終声のフーガ

終声のフーガ

0 4201 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:

第一章 砕けた旋律

土と鉄錆の匂いが混じり合う塹壕の中で、俺、リヒトは息を殺していた。役職は「終声記録官」。大層な名前だが、やることは単純だ。致命傷を負い、もはや救護の対象外とされた兵士の最期に寄り添い、その「最後の言葉」を特殊な音響記録装置に刻み込む。遺書を書く暇もなかった者たちの、たった一つの遺品。それを故郷の遺族に届けるのが、俺の戦争だった。

これまで幾百の最期を看取ってきただろう。愛する人の名、母への感謝、神への祈り、そして敵への呪詛。言葉は違えど、その根底にある感情は驚くほど似通っていた。だから俺の心は、とっくに分厚い氷で覆われているはずだった。記録装置のスイッチを入れる指は、まるで機械の一部のように冷たく、正確に動く。感情を挟めば、この仕事は務まらない。

だが、その日の老兵は違った。

彼の胸は榴弾の破片で無残に抉られ、浅い呼吸のたびに、血の泡が微かな音を立てていた。俺が記録装置を彼の口元に近づけると、濁った瞳が虚空から俺を捉えた。彼は何かを言おうと喘いだが、言葉にはならなかった。代わりに、彼の喉から漏れ出したのは、掠れた、しかし確かな音階だった。

「ド……ソ、ソ……ラ……シ♭……」

それは歌の一節にも満たない、ほんの数音の旋律。意味不明のうわ言か。そう判断しかけた俺の腕を、彼は最後の力で掴んだ。骨張った指が、俺の軍服に食い込む。

「……繋いで……くれ……。頼む……」

それだけを言い残し、老兵の体から力が抜けた。開かれたままの瞳には、もう何も映っていなかった。

俺は規定通り、彼の「最後の言葉」を記録した。だが、司令部に提出する報告書には、あの奇妙な旋律のことは書けなかった。書くべきではない。あれは遺言ではなく、単なる譫妄だ。そう自分に言い聞かせた。

しかし、その夜、仮眠用の寝台に横たわっても、あの砕けた旋律が頭の中で何度も再生された。「ド……ソ、ソ……ラ……シ♭……」。それはまるで、完成されることを切望しているかのように、俺の思考にこびりついて離れなかった。終声記録官として、決して踏み込んではならない領域。死者の言葉の意味を、俺が探ってどうするというのだ。それでも、老兵の「繋いでくれ」という懇願が、俺の心の氷に、初めて小さな亀裂を入れたのだった。

第二章 声の縫合

あの日を境に、俺の戦争は変質した。任務は変わらない。硝煙と泥濘の中を這い、死にゆく兵士を探し、最後の言葉を拾い集める。しかし、俺の耳は、以前とは違うものを捉え始めていた。

次に看取ったのは、まだ髭も生えそろわない若い衛生兵だった。腹部から流れる血を自分の手で押さえながら、彼は故郷の丘の話を途切れ途切れに語った。そして最後に、ふっと息を吐き出すように、こう呟いたのだ。

「……ミ♭……レ、ド……」

その音階は、驚くほど自然に、老兵の旋律の後に続いた。「ド……ソ、ソ……ラ……シ♭……ミ♭……レ、ド……」。まるで、失われたパズルのピースが一つ、カチリと嵌まったかのような感覚。俺は鳥肌が立つのを抑えられなかった。

偶然か? いや、偶然にしては出来すぎている。

俺は規則を破ることを決めた。司令部に提出する公式記録とは別に、個人的な手帳を用意し、そこに兵士たちが遺した音の断片を五線譜に書き留め始めた。それは危険な賭けだった。もし見つかれば、敵前での利敵行為と見なされかねない。だが、俺を駆り立てたのは、恐怖よりも遥かに強い、謎への渇望だった。

ある屈強な工兵は、力強い低音で「ド……ファ……ソ……」と、まるで曲の土台となるようなベースラインを遺した。斥候として敵陣に潜入し、狙撃された兵士は、息絶える間際に「シ♭、ラ、ソ、ファ、ソ……」と、風のように軽やかな旋律を囁いた。ある者は歌詞の一部を。「黄金の……麦畑……」。またある者は、言葉にならないハミングで、リズムだけを刻んだ。

一つ一つの声は、それだけでは意味をなさない断片に過ぎない。しかし、手帳の上でそれらを繋ぎ合わせていくと、徐々に壮大な楽曲の輪郭が浮かび上がってきた。俺は任務の合間を縫って、手帳の五線譜を睨み、音を繋ぎ合わせる作業に没頭した。それは、死者の声を縫合していくような、神聖で冒涜的な行為だった。

もはや兵士たちは、名もなき死者ではなかった。彼らはそれぞれが、この未完の歌を構成する、かけがえのない音符だった。俺は彼らの死に顔だけでなく、声の震え、息遣い、最後の瞳に宿った光を記憶に刻みつけた。虚無だったはずの仕事に、意味が生まれ始めていた。この歌を完成させることが、彼らの無念の死に報いる唯一の方法なのではないか。そんな確信にも似た思いが、俺の中で育っていく。しかし、俺はまだ知らなかった。この歌が完成した時、俺が直面する真実の重さを。

第三章 国境の子守唄

数ヶ月が経ち、俺の手帳は黒い音符で埋め尽くされていた。主旋律、対旋律、和音、そして歌詞の断片。バラバラだった声は、俺の中で一つのフーガ(遁走曲)として響き始めていた。それは、軍歌のような勇ましさも、鎮魂歌のような悲壮感もない、不思議なほど穏やかで、どこか懐かしいメロディだった。

