リコレクション・エンド
第一章 偽りの陽光と心臓の棘
光が降り注いでいた。俺の知らない家族が、緑豊かな丘の上で笑い合っている。黄金色の髪をした少女が差し出す花冠の匂い、父親のたくましい腕の温もり、母親の優しい歌声。それは『エデン』のベストセラー記憶、『No.37 家族のピクニック』。完璧な幸福の断片だ。だが、その光が強まるほど、俺の心臓は軋みを上げた。氷の棘が深々と突き刺さるような、耐え難い激痛。俺は接続を強制切断し、冷たい汗の滲む額を押さえた。
「またか、レイ」
背後から声がした。上司のギデオンだ。彼は憐れむような、それでいて何かを試すような目で俺を見ている。
「お前は最高の記憶エージェントだが、その『アレルギー』だけは欠陥だな」
「……すみません」
俺、レイには幼少期の記憶がない。物心ついた時から『エデン』の施設で育ち、他者の記憶を編集・販売する術だけを叩きこまれた。だが、なぜか、他人の最も美しい記憶に触れるたび、この謎の痛みが俺を苛むのだ。まるで幸福そのものに拒絶されているかのように。
その夜、俺は管轄する記憶廃棄場『レテ』のシステムログに、奇妙な信号を見つけた。永久にアクセス不能なはずの深淵領域から発信される、微弱なシグナル。分類は『ノイズ』。この世界で最も忌み嫌われる、未加工の『真実』の記憶。ありえない。売却され、処理された記憶しか存在しないはずの『レテ』に、なぜ野生の『ノイズ』が? 好奇心と、説明のつかない引力に導かれ、俺はその信号の追跡を開始した。信号が示す座標は、ただ一つ。俺自身の識別コードだった。
第二章 錆びついた記録装置
『ノイズ』は、俺が幼い頃から繰り返し見る悪夢の断片と酷似していた。燃え盛る家。床に広がる黒い染み。そして、そこに倒れている、誰か。顔は見えない。だが、その光景は他の誰の記憶とも違う、生々しい質感を持っていた。
調査を進めるうち、俺は『エデン』の禁忌に触れた。創設者アベル。全ての苦しみを世界から消し去った救世主として神格化された男。公式記録では、彼は事故で家族を亡くした悲劇を乗り越え、全人類の幸福のために『エデン』を創設したとされている。だが、その『事故』の記録は、何者かによって意図的に、そして完璧に消去されていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。
焦燥に駆られる俺のポケットで、古びたポータブルミュージックプレイヤーが微かな熱を帯びた。いつから持っていたのかも思い出せない、ガラクタ。表面には、今とは違うデザインの古い『エデン』のロゴが刻印されている。俺は何度もそれを捨てようとしたが、なぜかできなかった。そのプレイヤーが、『ノイズ』の信号に呼応するように、静かに脈打っていることに、俺は初めて気がついた。再生ボタンに指をかける。だが、その先に待つものを恐れるように、指は震えて動かなかった。
「それ以上、深入りするな」ギデオンが警告する。「お前は『エデン』の最高傑作だ。壊すなよ、自分を」
最高傑作? 俺はただの空っぽの人形じゃないか。その空虚を埋めるものが、この先にあるのなら――。
第三章 灰と血のアダージョ
自室の静寂の中、俺はイヤホンを耳に差し込み、プレイヤーの再生ボタンを、祈るように押し込んだ。
――音が、した。
いや、違う。音じゃない。
鼻腔を焼く、煙の匂い。肌を舐める、炎の熱。そして、喉の奥に広がる、鉄の味。視覚情報が主であるはずの記憶再生とは全く違う、五感の全てを蹂躙する情報の洪水。
視界が、赤く染まる。
燃え盛る邸宅。鳴り響く警報。俺は、小さな子供だった。俺の手には、重すぎる銃が握られていた。
