第一章 硝子のなかの見知らぬ笑顔
水無月湊(みなづき みなと)の世界は、常に静かで、整然としていた。彼の仕事場である「記憶鑑定室」は、防音壁に囲まれ、空気中の塵一つないよう管理されている。机上には、高精度スキャナーと解析モニターだけが冷たい光を放っていた。彼は、死者が遺すという最も強い記憶の痕跡――『記憶結晶』を鑑定する専門家、記憶鑑定士だ。
人々は結晶に、故人の最後の言葉や愛情の証明を求める。しかし湊にとって、それは単なる情報データに過ぎなかった。感傷を排し、結晶から光学的、熱力学的なパターンを読み解き、そこに記録された映像と感情のインデックスを作成する。それが彼の仕事であり、日常だった。父を亡くして以来、彼は感情の波に身を任せることを極端に避けるようになっていた。
その日、彼の整然とした世界に、一本の亀裂が入った。配達された木箱には依頼主の名がなく、ただ「鑑定依頼」とだけ記されている。 protocolos に従い、湊は箱を開けた。中には、ベルベットの布に包まれた、歪な乳白色の結晶が一つ。一般的な結晶が透明に近い水晶のような輝きを放つのに対し、それはまるで磨かれていない原石のようだった。
「ノイズが多い個体か」
湊は独りごち、手袋をはめた指で慎重に結晶をスキャナーにセットした。モニターにエネルギー波形が表示される。不安定で、古い。少なくとも三十年は前のものだろう。解析を開始すると、モニターにノイズ混じりの映像が浮かび上がった。
陽光が降り注ぐ、見覚えのない公園。画面が揺れ、幼い子供の笑い声が聞こえる。その声に、湊の心臓が奇妙な音を立てた。映像は、ブランコを漕ぐ三歳くらいの男の子を映し出す。その顔は、紛れもなく幼い頃の自分だった。そして、その背中を押しているのは、優しい笑顔を浮かべた若い女性。彼女は湊の知らない顔だったが、その眼差しは慈愛に満ちていた。
『もっと高く!』
幼い自分の声が、スピーカーから響く。
『はいはい、しっかり掴まっててね、湊』
女性の声が鼓膜を震わせた瞬間、湊は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚。湊の母親は、彼を産んですぐに亡くなった。父から何度もそう聞かされて育った。位牌と、一枚の色褪せた写真しか知らない、顔も声も知らないはずの母。それなのに、結晶のなかの女性は、まるでそこにいるかのようにリアルな温もりをもって、彼に微笑みかけていた。
スキャナーが鑑定終了の電子音を鳴らす。モニターには『主要感情:幸福、愛情、充足感』という無機質なテキストが表示されている。しかし、湊にはもう、それが単なるデータには見えなかった。これは誰の記憶だ? なぜ、自分と、知らないはずの母親がここにいる?
