第一章 色褪せたトーストの味
僕、神木湊(かみきみなと)の一日は、いつだって他人の人生のクライマックスから始まる。
こんがりと焼けたトーストをかじる。サクッという軽快な音が鼓膜を揺らすはずの、その刹那。世界がぐにゃりと歪み、バターの香りは消え失せ、代わりに潮の香りと、頬を撫でる熱い風が現実を塗り替えた。目の前には、真っ白なドレスを纏った見知らぬ女性。彼女は泣きながら笑っていて、その瞳に映るのは僕ではない、屈強な腕をした男の姿だ。祝福の拍手と、教会の鐘の音が頭蓋に反響する。誰かの人生で、最も幸福な瞬間。その記憶の奔流が、わずか三秒。僕の意識を完全に奪い去っていく。
ふと我に返ると、僕はまだ自室のダイニングテーブルに座っていた。手にしたトーストは一口かじられただけで、その味はもう分からない。まるで、最初から存在しなかったかのように。
これが僕の日常。『空白の時間』――食事や信号待ち、靴紐を結ぶ一瞬といった、意識の底に沈むような退屈な時間が、ランダムな誰かの鮮烈な記憶の断片と強制的に交換される。喜びも、悲しみも、絶望も、すべてが僕のものではない。僕はただ、他人の人生のハイライトを浴び続ける、空っぽの器だった。
窓の外を眺めると、人々がアスファルトの上を行き交っている。この世界では、『無意味な時間』の総量が、その人の存在の『重み』に変換される。だから、通りの人々を見れば、その人生の密度がおおよそ分かった。目的もなく時間を浪費する者は、鉛を引きずるように足を重く沈ませて歩き、その存在感はどっしりと空気を圧迫している。逆に、充実した日々を送る者は、その足取りも身体も驚くほど軽い。まるで、いつか風に攫われてしまうのではないかと思えるほどに。
僕自身の重さは、おそらく平均的だ。僕の時間は虚ろだが、流れ込んでくる他人の濃密な記憶が、かろうじて僕という存在をこの世界に繋ぎ止めているのかもしれない。ポケットの中で、祖父の形見である針のない懐中時計が、ひんやりとした金属の感触を伝えていた。
第二章 半透明のヴァイオリニスト
近頃、街には奇妙な人々が増えていた。身体が薄く透け、背景の景色と溶け合っているような、そんな人々。彼らは皆、一様に幸福そうな、それでいてどこか儚い表情をしていた。充実した人生の果てに訪れる『希薄化』という現象。人々はそれを、一種の祝福か、あるいは呪いのように噂していた。
僕が特に心を奪われていたのは、公園の噴水前でいつもヴァイオリンを奏でている女性だった。彼女の紡ぐ音色は、聴く者の時間を奪う。退屈や倦怠といった澱んだ感情を浄化し、ただ純粋な感動だけを残していく。彼女の周りだけ、世界の法則が逆転しているかのように、誰もが存在の重さを忘れ、軽やかな心地に満たされるのだ。
しかし、彼女自身は日を追うごとにその輪郭を失っていた。陽光に翳されたその指先は、まるで磨りガラスのように向こう側が透けて見える。僕は彼女を、密かに『半透明のヴァイオリニスト』と呼んでいた。
ある日の午後、僕はカフェの窓際でぼんやりとコーヒーを啜っていた。その一口が、引き金だった。視界が白く染まり、耳を劈くような万雷の拍手が鳴り響く。スポットライトの熱。汗ばんだ手で握りしめたヴァイオリンの感触。そして、僕――いや、舞台上の『彼女』――は、人生で最高の演奏を終え、深く、満ち足りたお辞儀をしていた。
凄まじい熱量と達成感。だが、その記憶の奔流の中に、ほんの一瞬、奇妙な『空白』があった。音が、感情が、世界の全てがぷつりと途切れる、真空のような無音の瞬間。それはあまりに不自然で、僕の心に小さな棘のように突き刺さった。
