余白の拾い人

余白の拾い人

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第一章 空っぽの手のひら

水野蒼(みずの あお)の日常は、他人の落とし物でできていた。それは鍵やハンカチといった物理的な遺失物ではない。彼が拾うのは、形のない、誰かが零れ落とした感情や記憶の断片だった。

秋風がアスファルトの匂いを運んでくる夕暮れ。蒼は古書店の店番を終え、いつもの道を歩いていた。公園のベンチに、夕陽を浴びてきらりと光る何かが見える。それは物ではない。空気の揺らめきのような、陽炎にも似た何か。蒼は知っている。あれは「落とし物」だ。

足を止め、ためらいながらも手を伸ばす。指先が触れた瞬間、温かい光が脳裏に弾けた。夏のひまわり畑、麦わら帽子を被った小さな女の子の笑い声、父親の大きな手に引かれる安心感。それは、見知らぬ誰かの『幸福な幼少期の記憶』だった。甘い蜜のような幸福感が全身を駆け巡り、数秒後、ふっと消える。そして、その代わりに、蒼自身の子供時代の記憶が、一枚、また一枚と、色褪せた写真のように掠れていくのを感じる。これが彼の能力であり、呪いだった。他人の失くしたものを拾うたび、自分の一部が摩耗していく。

蒼の手のひらは、いつも空っぽだった。拾った温もりはすぐに消え、自分の記憶という土台は少しずつ崩れていく。だから彼は、人との深い関わりを避けて生きてきた。他人の人生の鮮やかな断片を拾い集めながら、自分の人生は無地のキャンバスのように、ただ白いまま放置されている。古書のインクの匂いと静寂だけが、彼の心を慰める唯一の友だった。

その日拾った幸福は、ひときゆわ温かく、そしてひときわ蒼の心を抉った。空っぽの手のひらを見つめ、彼は静かにため息をつく。この空虚感を、あとどれくらい抱えて生きていけばいいのだろうか。夕闇が迫る公園で、蒼は一人、答えのない問いに立ち尽くしていた。

第二章 桜色の約束

蒼が働く古書店『時の葉書房』には、時折、上品な老婦人が訪れる。名を千代(ちよ)さんといい、いつも背筋を伸ばし、優しい微笑みを湛えている人だった。彼女は特定の何かを探すでもなく、ただ懐かしい本の背表紙を指でなぞり、遠い目をして帰っていくのが常だった。

ある雨の日、千代さんが珍しく蒼に話しかけてきた。「あの、もし見かけたら教えていただけないかしら。桜の木が表紙の、古い絵本なのだけど」。題名は思い出せないという。ただ、亡くなった夫が、昔読んでくれた大切な本なのだと、少し寂しそうに付け加えた。

その日から、蒼は仕入れる古書の中に、桜の絵本がないか気にかけるようになった。そして一週間後、段ボールの底から、彼はその本を見つけ出した。色褪せた表紙には、満開の桜の木の下で寄り添う老夫婦の絵。これに違いない。高鳴る胸を抑え、そっとページをめくろうとした、その瞬間だった。

指先に、強い静電気が走ったような衝撃。そして、蒼の意識は、本の持ち主が失くした記憶の奔流に呑み込まれた。

それは、病室のベッドの上。窓の外には、盛りを過ぎた桜の花びらが舞っている。痩せた手が、千代さんの手を弱々しく握りしめている。「千代……来年も、あの丘の桜を、一緒に……」。夫の掠れた声。それは果たされることのなかった約束。そして、その約束と共に失われた、夫の最期の温もり、声、匂い。あまりに鮮烈で、切ない記憶の断片だった。

蒼は本を閉じた。自分の頬に涙が伝っていることに気づき、慌てて袖で拭う。千代さんは、夫との大切な約束を、その悲しみと共に失くしてしまったのだ。だから、彼女は理由もわからぬまま、桜の絵本を探し続けていた。

数日後、店を訪れた千代さんに、蒼は黙って絵本を差し出した。彼女は「まあ!」と声を上げ、愛おしそうに本を抱きしめた。「ありがとう、ありがとう……」。何度も礼を言う彼女の笑顔は、どこか曇っていた。蒼は、拾ってしまった『桜色の約束』のことを言い出せなかった。他人の記憶を勝手に覗き、それを返す術も知らない。しかし、初めて、彼は思った。この空っぽの手で、誰かの失くした温もりを、元の場所に返してあげることはできないのだろうか、と。彼の内側で、何かが静かに軋み始めた。

第三章 忘れられた願い

千代さんに記憶を返す方法はないか。蒼は、自分の能力について、生まれて初めて真剣に向き合い始めた。古書店にある古今東西の奇譚や伝承を読み漁り、自身の経験と照らし合わせていく。拾えるのは物だけではない。記憶、感情、才能、果ては運命のひとかけらまで。そして、彼はある古い文献に、途切れ途切れの記述を見つけた。『拾いしものは、器に移し、持ち主へ返すべし。されど、喪失は時として救いなり。心して渡るべし』。