最後のピースは、意外な形で手に入った。敵の奇襲を受け、俺の部隊は壊滅的な打撃を受けた。俺自身も腕を負傷し、後方の野戦病院に担ぎ込まれた。朦朧とする意識の中、隣のベッドから呻き声が聞こえた。敵国の捕虜兵だった。軍医は彼を見限り、俺の治療を優先している。

「水を……」

捕虜兵が、か細い声で呟いた。俺は、動く方の手で水筒を掴み、彼の乾いた唇にその水を垂らしてやった。彼は何度かそれを飲み下し、少しだけ穏やかな表情になった。

「ありがとう……」

彼の瞳には、敵意も憎しみもなかった。ただ、故郷を思う一人の人間としての、静かな諦観が漂っていた。彼はゆっくりと目を閉じ、そして、歌い始めたのだ。俺がずっと追い求めてきた、あの歌の、最後の美しい一節を。

その瞬間、俺の頭の中で、全ての音が繋がった。砕けた旋律は完璧な一つの楽曲として完成し、その荘厳な響きに俺は打ちのめされた。

そして同時に、気づいてしまった。この歌を、俺は知っている。いや、正確には、その歌詞を知っていた。

「黄金の麦畑、銀の川……母さんの歌声、揺り籠……」

それは、敵国で古くから伝わる、有名な子守唄だった。

血の気が引いた。なぜだ? なぜ我が国の兵士たちが、死の間際に、敵国の子守唄を歌っていたんだ? 敵を憎み、殺すためにここにいる彼らが、なぜ敵の文化の象徴とも言える歌を? 裏切りか? 集団的な狂気か? 俺が繋ぎ合わせたこの歌は、冒涜的な不協和音でしかなかったのか?

混乱する俺に、捕虜兵が最期の息で語りかけた。

「その歌……知ってるのか……。俺の村じゃ……ばあちゃんがよく歌ってくれた……。国境の向こうの村でも、同じ歌を歌うんだって……言ってたな……」

国境。その言葉が、雷のように俺を撃ち抜いた。

俺は病院の資料室に忍び込み、古い時代の地図と民俗学の資料を貪るように調べた。そして、衝撃的な事実を発見する。

この戦争が始まるずっと前、両国を隔てる山脈と川は、国境線などではなく、人々が自由に行き交う交流の道だった。そして、その一帯の村々では、言語や文化の垣根を越えて、一つの共通の歌が歌い継がれていた。それが、この子守唄だったのだ。それは「敵国の歌」などではなかった。戦争によって引き裂かれる前の、我々が共有していた「平和の記憶」そのものだったのだ。

兵士たちは、死の間際に、イデオロギーや憎悪が剥がれ落ちた魂の最も深い場所で、失われた故郷の原風景を、分かたれる前の人の温もりを思い出していたのだ。そして無意識に、その平和の象徴であった歌を口ずさんでいた。それは、戦争に対する、人間としての最後の、そして最も静かな抵抗だった。

第四章 希望の譜面

野戦病院のベッドの上で、俺は完成した楽譜をただ黙って見つめていた。それはもはや、単なる音符の羅列ではなかった。幾百もの死者の声が織りなす、鎮魂と希望のフーガだった。彼らが遺したかったのは、憎しみではなく、この歌に込められた「繋がっていた記憶」だったのだ。

俺の仕事の意味は、根底から覆された。俺は死の記録官ではない。分断された記憶を繋ぎ、失われた人間性を拾い集める、記憶の縫合者だったのだ。

戦線に復帰した俺は、以前と同じように終声記録官の任務を続けた。だが、俺の心はもう凍てついてはいなかった。兵士が最期にこぼす音の欠片に耳を澄ますたび、俺はその声の奥にある温かな光を感じていた。彼らの死は無駄ではない。その声は、この偉大な歌の一部となって、生き続けるのだから。

戦争はまだ終わらない。憎しみの連鎖は、今日も新たな死者を生み出している。だが、俺には為すべきことがあった。

ある月夜、俺は前線の川辺に一人で立った。敵陣へと続く、静かな黒い流れ。俺は丁寧に書き写した「終声のフーガ」の楽譜を、小さなガラス瓶に詰め、蝋で固く封をした。そして、祈りを込めて、それを川の流れにそっと委ねた。

瓶は小さな光のように、くるくると回りながら、敵国の方向へと流れていく。

この瓶が、誰かの手に渡る保証はない。見つかる前に川底に沈むかもしれないし、岸辺で砕け散るかもしれない。たとえ届いたとしても、楽譜に込められた意味を理解する者がいるとは限らない。

それでも、俺は流さずにはいられなかった。

これは、無力な俺にできる、たった一つの抵抗であり、未来への希望だった。いつか戦争が終わり、人々が再び互いの顔をまともに見られるようになった時、この歌が架け橋になるかもしれない。黄金の麦畑と銀の川を、再び両国の人々が共に歌う日が来るかもしれない。

俺はこれからも、終声を記録し続けるだろう。死にゆく兵士たちの声を、一つも取りこぼさずに拾い集める。それはもはや、司令部のための任務ではない。分断された世界を、歌で繋ぎ直すための、俺自身の、静かな戦いなのだ。

川面を滑っていく小さな瓶の軌跡を、俺はいつまでも見送っていた。空には、国境などないかのように、ただ美しい月が浮かんでいた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る