選ばなかった日常の羅針盤

選ばなかった日常の羅針盤

0 6345 文字 読了目安: 約13分
文字サイズ:

第一章 違和感のささやき

午前7時30分、アラームの電子音に起こされた美咲は、いつも通りまどろみの中で手を伸ばし、目覚まし時計を止めた。カーテンの隙間から差し込む光は、少しだけ、いつもの朝より明るく感じられた。寝ぼけた頭で、まあそんな日もあるだろう、と美咲は大きく伸びをした。

出版社勤務の美咲は、担当する文芸作品の締め切りに追われる日々を送っていた。今日も例外なく慌ただしい一日になるだろう。淹れたてのコーヒーの香りが部屋に満ちる。しかし、マグカップを口元に運んだ瞬間、美咲の脳裏に微かな違和感が走った。いつものカップの色が、ほんの少しだけ違う気がする。使い始めて五年、手に馴染んだはずの深みのある青が、なぜか僅かに明るい水色に見える。気のせいか、寝不足のせいか。美咲は首を傾げながらも、そのままコーヒーを飲み干した。

駅までの道のりは、美咲にとって瞑想の時間だ。イヤホンから流れるお気に入りのプレイリストを聴きながら、美咲は思考を整理する。だが、いつもの角を曲がった途端、彼女の目に飛び込んできたのは、見慣れたはずのクリーニング店の看板の色が、鮮やかなオレンジではなく、落ち着いたモスグリーンに変わっている光景だった。

「え……?」

美咲は思わず立ち止まる。何度か瞬きをし、もう一度確認する。やはり、モスグリーンだ。昨日までは確かにオレンジ色だったはずなのに。

不安が胸の奥に広がる。しかし、他の人々は誰もその変化に気づいている様子がない。通勤途中の人々は皆、足早に過ぎ去っていく。美咲は震える手でスマートフォンを取り出し、クリーニング店の公式ウェブサイトを確認する。そこにはオレンジ色の看板の写真が掲載されている。

「どういうこと…?」

胸騒ぎを覚えた美咲は、早足で駅へと向かった。

通勤電車に乗り込むと、座席の配置がいつもの車両と微妙に異なっていることに気づいた。優先席の位置が逆になっている。昨日は間違いなく、進行方向に向かって左側にあったはずだ。美咲は周囲を見回すが、誰も違和感を覚えている様子はない。皆、スマートフォンを眺めたり、文庫本を読んだり、あるいは居眠りしたりと、それぞれの日常を送っている。まるで、この「ズレ」が彼女にしか見えない、彼女だけの秘密であるかのように。

会社に着くと、美咲は自分のデスクに置かれたペン立てを見て、再び凍り付いた。愛用していた、同僚から誕生日に貰った猫の形のペン立てがない。代わりに置かれているのは、無機質なステンレス製のものだ。隣の席の同僚、田中はいつも通りの笑顔で挨拶をしてきたが、彼が最近買ったばかりだと自慢していた万年筆が、なぜか安物のボールペンに変わっていた。

美咲は声をかけようとしたが、結局、言葉は喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。このズレは、彼女自身の記憶が混乱しているのか、それとも、世界の方がおかしいのか。どちらにしても、美咲の日常は、その日を境に静かに、しかし確実に崩壊の兆しを見せ始めていた。

第二章 記憶の不協和音

日を追うごとに、美咲の周囲で起こる「ズレ」は鮮明になっていった。それは些細なものから、美咲の記憶を根底から揺るがすものまで多岐にわたった。例えば、いつも通る道に新しくできたはずのカフェが、いつの間にか小さな本屋に変わっていたりする。職場の給湯室に置かれているコーヒーメーカーのブランドが、昨日とは違うものになっていたりもした。

最も美咲を苦しめたのは、人々の記憶との齟齬だった。親友の陽子と行ったはずの旅行の思い出について話しても、陽子は「そんな場所に行ったっけ?」と首を傾げるばかり。美咲が熱弁する共同の記憶は、陽子にとっては全く存在しないものだった。美咲は、自分の頭がおかしくなってしまったのかと本気で悩んだ。心療内科を受診したが、医師の診断は「ストレスによる一時的な疲労」というものだった。処方された睡眠導入剤も、美咲の混乱を鎮めることはできなかった。

