心葉樹の根は深く

心葉樹の根は深く

0 4690 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 枯れ木と不在の父

久しく忘れていた土の匂いが、車のドアを開けた瞬間に肺を満たした。三年ぶりに踏む実家の土地は、俺、水野涼介の記憶にあるよりも少しだけ痩せているように感じられた。電話口でヒステリックに叫ぶ母の声が耳の奥で反響する。「お父さんが倒れたの。早く帰ってきて。……お願いだから、家の『心葉樹(しんようじゅ)』が、もう……」

心葉樹。その古めかしい響きに、俺は思わず眉をひそめた。水野家に代々伝わるという、庭にそびえる一本の楠の古木。家族の絆が深ければ青々と茂り、不和があれば枯れるのだと、幼い頃から祖母に聞かされて育った。馬鹿馬鹿しい迷信だ。合理性と現実主義を信条とする俺にとって、それは唾棄すべき前近代的な思考の象徴だった。

だが、玄関へ続く石畳を歩きながら庭に目をやった時、俺は息を呑んだ。そこに立っていたのは、記憶の中にあるような、空を覆い尽くすほどの生命力に満ちた巨木ではなかった。葉はほとんど落ち、ねじくれた枝々が黒い骸骨のように空を掴んでいる。まるで、巨大な雷にでも打たれたかのような、絶望的な姿だった。足元には、乾ききって砕けた無数の葉が、弔いの絨毯のように敷き詰められている。

「涼介……」

玄関で俺を迎えた母は、数年という歳月以上に老け込んで見えた。その目には、俺がこれまで見たことのないような深い憔悴の色が浮かんでいる。

「親父は?」

「病院。……意識が、戻らないの」

母の言葉は、乾いた葉のようにかさりと響いた。父、水野剛(つよし)は、俺が家を飛び出す原因となった男だ。大学の進路を巡って取っ組み合いの喧嘩になり、「お前のような奴は家族じゃない」と怒鳴られたあの日から、俺たちの関係は修復不可能なほどに断絶していた。そんな父が、意識不明の重体。それなのに、俺の心は奇妙なほど静かだった。悲しみよりも、目の前の枯れ木と父の容態を結びつけて語る母への苛立ちが先に立つ。

「母さん、落ち着いてくれ。親父が倒れたのと、庭の木は関係ない。ただの偶然だ」

俺がそう言うと、母は力なく首を振った。

「ううん。あの木が枯れ始めたのは、一週間前からよ。そして三日前、一番太い枝が音を立てて折れた朝に、お父さんは倒れたの。これは偶然なんかじゃない……」

母の揺るぎない確信に、俺は反論する言葉を失った。非科学的だと切り捨てたいのに、目の前の枯れ木が放つ不吉なオーラが、俺の理性をじわじわと蝕んでいく。まるで、この家全体が巨大な病に侵されているかのような、重く、淀んだ空気が漂っていた。俺は、この家に囚われた家族という名の呪いの正体に、まだ気づいていなかった。

第二章 ひび割れた記憶

父が入院している病院の白い廊下は、消毒液の匂いが満ちていた。ガラス越しの集中治療室で、父は数多のチューブに繋がれ、静かに横たわっている。鍛え上げられた職人の体躯は見る影もなく萎み、その顔には生気が感じられない。俺は、その姿をただ無言で見つめることしかできなかった。

実家での数日は、息が詰まるようだった。母は心葉樹の前に座り込み、祈るようにその幹を撫でている。俺はそんな母の姿から逃げるように、かつて自分の部屋だった場所で時間をやり過ごした。部屋の隅には、父に反対されながらも貫き通したデザイン系の専門書の数々が、埃を被って積まれている。手に取ると、あの日の父の怒声が蘇ってきた。「安定した仕事に就けと言っているんだ!そんな絵描きみたいなことで食っていけるか!」

あの時、俺は父の価値観を理解しようともせず、ただ反発した。そして父もまた、俺の夢を一笑に付した。互いの正義がぶつかり合い、砕け散った。その破片が、今も俺の心の奥に突き刺さっている。