第三章 空白の楽譜
数日後、僕は勇気を振り絞って公園の彼女に声をかけた。彼女の名前は、栞(しおり)さんと言った。僕が自身の奇妙な能力について、そして彼女の記憶を垣間見たこと、その中の『空白』について途切れ途切れに話すと、彼女は驚いたように目を丸くしたが、やがて悪戯っぽく微笑んだ。
「やっぱり、あなただったのね」
「え?」
「時々、感じていたの。私の大事な瞬間を、誰かがそっと覗き込んでいるような、不思議な感覚。怖くはなかったわ。むしろ、誰かが見届けてくれているようで、心強かった」
彼女の身体は、もう陽炎のように揺らめいて見えた。
「希薄化は、怖くないの?」
僕の問いに、彼女はゆっくりと首を振る。
「怖くないわ。だって、私の人生は音で満たされていたもの。無駄な時間なんて、一秒もなかった。だから、この世界での私の『重み』がなくなるのは、当然の理屈よ」
その声は、風に溶けてしまいそうなほど軽やかだった。
「あの記憶の『空白』は……」
「ああ、あれね」
栞さんは、遠くを見るような目をした。
「あれは、私が最高の演奏の渦中で、ふと願ってしまったの。『この音が、この瞬間が、永遠に続けばいいのに』って。その願いだけが、私の音の中にぽっかりと空いた、たった一つの沈黙。この世界への、最後の心残りみたいなものかしら」
彼女の言葉は、僕が体験してきた他の記憶の中の『空白』とも符合した。人生最高の瞬間に訪れる、一瞬の静寂。それは、この世界に対する愛着や、手放しがたい未練の残滓なのかもしれない。
第四章 砂粒の星図
栞さんの希薄化は、満月が近づくにつれて急速に進んでいった。僕はどうしようもない焦燥感に駆られ、祖父の懐中時計を握りしめていた。ただ彼女が消えていくのを見ていることしかできない自分が、歯がゆくてならなかった。
その夜、僕たちは月明かりが降り注ぐ公園のベンチに座っていた。彼女の姿はほとんど光の輪郭だけになり、その声も囁きに近くなっていた。
「湊くん、ありがとう。私の音楽を、見届けてくれて」
その言葉が合図だったかのように、彼女の身体から放たれる光が強くなる。その瞬間、僕のポケットで懐中時計が灼けるように熱くなった。慌てて取り出すと、文字盤に描かれた無数の砂粒が、栞さんの記憶を体験した時に感じた『空白』と呼応するように、一つの星座を描いて激しく明滅していた。
「私の最高の音色、あなたに預けるわ」
栞さんが微笑むと、彼女の身体はふわりと分解され、無数の光の粒子となった。その粒子は、まるで吸い寄せられるように懐中時計へと流れ込み、文字盤の星図を完成させた。
そして、僕の脳内で、あの記憶が再び再生された。万雷の拍手。スポットライトの熱。だが、今回は違った。かつて『空白』だったはずの瞬間に、聴いたこともないほど澄み切った、完璧なヴァイオリンの音色が響き渡ったのだ。それは、彼女の『永遠なれ』という願いが昇華された、究極のフィナーレだった。
完成された記憶の光は、懐中時計から溢れ、一筋の光の帯となって、静かに夜空へと昇っていく。文字盤を見ると、星図を描いていた砂粒の一つが、ひときわ優しい光を宿して静まっていた。
僕は悟った。僕の能力は、奪うものではない。彼らがこの世界に置いていこうとした最後の未練という『空白』を、僕という存在を触媒にして埋め、彼らの魂を完成させ、安らかに送り出すためのものだったのだ。
第五章 渡し守の系譜
僕は家に駆け戻り、祖父の遺品を漁った。本棚の奥に隠された、古い日記帳。そこに、すべての答えが記されていた。