整然としていたはずの世界が、音を立てて歪み始める。湊はモニターに映る見知らぬ笑顔から、目を逸らすことができなかった。それは、彼の人生という完璧に組まれたパズルに、存在するはずのないピースが無理やりはめ込まれたような、冒涜的で、しかしどうしようもなく心を惹きつける光景だった。
第二章 父の沈黙と嘘の欠片
混乱は、やがて冷たい疑念へと変わった。湊はあらゆる手段を使って依頼主を追ったが、足取りは巧妙に消されていた。残されたのは、あの乳白色の結晶だけだ。彼はそれを私物のケースに収め、誰にも触れさせないよう研究室の奥深くに隠した。あの記憶は、彼の領域を侵犯する禁断の果実のように思えた。
湊の脳裏に、今は亡き父、壮一郎の姿が蘇る。壮一郎は腕のいい家具職人で、いつも口数の少ない男だった。母親について尋ねても、「お前を産んで、すぐに逝ってしまった。優しい人だった」と繰り返すばかりで、その表情は硬く、どこか遠くを見ていた。その沈黙は、幼い湊には不可侵の壁のように感じられた。
三年前、父は静かに息を引き取った。彼が遺した記憶結晶は、驚くほど凡庸なものだった。仕事場の窓から見える、夕暮れの街並み。特別な出来事も、感動的な言葉もない、ただ平凡な風景。湊はそれにひどく失望したことを覚えている。父の人生の最後のハイライトが、こんなにも空虚なものだったのかと。その結晶は、父の遺品と共に、実家の物置にしまい込まれたままだった。
謎の結晶の出現は、湊を過去へと引き戻した。彼は数年ぶりに実家の扉を開けた。埃っぽい空気と、微かに残る木の香りが鼻をつく。父の仕事場だった部屋の隅、段ボール箱の中に、問題の結晶はあった。湊はそれを持ち帰り、自身の研究室で改めて鑑定にかけてみることにした。
そして、父の遺品をもう一度、徹底的に洗い直した。クローゼットの奥、古いトランクの底から、湊は一冊の小さな手帳を見つけた。それは、父のものではない、繊細な女性の文字で書かれた日記の断片だった。
『壮一郎さんの作る椅子は、魔法みたい。座ると、心が軽くなる』
『今日、お腹の子が動いた。この子が生まれてくる世界が、優しい場所でありますように』
日記の日付は、湊が生まれるより一年も前のものだった。そして、日記に挟まっていた一枚の写真に、湊は息を止めた。あの記憶結晶の公園で、若い頃の父と、見知らぬ女性が寄り添って笑っている。女性は、結晶の中で自分を「湊」と呼んだ、あの女性だった。
嘘だ。何かが根本的に間違っている。父は、何を隠していた? あの女性は誰で、なぜ自分は彼女を知らない? 父の沈黙は、悲しみからではなく、何かを隠蔽するためのものではなかったのか。
壁に飾られた、公式の「母」の写真――湊が今まで唯一の母の姿だと思っていた、あの色褪せた写真が、まるで精巧に作られた偽物のように見え始めた。父が築き上げた静かな家庭は、巨大な嘘の上に成り立っていたのかもしれない。湊の足元が、砂のように崩れていく感覚がした。
第三章 二つの真実
湊は、日記の断片と写真を手に、戸籍や過去の記録を専門とする調査機関の扉を叩いた。父の名前、写真の女性、そして自分の出生。糸が複雑に絡み合った謎を解きほぐすように、調査は進んだ。数日後、調査員から渡された一枚の報告書が、湊の信じてきたすべてを粉々にした。
報告書に記されていた事実は、残酷なほどに明瞭だった。
写真の女性、そして日記の主は、日高沙織(ひだか さおり)。父、壮一郎の最初の妻。彼女は湊が生まれる二年前に、病で亡くなっていた。彼女は、湊の母親ではなかった。
湊の本当の母親の名は、水無月遥(みなづき はるか)。彼女は沙織が亡くなった後、父と再婚し、湊を産んだ。しかし、二人は湊が一歳のときに離婚。そして――遥は、今も生きていた。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。父は、二人の女性を愛し、一人は死別し、もう一人とは離別していた。そして湊に、最初の妻を「母」だと偽り、実の母は存在しないかのように振る舞い続けてきたのだ。なぜ。父の沈黙の理由が、あまりにも重い形で突きつけられた。亡き妻への罪悪感か、あるいは、残された息子を一人で育てるための、歪んだ覚悟だったのか。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。非通知の番号。普段なら無視するはずのそれに、なぜか湊は引き寄せられるように応答した。
