残響のベンチ

残響のベンチ

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第一章 触れてしまった未来

水島湊にとって、世界はやかましすぎる情報の奔流だった。彼は、素手で触れたモノに残された「最後の記憶」を、望むと望まざるとにかかわらず感じ取ってしまう。それは、誰かが置いたばかりのコーヒーカップに残る焦燥感だったり、電車の吊り革に染みついた無数の人々の倦怠感だったりした。感情の洪水は、湊の心を静かに侵食し、削り取っていく。だから彼は、薄い革の手袋を決してお守りのように手放さなかった。それは世界との間に引かれた、か細くも絶対的な境界線だった。

図書館の司書という仕事は、そんな彼にとって天職に近い。古い紙の匂いと静寂に満たされた空間。書架に並ぶ本たちは、無数の物語を内包しながらも、彼に直接語りかけてくることはない。彼は分類ラベルを貼り替えたり、傷んだページを修繕したりする作業に没頭することで、心の平穏を保っていた。

その日も、いつもと変わらない、灰色で縁取られたような平穏な一日になるはずだった。閉館後の見回りを終え、重い扉を施錠し、吐く息が白く染まる帰り道を歩く。いつもの公園を抜けようとした時、足元の小石に躓き、湊は派手に体勢を崩した。咄嗟に伸ばした右手から、ぱさりと乾いた音を立てて手袋が滑り落ちる。そして、彼の素肌の掌は、冷たい木製のベンチの表面に、ぴたりと吸い付くように触れてしまった。

しまった、と後悔する間もなく、意識が眩暈と共に引きずり込まれる。いつもなら、見知らぬ誰かの他愛ない感傷や退屈が流れ込んでくるはずだった。しかし、今回は全く違った。

―――視界が、燃えるような茜色に染まっていた。耳に届くのは、穏やかな風が木の葉を揺らす音と、隣に座る誰かの優しい息遣い。そして、何よりも鮮烈だったのは、自らの右手が、温かく、少し節くれだった大きな手に、すっぽりと包まれている感覚だった。指と指が絡み合い、確かな愛情が脈打つように伝わってくる。心が、かつて経験したことのないほどの幸福感で満たされていく。涙が出そうなほどの、 абсолютная(アブソリュートナヤ)―――絶対的な安らぎ。

はっと我に返った時、湊は荒い息をつきながら、冷え切ったベンチに手をついたままだった。公園には誰もおらず、夕日はとうに沈み、街灯の頼りない光が地面を照らしているだけ。幻? いや、あの温もりと幸福感は、あまりにも生々しかった。そして何より奇妙なのは、あの記憶の中の視点が、紛れもなく「自分自身」のものだったことだ。

湊は、こんな満ち足りた記憶を持った覚えがなかった。だとしたら、あれは一体何だったのか。震える手で手袋を拾い上げながら、彼は暗い空を見上げた。触れてしまったのは、誰かの過去ではない。まだ訪れていないはずの、自分自身の未来の断片だった。

第二章 温もりの輪郭

あの日以来、湊の灰色の日常は、鮮やかな茜色の記憶によって静かに侵食され始めた。仕事中、ふとした瞬間にあの手の温もりを思い出し、胸が締め付けられる。今まで呪わしいだけだった自らの能力が、初めて彼に希望という名の毒を注ぎ込んだのだ。

彼は、まるで夢遊病者のように、毎日のようにあの公園のベンチへと足を運んだ。しかし、何度触れても、あの鮮烈な記憶が蘇ることはなかった。代わりに流れ込んでくるのは、犬の散歩をする老人の満足感や、喧嘩したらしい恋人たちの気まずさといった、ありふれた他人の残響ばかりだった。

「あの人は、誰なんだろう」

湊の心の中で、その問いが反響し続けた。あの温かい手の持ち主。未来の自分が、心から信頼を寄せる誰か。彼は無意識のうちに、周囲の人々の手を観察するようになっていた。図書館のカウンターで利用者のカードを受け取る時、カフェで店員からお釣りを受け取る時、その指の形、肌の感触に、あの記憶の輪郭を重ねてしまう。

今まで、彼は人との関わりを極力避けて生きてきた。他人の感情に触れることは、彼にとって苦痛でしかなかったからだ。しかし、今は違った。未来の幸福のひとかけらを知ってしまった彼は、その相手を見つけ出したいという強い衝動に駆られていた。

「水島さん、最近何か良いことでもあったんですか?」

パートの女性職員にそう尋ねられ、湊はどきりとした。鏡に映る自分の顔は、以前よりも少しだけ血色が良く、口角が微かに上がっているように見えた。

「いえ、別に……」

言葉を濁しながらも、彼は自分の変化を自覚していた。世界は相変わらずやかましい情報の奔流だったが、その中に一つの確かな「探し物」ができたことで、流れに身を任せるのではなく、自ら岸辺を探して泳ごうとする意志が芽生え始めていた。

彼は、これまで避けてきた同僚との昼食にも参加してみた。新しく入った児童書担当の快活な女性、長年郷土資料室に勤める博識な男性。彼らの言葉、笑い声、時折テーブルの上で触れ合う指先。そのどれもが、あの温もりとは違っていた。落胆と、ほんの少しの安堵。まだ、あの幸福は未来のどこかで自分を待っている。そう思うと、焦燥感と期待が入り混じった奇妙な感情が胸を満たした。

湊は、まるで宝探しをする子供のように、日常に散らばる人々の気配に耳を澄まし、目を凝らした。手袋という境界線の内側で、彼は初めて、世界と繋がりたいと願い始めていた。あの温もりの輪郭を、ただ必死に追い求めて。