「あなた、大丈夫?」

背後からかけられた声に振り返ると、妻の美咲が心配そうな顔で立っていた。俺を案じて、仕事を調整して駆けつけてくれたのだ。その優しさが、今はかえって苦しい。俺たちの関係もまた、ここ最近、些細なことで言い争いが絶えず、ひび割れていたからだ。

「ああ、大丈夫だ」

俺は素っ気なく答える。美咲は何か言いたげに唇を開きかけたが、結局、悲しげに目を伏せるだけだった。

その夜、俺と美咲の間には、重苦しい沈黙が横たわっていた。互いを思いやれない自分への不甲斐なさ。埋められない距離への苛立ち。そんな無言の棘が飛び交う空気に耐えかねて、俺はふと窓の外に目をやった。月明かりに照らされた心葉樹のシルエットが、闇の中に浮かび上がっている。

その時だった。パキン、と乾いた音が夜の静寂を裂いた。俺と美咲が同時に息を呑む。見ると、心葉樹の細い枝の一本が、まるで力尽きたようにだらりと垂れ下がっていた。

「まさか……」

俺の口から、信じられないという呟きが漏れた。偶然だ、と言い聞かせようとしても、心臓が嫌な音を立てて脈打つのを止められない。俺と美咲の間の不和が、この木に影響を与えたとでもいうのか?迷信だと一笑に付したはずの言い伝えが、恐ろしいほどの現実味を帯びて俺に迫ってきた。

翌朝、病院から連絡があった。父の容態が、昨夜から急に悪化したという。俺は愕然とした。このままでは、父も、木も、そして俺たちの家族も、すべてが枯れ果ててしまうのではないか。そんな焦燥感に駆られ、俺は生まれて初めて、あの心葉樹と真剣に向き合おうと決意した。

第三章 痛みの在処

父を、家族を救うには、心葉樹を蘇らせるしかない。そのためには、家族の絆を取り戻す必要がある。俺はそう信じ込んだ。父との和解。妻との関係修復。それができれば、きっとすべてが元通りになるはずだ。

俺は必死に、父との楽しかった記憶を思い出そうとした。キャッチボールをした幼い日。初めて自転車に乗れた時に、無骨な手で頭を撫でてくれたこと。だが、記憶を辿れば辿るほど、最後に立ちはだかるのは、あの日の怒声と拒絶だった。「お前のような奴は家族じゃない」。その言葉が、すべての良い思い出を覆い尽くしてしまう。

どうすればいいのか分からず、俺は父の書斎に足を踏み入れた。整然と並べられた大工道具と、木の香りがするその部屋は、父の頑固で実直な生き様そのものだった。本棚の隅に、古びた鍵のかかった木箱があるのに気づく。何かに導かれるように、道具箱から小さな金具を取り出して錠をこじ開けると、中には数冊の古い日記が収められていた。父の日記だった。

躊躇しながらも最初のページをめくった俺は、そこに綴られていた言葉に衝撃を受けた。それは、俺の知らない父の姿だった。不器用な言葉で綴られた、家族への愛情。そして、心葉樹に関する、信じがたい真実が記されていた。

『心葉樹は、幸福を糧にするのではない。この木は、我が家に降りかかる厄災、病、そして家族が抱える悲しみや後悔といった「痛み」を吸い上げて、その身に封じ込めることで成長する。いわば、我が家の痛みの器だ。家族が円満で、何の悩みもない時こそ、木は栄養を得られず、その力を失う』

ページを繰る手が震えた。俺が信じていたことと、真逆の事実。心葉樹は、家族の絆の象徴などではなかった。それは、家族の負の感情を一身に引き受ける、巨大な生け贄だったのだ。

日記は続く。

『涼介が家を出て行った。あいつの夢を、俺の古い価値観で否定してしまった。胸が張り裂けるほど痛い。だが、この痛みが、心葉樹を育てる。この痛みが、妻の持病が悪化するのを防いでくれるのなら、俺はいくらでもこの痛みを抱え続けよう。「家族じゃない」と突き放したのは、あいつをこの家の業から解放してやりたかったからだ。自由に、何の痛みも知らずに生きてほしかった』