器……。蒼の脳裏に、あの桜の絵本が浮かんだ。あの本を器として、拾った記憶を込めることができれば。彼は試みた。千代さんの夫の最期の言葉、病室に差し込む光、舞い散る桜吹雪――その全てを意識し、絵本に念を込める。すると、絵本のページがひとりでにぱらぱらと捲れ、インクの匂いに混じって、ふわりと桜の香りが立ち上った。成功だ。あとはこれを千代さんに渡せばいい。

達成感に満たされたのも束の間、蒼は激しい目眩に襲われた。そして、意識が遠のく中で、彼は見てしまった。自分の能力の、本当の姿を。

それは、失われた記憶の奔流だった。しかし、それは他人のものではない。彼自身の記憶だった。幼い頃、初めて自転車に乗れた日の、膝の擦り傷の痛みと誇らしさ。母が作ってくれた卵焼きの、甘い匂い。父と交わした、くだらない冗談と笑い声。それらは失われたのではなかった。『譲渡』されていたのだ。

彼はこれまで、無意識のうちに、他人の『悲しみ』や『絶望』を拾うことがあった。その冷たい感情を拾った代償として、彼は自分の温かい記憶を、その感情の持ち主に与えていたのだ。彼の空虚感は、誰かの心を温めるための燃料だった。彼はただの拾い人ではなく、他人の心のバランスを取る、天秤のような存在だったのだ。

愕然とする蒼の脳裏に、さらなる真実が流れ込む。それは千代さんの記憶の深層だった。彼女が夫との約束を失くしたのは、単なる忘却ではなかった。夫の死という現実が辛すぎて、思い出と共に生きることに耐えきれず、『忘れたい』と強く願った結果だった。彼女自身が、その記憶を手放したのだ。蒼が返そうとしている『桜色の約束』は、彼女が自ら封印した、開けてはならないパンドラの箱だった。

『喪失は時として救いなり』。文献の言葉が、重く、重く蒼の心にのしかかる。良かれと思ってしたことが、千代さんの穏やかな日常を、再び悲しみの淵に突き落とすことになるのかもしれない。蒼は、桜の香りがする絵本を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。

第四章 余白に咲く花

蒼は、記憶を込めた絵本を千代さんに渡すのをやめた。それは彼の自己満足でしかなく、彼女の心の平穏を乱すだけの刃になりかねない。彼は数日間、店の奥で悩み続けた。自分の能力は、呪いでもなければ、人を救うための便利な力でもない。ただそこにある、どうしようもない事実なのだと。では、この空っぽの手で、自分に何ができるのか。

答えが出ないまま、春が巡ってきた。古書店の窓から、公園の桜が満開になっているのが見える。その時、店のドアが開き、千代さんが入ってきた。

「こんにちは。ここの窓から見える桜、見事ですわね」

彼女は穏やかに微笑み、窓辺に立った。その横顔は、やはりどこか寂しげだった。

その瞬間、蒼は決意した。失われた過去を無理やり返すのではない。今、ここに、新しい光を灯す手伝いをしよう。

彼はそっと目を閉じ、意識を集中させた。公園で遊ぶ子供たちの屈託のない笑い声、桜を見上げる恋人たちのときめき、日向ぼっこをする猫の満ち足りた温もり。彼は街に溢れるささやかな『幸福』の断片を、いくつか拾い集めた。そして、それらを千代さんの周りの空気に、そっと放った。

それは、風に乗って千代さんに届いたようだった。彼女はふと、桜の木を見つめたまま、はらりと一筋の涙をこぼした。

「……どうしてかしら。なんだか、とても懐かしくて、温かい気持ちになるわ」

千代さんは不思議そうに呟き、涙を拭った。しかし、その表情は、以前よりもずっと晴れやかだった。悲しみが消えたわけではない。だが、悲しみの余白に、新しい、小さな花が咲いたのだ。

蒼は悟った。喪失は、必ずしも埋めなければならない穴ではない。その余白があるからこそ、新しい光が差し込み、新しい思い出が生まれる場所になるのかもしれない。自分の役目は、失われたものを返すことではなく、その余白にそっと寄り添い、小さな種を蒔くことなのだろう。

それ以来、蒼の日常は少しだけ色づいた。彼はもう、自分の能力を呪うことはない。街角で誰かの『焦り』を拾っては、代わりに道端に咲く花の『健気さ』をそっと置いておく。満員電車で零れ落ちた誰かの『疲労』を拾っては、窓から差し込む陽の光の『暖かさ』と交換しておく。

彼自身の記憶が戻ることはない。手のひらは相変わらず空っぽのままだ。しかし、彼の心は、街に生きる人々のささやかな感情の温もりで、少しずつ満たされていくのを感じていた。

ある晴れた午後、蒼は公園のベンチに座り、空を見上げていた。足元に、子供が落としたであろうビー玉が転がっている。彼はそれを拾い上げる。指先に伝わってきたのは、世界がキラキラして見える、混じり気のない『好奇心』。その澄んだ感覚に、蒼は思わず微笑んだ。空っぽの手のひらで、彼は確かに、この世界の美しさに触れていた。

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