「……もしもし」
『……湊、くん?』
それは、微かに震える、記憶にあるよりもずっと歳を重ねた女性の声だった。あの結晶の声の主。実の母、遥だった。
『突然ごめんなさい。あの結晶、私があの人の遺品から見つけて……あなたに送ったの。どうしても、あなたに知ってほしくて。あなたが、どれだけ望まれて生まれてきたか……。でも、会って話す勇気がなくて……』
言葉が続かなかった。怒り、悲しみ、混乱。だがそれ以上に、心の奥底から湧き上がる、説明のつかない感情があった。
電話を切った後、湊はふらふらと研究室に戻った。そして、物置から持ち帰っていた父の記憶結晶を、再びスキャナーにセットした。最新の深層感情解析モードを起動する。以前は読み取れなかった、記憶の最深部に眠る感情の痕跡を探るためだ。
モニターに、見慣れた夕暮れの街並みが映し出される。しかし、今回は違った。解析が進むにつれ、その風景に、無数の感情の光点が重なっていくのが見えた。
――公園で遊ぶ幼い湊の幻影。
――初めて「お父さん」と呼ばれた日の、胸が張り裂けそうな喜び。
――熱を出した湊を、一晩中抱きしめていた夜の不安。
――嘘をつき続けることへの、耐え難いほどの苦悩と罪悪感。
――そして、そのすべてを包み込むような、言葉にならない、静かで、しかし海のように深い愛情。
父が遺した最強の記憶は、特定のイベントではなかった。湊と共に生きた日々の、名もなき風景に溶け込んだ、愛と苦悩そのものだったのだ。湊は、あの凡庸な風景に失望した自分を恥じた。父は何も語らなかったのではない。声にならない想いのすべてを、この結晶に込めていたのだ。
モニターの光が、涙で滲んでいく。湊は初めて、父の沈黙の奥にあった真実の重さを理解した。一つは、亡き妻へ捧げられた、硝子のなかの笑顔。もう一つは、息子へ遺された、声なき愛の風景。二つの真実が、彼の胸の中で、静かに一つに溶け合っていった。
第四章 夜明けへの鑑定
世界は同じはずなのに、まったく違って見えた。研究室の窓から差し込む朝日が、空気中の微細な塵をきらきらと輝かせている。それはまるで、今まで見えていなかった無数の感情が可視化されたかのようだった。
湊は二つの結晶を机の上に並べた。母が送ってきた、幸福に満ちた乳白色の結晶。父が遺した、沈黙の愛が溶け込んだ透明な結晶。これらはもはや、単なる鑑定対象ではなかった。彼の半生を形作る、二つの原石だった。
父は嘘をついた。だがそれは、湊を守るための、不器用で孤独な鎧だったのかもしれない。母は彼を捨てたわけではなかった。遠くから、彼の幸せを祈り続けていた。真実を知った今、湊の中にあった空虚な部分は、複雑だが温かい感情で満たされ始めていた。彼はもう、感情の波から逃げる必要はないと感じていた。
湊はスマートフォンを手に取り、履歴から母の番号を呼び出し、メッセージを打った。
『お会いしたいです。話がしたい』
すぐに返信があった。『ありがとう』という短い言葉と、駅前のカフェの場所が記されていた。
約束の時間、湊はコートのポケットに二つの結晶を忍ばせ、カフェに向かった。冬の空気が頬を刺すが、不思議と寒さは感じなかった。駅前の雑踏の中、ガラス張りのカフェの窓際に、緊張した面持ちで座る女性の姿が見えた。写真で見た面影よりも歳を重ねているが、その優しい眼差しは、結晶の中で見たものと少しも変わらなかった。
湊はカフェの扉の前で一度、深く息を吸った。
これから何を話せばいいのだろう。三十年分の空白を、どう埋めればいいのか。責めるべきか、感謝すべきか。わからない。でも、それでいいのかもしれない。
彼はもう、記憶を解析し、感情を分類する鑑定士ではない。ただの一人の息子として、父が遺した沈黙の愛と、母が届けたかった幸福の記憶、その両方を抱きしめて、目の前の扉を開けるのだ。
ポケットの中の二つの結晶が、彼の体温を吸って、微かに温かい。それはまるで、過去と未来を繋ぐ、小さな灯火のようだった。物語の結末はまだ誰にもわからない。だが、彼の人生の新しい章の鑑定は、今、静かに始まろうとしていた。