呼吸が止まった。父は、俺との確執という「痛み」を、意図的に作り出し、それを養分として木に与え、家族を守っていたのだ。俺が憎んでいた父の頑固さは、すべて、不器用で歪んだ愛情の形だった。

そして、俺は恐ろしい事実に気づく。最近、俺と美咲の関係はギクシャクしてはいたが、それは表面的なものだった。心の底では互いを深く愛し、関係を修復しようと努力していた。俺自身の家庭から供給される「痛み」が、減っていたのだ。さらに、父自身も年老い、過去への後悔が薄れ始めていたのかもしれない。痛みの供給が途絶えた心葉樹は衰弱し、これまで溜め込んできた厄災を抑えきれなくなった。その膨大な負のエネルギーが、身代わりとなっていた父自身に牙を剥いたのだ。

俺は、家族の幸せを願うことが、逆に父を、この家を破滅に追い込んでいたという事実に打ちのめされた。書斎の床に崩れ落ち、声にならない嗚咽を漏らした。俺が憎んでいた父は、たった一人で、家族のすべての痛みを背負い続けていたのだ。

第四章 新芽の誓い

日記を抱きしめたまま、俺は再び病院へと向かった。ガラス越しではない。特別な許可を得て、父が眠るベッドの傍らに立った。その痩せ細った手に、そっと触れる。冷たい。だが、微かに脈打っている。

「親父……ごめん」

声が震えた。

「俺、何も知らなかった。あんたが一人で、全部背負ってたなんて……。喧嘩した日のこと、ずっと後悔してた。あんたに認めてほしかった。ただ、それだけだったんだ」

俺は、幸福を取り繕うのをやめた。父に言えなかった感謝、反発したことへの後悔、夢を追いかける中で感じてきた孤独。自分の内側にある、ありったけの「痛み」を、正直に、言葉にして紡いでいく。それは懺悔であり、父への誓いでもあった。俺があんたの痛みを、これからは引き受ける、と。

実家に戻り、美咲にすべてを話した。彼女は黙って俺の話を聞き、そして、静かに涙を流した。

「私にも、言えなかったことがあるの」

美咲は、俺に言えなかった仕事の悩みや、将来への漠然とした不安を、ぽつりぽつりと語り始めた。俺は、ただ黙ってその言葉を受け止めた。完璧な調和を目指すのではなく、互いの弱さや痛みを認め、分かち合うこと。それが、俺たち夫婦の、そしてこの家族の、新しい絆の形だった。

二人で手を取り合って、庭に出た。枯れ木のように見える心葉樹の前に立つ。俺たちは、完璧な家族ではない。傷つき、悩み、後悔する。だが、それでいい。そのすべてが、この家を守る力になるのなら。

俺たちが、互いの不完全さを受け入れ、それでも共に歩んでいくことを静かに誓った、その瞬間だった。

目の前の、黒く硬直した心葉樹の枝先。その先端に、信じられないものが見えた。

米粒ほどの、小さな、しかし力強い緑色の点。

新芽だった。

それは、春を告げるような鮮やかな花でも、生命力を誇示するような青々とした葉でもない。ただ、過酷な冬を耐え抜いた生命が、静かに告げる始まりの合図。その小さな緑を見た途な、俺の頬を熱いものが伝っていった。

父の容態は、すぐには良くならないかもしれない。家族の未来には、また新たな悲しみや困難が待ち受けているだろう。だが、俺はもう迷わない。家族とは、無傷の幸福を共有する共同体ではない。互いの痛みを引き受け、傷だらけになりながらも、その根を深く、深く、絡ませ合って共に立ち続ける存在なのだ。

俺は、静かに芽吹いた心葉樹を見つめた。これから俺たちが経験するであろう数多の痛みが、この木を育て、そして家族を守っていく。その残酷で美しい真実を、俺は確かに引き受けた。家族という名の、終わりなき物語が、今、静かに始まった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る