第三章 夕焼けの在り処

季節が巡り、公園の木々が赤や黄色に色づき始めた頃、湊の心には焦りが募っていた。あの鮮烈な記憶との出会いから数ヶ月が経っても、温もりの主は見つからない。あれは本当に未来の出来事なのだろうか。それとも、あまりに孤独な自分が見た、都合の良い幻だったのだろうか。

疑念に苛まれたある日の夕暮れ、彼は再びあのベンチの前に立っていた。西の空は、あの日見た記憶とそっくりな茜色に燃えている。まるで何かに引き寄せられるように、湊はゆっくりと手袋を外し、震える素肌でベンチの表面を撫でた。もう一度、あの感覚を。たとえ幻でもいい。

その瞬間、再びあの鮮烈な記憶が彼の意識を捉えた。

―――燃えるような夕焼け。温かい手。そして、今度ははっきりと声が聞こえた。穏やかで、少し掠れた、懐かしい声。

『湊、見てみろ。今日の夕焼けは、まるで神様の絵の具だな』

その声を聞いた瞬間、湊の全身に雷が落ちたような衝撃が走った。心臓が凍りつき、呼吸が止まる。間違えるはずがない。それは、彼が小学生の頃に病気で亡くなった、最愛の祖父の声だった。

ありえない。未来の記憶ではなかったのか? なぜ、死んだはずの祖父が。混乱と動揺で、立っていることさえままならない。湊はベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。頭の中で、記憶の断片が激しく明滅する。

そうだ、思い出した。この公園は、昔、祖父とよく来た場所だ。このベンチは、いつも二人で座って、日が沈むのを眺めていた指定席だった。祖父の手は大きくて、いつも温かかった。自分の小さな手を、いつもこうして包み込んでくれていた。

『神様の絵の具』。それは、美しい夕焼けを見るときの、祖父の口癖だった。

なぜ、忘れていたのだろう。いや、忘れていたのではない。あまりにも辛くて、悲しくて、心の最も深い場所に鍵をかけて、封印してしまっていたのだ。祖父の死という現実が、彼との最も幸福だった記憶さえも、手の届かない場所へと沈めてしまった。

湊の頬を、熱い雫が次々と伝い落ちた。彼が追い求めていたのは、まだ見ぬ未来の幸福ではなかった。失われたと思っていた、過去の温もりだったのだ。彼の能力は、モノの「最後の記憶」を読み取るだけではなかった。持ち主の、あるいはその場所に刻まれた「最も強い記憶」に共鳴することがあった。あのベンチには、他人の記憶など霞んでしまうほどに、幼い湊と祖父の幸福な時間が、濃密に染み付いていたのだ。

未来の誰かと結ばれるという淡い期待は、粉々に砕け散った。しかし、その代わりに、彼の胸には、失われたはずの温もりが、確かな手触りをもって蘇っていた。それは、未来への希望よりもずっと切なく、そして、ずっと優しい光を放っていた。

第四章 素手で触れる世界

実家の押し入れの奥から、埃をかぶったアルバムを見つけ出した。ページをめくると、色褪せた写真の中で、野球帽をかぶった幼い自分が、しわくちゃの笑顔の祖父と手をつないでいた。背景は、間違いなくあの公園の、あのベンチだった。写真の中の祖父の手は、記憶の中の温もりそのものだった。

湊は、一枚一枚の写真を、震える指でなぞった。もう、そこに祖父の記憶が流れ込んでくることはなかった。ベンチに刻まれた残響とは違う。写真は、ただの紙切れだった。しかし、彼の心の中には、封印を解かれた記憶が、鮮やかな色彩と共に広がっていた。

彼は未来を追いかけていたのではない。過去から逃げていただけだった。祖父を失った悲しみと向き合うのが怖くて、温かい思い出ごと蓋をしていた。彼の能力は、そんな臆病な彼の心をこじ開け、忘れてはいけない宝物の在り処を、もう一度教えてくれたのだ。

翌日、湊は図書館に出勤すると、いつものように手袋をはめようとして、その手を止めた。彼は深呼吸を一つすると、手袋をポケットにしまい込んだ。そして、返却されたばかりの、一冊の古い小説を手に取った。

素肌に触れた瞬間、流れ込んでくる。前の持ち主であろう若い女性が、終盤のどんでん返しに息を呑んだ驚き。その前にこの本を借りた老人が、主人公の言葉に静かに頷いた共感。さらにその前の、子供が誤ってつけてしまったチョコレートの染みの、慌てた記憶。

情報の奔流は、やはり少しやかましかった。しかし、もう以前のような苦痛は感じなかった。それは、ただのノイズではない。この一冊の本が、多くの人々の手を渡り、その心に小さな波紋を広げてきた、確かな軌跡なのだ。

湊は、そっと本を書架に戻した。彼は、自分の能力を呪うことをやめた。これは呪いではない。世界に満ちる、声なき物語を聞くための、少し特殊な耳のようなものなのかもしれない。

仕事が終わり、湊は再びあの公園へ向かった。夕日が空を染め始めている。彼はベンチに腰掛けると、手袋をしていない自らの手を、静かに見つめた。もう、ここから祖父の温もりを感じることはないだろう。残響は、役目を終えたかのように薄れていた。

手の中には、もう幻の温もりはない。しかし、心の中には、誰にも奪われることのない確かな温もりが、静かに息づいていた。それは、未来への漠然とした希望よりも、ずっと強く、湊の背中を押してくれている。

彼は一人、ゆっくりと沈んでいく夕日を眺めていた。今日の夕焼けも、まるで神様がこぼした絵の具のように、美しかった。

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