげだった。
第三章 止まらない砂時計の番人
「彼女の恋人は、彼女を庇って事故で死んだ」
番人の言葉は、静かだが重く、時計塔の空気を震わせた。リナの顔から、さっと血の気が引いていく。
「あまりの絶望に、彼女の心は壊れかけた。だから世界は、彼女自身は、選択したのだ。その絶望的な記憶と引き換えに、『周囲から愛される幸福な感情』を得ることを」
番人は続けた。
「彼女の周りの人間も、彼女の悲しむ姿を見たくなかった。その無意識の願いが、彼女の嘘を補強し、記憶を上書きし続けた。あの子の周りにある無数の小さな嘘は、すべて彼女への優しさから生まれたものだ」
オルゴールにまとわりつく、巨大な『嘘の余白』。それは、リナの失われた絶望と、周囲の人々の優しさが編み上げた、巨大な結晶だったのだ。
「真実を知りたいか?」
番人はリナに問いかけた。
「その余白の奥深くに触れれば、君は全てを思い出すだろう。愛した男の顔も、声も、交わした言葉も。だが、代償は大きい。今の君を支えている、その暖かな感情の輝きは、おそらく消え失せる」
幸福な無知か、苦痛に満ちた真実か。
リナは震えていた。唇は青ざめ、その瞳は恐怖に揺れていた。しかし、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。その瞳は、助けを求めているようで、同時に覚悟を決めているようにも見えた。
俺は、彼女の前に進み出た。
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、根拠はなかった。だが、そう言うしかなかった。俺は彼女の冷たい手を握り、もう片方の手で、オルゴールの余白に触れた。リナも、俺の手に導かれるように、その硝子細工に指を重ねた。
「行こう。一人じゃない」
俺たちは共に、真実の深淵へと意識を沈めていった。
第四章 慈悲深き嘘の結晶
閃光。ブレーキ音。降りしきる雨。
視界が、感覚の濁流に呑まれる。腕の中に感じる温もりと、急速に失われていくその熱。耳元で囁かれる、掠れた声。
『――幸せに、なって』
それは、リナが忘れてしまった恋人の、最期の言葉だった。そして、世界が暗転するほどの絶望と、心を削るような喪失感が、奔流となって俺とリナに襲いかかった。
「……あ……ああ……!」
リナの口から、嗚咽が漏れた。彼女の頬を、大粒の涙が次々と伝っていく。しかし、絶望の記憶のさらに奥深くから、別の光景が溢れ出してきた。ひまわり畑で笑い合う二人。小さなカフェで交わした、くだらない会話。初めて手を繋いだ時の、ぎこちない温もり。悲劇によって覆い隠されていた、かけがえのない、愛しい日々の記憶だった。
リナは泣き崩れた。恋人の名前を何度も叫びながら。
彼女の周りを包んでいた、きらきらとした感情の輝きは薄れていた。だが、その代わりに、彼女の瞳には悲しみを乗り越えようとする、力強い意志の光と、愛した人との確かな記憶の輝きが宿っていた。それは、以前の彼女にはなかった、本当の強さだった。
「これが、この世界の真実だ」
番人が静かに語り始めた。
「この『記憶と感情のトレードオフ』は、神が与えた罰などではない。人々が、耐え難い苦痛から逃れるために、自ら望んで創り出した、慈悲深い嘘のシステムなのだよ」
彼は、止まらない砂時計に触れた。
「『嘘の余白』は、痛みから心を守るためのシェルターであり、最も大切にしたい記憶を、誰にも汚されぬよう封じ込めた宝箱でもある。私は、人々が生み出すその優しい嘘が、世界を壊してしまわぬよう、この砂時計のバランスを見守るだけの存在だ」
俺は、理解した。俺が触れてきた、あの吐き気のするような澱でさえ、誰かの弱さであり、誰かを傷つけまいとする歪んだ優しさの現れだったのかもしれない。俺が呪いだと思っていたこの力は、誰かの『守りたかった想い』の欠片に触れるためのものだったのだ。
俺は泣き続けるリナの肩を、そっと抱いた。彼女は悲しみの中にいる。だが、もう孤独ではない。愛した記憶が、これからの彼女を支えるだろう。
時計塔を出ると、街には夕暮れの光が満ちていた。俺の目には、相変わらず無数の『嘘の余白』が映っている。陽炎のように揺れるもの、硝子のように硬質なもの、影のように粘つくもの。
だが、それらはもう、ただの不快な澱ではなかった。
一つ一つが、誰かの痛みと、優しさと、守りたかった記憶の物語を内包した、慈悲深き嘘の結晶に見えた。俺は、この世界で生きていく覚悟を、静かに決めた。隣で涙の跡が残る顔を上げたリナが、小さく、だが確かに微笑んだ気がした。