美咲は自室の壁に、ズレた日常の「証拠」をメモした付箋を貼り付け始めた。クリーニング店の看板の色、カフェから本屋への変化、陽子との旅行の記憶。それらはまるで、バラバラのパズルのピースのように美咲の視覚と記憶を埋め尽くした。付箋の数は日ごとに増えていく。この世には自分と、自分だけが知るもう一つの世界が存在するのではないか。そんな荒唐無稽な考えが、現実味を帯びて美咲の思考を支配し始めていた。

ある日の午後、美咲は会社の近くにある公園で一人、ランチを摂っていた。ベンチに座り、サンドイッチを頬張りながら空を見上げる。雲の形も、空気の匂いも、いつものそれと変わらないように思えた。しかし、突然、美咲の視界の端に、見慣れないはずの光景が映った。

公園の入り口に立つ、一組の男女。それは、まぎれもなく美咲の親友である陽子と、美咲が五年前に別れた元恋人、健太だった。二人は寄り添い、楽しそうに笑い合っている。陽子が健太の腕にそっと手を添える仕草は、深い愛情を物語っていた。

美咲は息を呑んだ。陽子と健太は、美咲が健太と別れた後、自然と疎遠になっていたはずだ。しかも、陽子には現在の恋人がいる。美咲は混乱した。これは、過去の幻覚なのか、それとも、現在進行形の裏切りなのか。

震える手でスマートフォンを取り出し、陽子のSNSを確認する。そこには、現在の恋人との幸せそうな写真が、確かにアップロードされている。しかし、公園にいる陽子と健太の姿は、あまりにも現実的で、美咲の目に焼き付いて離れない。

美咲は急いで公園を出た。頭の中は、疑問符と不安で埋め尽くされていた。この「ズレ」は、一体どこまで続くのか。そして、この「ズレ」は、一体何を示しているのか。美咲は、自分が今、立っている場所が、本当に「自分だけの現実」なのか、その確証すら持てなくなっていた。

第三章 世界の亀裂

美咲は、陽子と健太の姿を見た日から、さらなる混乱の渦に巻き込まれていった。それは単なる「ズレ」ではなかった。もはや、世界の構造そのものが変質しているかのように思われた。

その日の夜、美咲は疲労困憊でアパートに帰宅した。ドアを開けると、玄関のたたきに、見慣れない男物の靴が一足置かれていることに気づいた。美咲は凍り付いた。泥棒か、と身構えたが、奥の部屋から聞こえてきたのは、陽気な男性の声だった。

「美咲、おかえり!今日の夕飯、オムライスでいいか?」

声の主は、キッチンから現れた。美咲は目を疑った。そこに立っていたのは、見慣れない男だった。しかし、その男は美咲を見るなり、当然のように笑顔を向けた。

「どうした?そんなに驚いて。俺の顔に何か付いてるか?」

男はそう言って、冗談めかして自分の頬を指差した。

美咲は、一歩も動けなかった。その男は、美咲の知らない人物だ。にもかかわらず、その男はまるで、美咲の日常に溶け込んでいるかのように自然に振る舞っている。美咲は、震える声で尋ねた。

「あ、あなたは…誰…?」

男はきょとんとした顔で美咲を見つめた。

「何言ってるんだよ、美咲。俺だよ、宏樹(ひろき)。君の夫だよ。」

夫――その言葉が美咲の頭の中で木霊した。美咲は独身だ。結婚した覚えなど、一切ない。しかし、その男の言葉は、まるで美咲の記憶に直接語りかけるかのように、強く響いた。

美咲はパニックに陥り、リビングを見回した。壁には、美咲と宏樹という男が写った結婚式の写真が飾られている。テーブルの上には、二人のツーショット写真が何枚も置かれている。全てが、美咲が体験したことのない「日常」を物語っていた。