そして、目の前に、血を流して倒れている男がいた。
創設者アベル。
いや、違う。彼は――俺の、父親だった。
「これでいいんだ、レイ」
父は、血の泡を吹きながら、笑っていた。狂気に満ちた、だが、どこまでも優しい笑顔で。
「人は苦しみから逃れられない。だから私が、世界から『真実』を消してやる。誰もが幸福な記憶だけを消費する、新しい楽園……『エデン』を創るんだ。だが、そのためには、始まりの『罪』が必要だ。この私を殺す、という原罪が」
彼は俺の小さな手を、彼自身の血で濡れた手で握った。
「お前を愛している。だからこそ、お前を、この世界の最初の『忘れ去られた者』にしてやる。お前の罪も、苦しみも、私の愛も、全てを『レテ』に沈め、お前を誰でもない存在にする。それが、私がお前に与えられる、唯一の愛だ」
引き金が引かれる。轟音。衝撃。
父の体から温もりが消えていく感覚。
ああ、そうか。美しい記憶に触れるたびに俺を襲ったあの痛みは、幸福を拒絶するアレルギーなどではなかった。偽物の幸福を見るたびに、俺がこの手で殺した父への、歪んだ『愛』と、拭えない『罪悪感』が、心臓を内側から引き裂いていたのだ。この痛みこそが、俺が人間であることの、唯一の証明だった。
第四章 最期のサブスクライブ
全てを理解した。
『エデン』システムは、人類を救うための理想郷などではない。理想に狂った父親が、息子に自分を殺させ、その罪を永遠に隠蔽するために創り上げた、巨大な電子の墓標だった。俺の存在そのものが、この世界のシステムの根幹を成す『原罪』だったのだ。
俺は『エデン』の中枢サーバーへと向かった。ギデオンが立ちはだかる。
「やめろ、レイ! お前は消えるぞ! 世界はお前を忘れる!」
「それでいい」
俺は、あのミュージックプレイヤーをサーバーに接続した。俺の、唯一の『真実』の記録装置を。
「偽りの楽園は、もう終わりだ」
俺は、自らの全て――父を殺した罪の記憶、その瞬間に感じた絶望、燃え盛る家、血の匂い、そして、その奥底にあった、歪んでいても確かに存在した父親への愛――その全てを、一つのパッケージにした。
タイトルは、『No.0 真実の痛み』。
そして、その送信先を、『リコレクション・チューブ』に接続する全ての人間へと設定した。
全世界への、強制サブスクライブ。
「さよならだ、父さん」
エンターキーを押すと同時に、俺の身体が足元から光の粒子となって崩れ始めた。俺という存在を規定していた記憶情報が、世界に拡散していく。痛みと共に、安らぎが広がっていく。俺は、俺でなくなっていく。
第五章 レテの静寂
その日、世界中の人々が、同時に同じ記憶を見た。
華やかなアイドルのステージでも、恋人との甘いキスでもない。燃え盛る家の中、一人の少年が父親を殺し、泣き叫ぶ記憶。それは絶望的な光景のはずだった。だが、人々はその記憶の奥底から、これまで感じたことのない、切なくも温かい『何か』を感じ取った。それは『痛み』と呼ばれ、そして、ある人々はそれを『愛』と呼んだ。
偽りの幸福で満たされていた街のモニターから、カラフルな記憶は消えた。人々は接続チューブを外し、久しぶりに自分の目で空を見た。泣き出す者、誰かを抱きしめる者。彼らは、苦しみや悲しみと共に生きることを、思い出し始めていた。
レイというエージェントがいたことを、覚えている者はもう誰もいない。
彼の存在は、始まりの『ノイズ』として、『レテ』の最も深い静寂の中へと沈んでいった。
永遠に、忘れ去られるために。
だが、世界には一つの確かな感覚が残された。
ふとした瞬間に胸をよぎる、理由のわからない、けれど決して不快ではない、優しい痛み。
それは、失われた愛を思い出すための、始まりの合図だった。