『我々は、渡し守だ』
日記には、僕と同じ能力を持つ一族の系譜が綴られていた。『無意味な時間』という重力に魂を縛られたこの世界から、人々を解放する役割。充実した人生を生き、存在が軽くなった者たちを、純粋な『意味』だけで構成された次の次元へと送り出す。その旅立ちには、この世界で最も強く、美しい記憶のエネルギーが必要なのだと。
僕が体験してきた『空白』は、彼らが旅立ちの際に手放す記憶に生じる、最後の揺らぎ。渡し守は、その記憶を一時的に預かり、『空白』を埋めて完成させることで、彼らが安らかに次の『日常』へと旅立つための扉を開く鍵の役割を担っていた。
祖父もまた、孤独な渡し守として、数えきれない魂を見送ってきたのだ。日記の最後は、こう締めくくられていた。
『湊。お前がこれを読む頃、私はもういないだろう。この役目は時に孤独だが、忘れるな。我々は、誰かの人生で最も美しい瞬間に立ち会える、最高の観客なのだ』
第六章 僕自身の空白
それからの日々、僕は自らの役割を受け入れた。画家、料理人、教師、名もなき母親。多くの希薄化する人々と出会い、彼らの最も輝かしい記憶のかけらを預かり、その『空白』を埋め、空へとのぼる光の粒子を静かに見送った。
僕が人々を見送るたび、懐中時計の砂粒は一つ、また一つと優しい光を灯していく。街には、地面に縫い付けられたように歩く重い人々が増え、世界は少しずつ色彩を失っていくように感じられた。しかし、僕の心は不思議と満たされていた。誰かの人生の最高の瞬間が、僕の中で生き続けている。
ある朝、洗面台の鏡に映る自分の姿を見て、僕ははっとした。指先が、ほんの少しだけ透けている。渡し守として、数多の濃密な記憶に触れ、彼らの旅立ちを見届けるという役割。それは、僕自身の人生を、この上なく『意味』で満たしていく行為でもあったのだ。
懐中時計に目を落とす。文字盤のほとんどの砂粒が、見送った魂の記憶を宿して静かに輝いている。残っているのは、中央に位置する、たった一粒の、まだ光を知らない砂だけだった。
第七章 最後のトースト
何の変哲もない朝が来た。窓から差し込む光が、部屋の埃をきらきらと照らしている。テーブルの上には、一枚のトースト。バターの香ばしい匂い。
それを手に取った瞬間、唐突に、僕自身の記憶が溢れ出した。
それは、幼い僕が、祖父の膝の上でこの針のない懐中時計を眺めている、縁側の午後の光景だった。
「おじいちゃん、この時計、動かないね」
「ああ。これはな、湊。普通の時間じゃない、誰かの大切な『思い出』を計る時計なんだよ」
そう言って笑った祖父の顔。その時の、ひだまりの匂い。畳のささくれだった感触。
それが、僕の人生における、最も鮮烈で、最も愛おしい記憶だった。僕がこの世界に置いていくべき、最後のピース。僕自身の『空白』を満たすための、最後の鍵。
僕は微笑み、静かにトーストをかじった。
その瞬間、世界から音が消え、僕の視界は柔らかな光で満たされた。手の中の懐中時計、その最後の砂粒が、祖父の笑顔のように優しく輝きを放つ。僕の身体はゆっくりと光の粒子に変わり、窓から差し込む朝の光に溶け込むように、空へと昇っていく。
あとに残された静かな部屋。テーブルの上には、かじりかけのトーストと、一つの懐中時計。その文字盤で輝いていた砂粒は、すべてがその役目を終え、ただの静かな砂へと戻っていた。
世界はまた、誰かの『無意味』で重くなり、誰かの『意味』で軽くなっていく。そして、渡し守の物語も、またいつか、どこかで始まるのだろう。