宏樹は美咲の様子に異変を感じたのか、心配そうに近寄ってきた。

「美咲、大丈夫か?顔色が悪いぞ。もしかして、徹夜続きで疲れているのか?」

彼の言葉は優しく、その表情には美咲を心から案じる色が宿っていた。その優しさが、美咲の混乱をさらに深めた。

目の前の「夫」は、美咲にとって完璧な見知らぬ人だ。しかし、彼の瞳は、確かに美咲を愛する眼差しを向けている。そして、部屋の隅には、美咲が過去に何度も手放そうとした古いギターが、まるで新品のように大切に飾られていた。あのギターは、美咲が一度は夢見た音楽の道への扉だった。

美咲は、壁に飾られた結婚式の写真にゆっくりと手を伸ばした。写真の中の美咲は、白いウェディングドレスを着て、宏樹という男と満面の笑みを浮かべている。その顔は、今の美咲が知る自分よりも、ずっと満たされ、幸せそうに見えた。

「これは…私…?」

美咲の口から、掠れた声が漏れた。

宏樹は美咲の手を取り、優しく微笑んだ。

「ああ、もちろん。俺たちの結婚式の写真だろ?覚えてないのか?」

その言葉に、美咲の頭の中で何かが砕ける音がした。美咲は、過去のある重要な岐路――数年前に届いた、音楽大学への再入学の誘いと、現在の出版社への転職の誘い――で、別の選択をしていた場合の「日常」が、今、目の前に具現化しているのだと直感した。

これはただの幻覚ではない。この「ズレ」は、美咲自身が過去に下した「選択」によって分岐した、「可能性の日常」が、ごく稀な確率で「同期」してしまった現象なのだ。美咲の「選んだ日常」と、「選ばなかった日常」が、一瞬、混じり合った世界。

美咲は、その場で膝から崩れ落ちた。恐怖と同時に、言いようのない郷愁が胸を締め付けた。もし、あの時、音楽の道を選んでいたら、この男と出会い、結婚していたのだろうか。この、満たされた笑顔の私が、もう一人の私だったのだろうか。

第四章 選択の重み

宏樹と名乗る男、美咲の「もう一つの日常」の夫は、美咲の突然の不調に戸惑いつつも、献身的に看病してくれた。美咲は混乱しながらも、彼の優しさに触れるうちに、この「可能性の日常」が、決して悪夢ではないことを理解し始めた。彼は美咲の好きな料理を作り、美咲が疲れていると分かると、そっと肩を揉んでくれた。その温かい手つきは、美咲が独り身の生活では決して得られなかった安らぎだった。

美咲は、この「同期現象」がいつまで続くのか、そしてどうすれば元の日常に戻れるのか、皆目見当がつかなかった。しかし、美咲は好奇心に駆られ、宏樹との「日常」を観察し続けた。壁に飾られた写真の中の美咲は、今の美咲とは明らかに違っていた。音楽教室で子供たちにギターを教え、笑顔で歌っている写真。美咲は、あの時、音楽の道に進む夢を諦め、安定を求めて出版社を選んだ。もし、あの時、違う選択をしていたら――。

宏樹は美咲の異変に気づいていたが、それは彼女が仕事に疲れているからだと思い込んでいた。彼は美咲が音楽の道を選んだ世界に生きており、美咲の書斎には、美しい楽譜が並び、ギターケースが立てかけてあった。そして、あの古いギター。それは美咲が青春時代に夢中になった、手放すことのできなかった一本だった。

美咲は、そのギターを手に取り、静かに弦を弾いた。かつて、指が自然に覚えていたはずのメロディーが、ぎこちなく響く。しかし、その音色は、美咲の心に深い感動を与えた。

数日後、その「同期現象」は突然終わりを告げた。朝目覚めると、見慣れた深みのある青のマグカップが目の前にある。クリーニング店の看板は鮮やかなオレンジ色に戻り、駅前のカフェも元の姿を取り戻していた。そして、アパートの玄関には、美咲の靴だけが静かに並んでいた。宏樹の姿はどこにもなく、リビングに飾られていた結婚式の写真も消えていた。まるで、夢でも見ていたかのように、全てが元の日常に戻っていたのだ。

美咲は呆然と立ち尽くした。心臓が早鐘を打っている。あの数日間が、まるで幻だったかのように消え去ったことに、安堵と同時に、言いようのない喪失感が押し寄せた。美咲は壁に貼られた付箋を剥がし、それらを丁寧に一枚一枚重ねた。そして、あの「ズレ」が、自身が過去に下した「選択」の重みが具現化した「並行同期現象」であったことを、確信した。

美咲は、もう一度、心療内科を受診した。しかし、医師は以前と同じ診断を繰り返すばかりで、美咲の胸の奥にある真実には、到底たどり着くことはできなかった。美咲は、誰にも打ち明けられない秘密を抱え込むことになった。

その日以降、美咲の日常は、以前と同じようでいて、全く違うものになった。あの「選ばなかった日常」での体験は、美咲の価値観を根底から揺さぶり、彼女の心に深い爪痕を残した。美咲は、自分が選んだ道、そしてその道の先に築き上げてきた現在の日常を、改めて見つめ直すことになった。彼女は、現在の仕事に不満を感じていたわけではなかったが、常に「もしも」という思いが頭の片隅にあった。しかし、「可能性の日常」を垣間見たことで、美咲は自分の選択が、決して間違っていなかったことも理解した。

第五章 可能性の彼方へ

美咲は、あの「同期現象」以降、自身の日常の中に隠された美しさや、人との繋がりの尊さを再認識するようになった。今まで当たり前だと思っていた風景や、何気ない会話の一つ一つが、美咲にとってはかけがえのないものに感じられるようになった。

ある日の午後、美咲は陽子とカフェでランチをしていた。陽子は、美咲が以前話した旅行の記憶について、「あの時、美咲が誘ってくれなかったら、きっと私もあんなに楽しい経験はできなかったわ」と、美咲が記憶している通りの会話を交わした。その瞬間、美咲の胸に温かいものが込み上げた。この、目の前の陽子との共通の記憶こそが、美咲が選び、共に歩んできた確かな「日常」なのだと。

美咲は、あの時見た、陽子と健太が寄り添う公園の光景も、宏樹と結婚していた「可能性の日常」も、全てが美咲自身の心の奥底にあった「選ばなかった道」への憧憬や、不安の具現化であったことを理解した。しかし、それらは美咲を恐怖させるだけでなく、美咲が自身の選択に自信を持つための、大切な羅針盤となった。

美咲は、以前よりも積極的に仕事に取り組むようになった。行き詰まっていた企画に、新しいアイデアが次々と浮かぶ。同僚との会話も、以前より心からの笑顔で交わせるようになった。何よりも、美咲自身が、自分自身の選択に責任を持ち、前向きに進むことができるようになったのだ。

アパートに帰り、美咲は部屋の隅に置かれたギターケースを開けた。あの「可能性の日常」で、宏樹の書斎にあったものと同じモデルのギターだ。美咲は、あの時、音楽の道に進む夢を諦めたが、決してギターを完全に手放したわけではなかった。時折、気分転換に弾く程度のものだったが、あの体験以来、美咲は再びギターを真剣に弾くようになっていた。指がまだ覚えているメロディーを辿りながら、美咲は心の底から満たされた気持ちになった。

窓の外には、夕焼けが広がる。美咲が生きるこの日常は、無数の選択の積み重ねの上に成り立っている。そして、美咲は知っている。この世界は、決して一つではないことを。あの「ズレ」は、もしかしたら、またいつか現れるかもしれない。しかし、美咲はもう恐れない。むしろ、それは自分自身の可能性の広がりを教えてくれる、不思議な道標となるだろう。

美咲は、ギターの弦を優しく弾きながら、目を閉じた。彼女の心は、過去の選択を悔やむのではなく、今ある日常の美しさと、未来への無限の可能性に満ち溢れていた。選ばなかった日常の幻影は、美咲の人生を照らす、もう一つの羅針盤となったのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る