粒子たちの終焉、あるいは始まりの唄
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粒子たちの終焉、あるいは始まりの唄

第一章 霧中の輪郭

僕の眼に映る世界は、無数の光の点で出来ていた。人々も、石畳も、空を覆う鈍色の雲さえも、すべては「存在の粒子」と呼ばれる微細な光の集合体だ。喜びを抱く者の粒子は暖かな金色に輝き、深い悲しみに沈む者のそれは、まるで水底の泥のように淀んで揺らめく。僕はその光の明滅から、世界のあらゆるものの本質――その記憶、感情、そして残された時間を、肌で感じるように理解できた。

だが、奇妙なことに、僕自身の存在だけがその法則から外れていた。自分の手を見下ろしても、そこには確かな輪郭はなく、ただ掴みどころのない灰色の霧が漂っているだけ。僕は、この世界で唯一、自分自身の存在を粒子として認識できない人間だった。

近頃、世界の色彩が急速に失われている。人々から発せられる存在の粒子の輝きは弱まり、街を歩く人々の表情は能面のように平坦だ。僕らの生命を維持するはずの「意識の空気」が、日に日に希薄になっているのだ。かつては笑い声や情熱のざわめきで満ちていた広場も、今は乾いた風が埃を巻き上げるばかり。思考は鈍り、感情は摩耗し、世界は静かに窒息しようとしていた。

そして僕は見ていた。この緩やかな終焉と並行して、世界のあらゆる存在の粒子が、まるで巨大な何者かに吸引されるかのように、空の彼方へと細く、長く、引き伸ばされていく光景を。その抗いがたい流れを、僕以外の誰も気づいてはいなかった。

第二章 色彩なき街の記録者

「あなたには、この世界の本当の姿が見えているのですね」

声をかけられたのは、街の外れにある古い図書館だった。埃と古紙の匂いが満ちる静寂の中、僕が粒子の流れの源を探して空を見上げていた時だった。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。彼女の名前は雫(シズク)。その存在の粒子だけが、この色褪せた世界にあって、まるで嵐の中の灯台のように、凛とした青白い光を放っていた。

彼女は、失われゆく人々の記憶や感情を書き留める「記録者」の一族なのだという。インクの染みた指先で、彼女は分厚い古書を撫でた。

「世界から物語が消えていきます。愛も、憎しみも、夢さえも。人々は昨日の食事のことさえ、おぼろげにしか思い出せない」

彼女の声は、澄んだ水のように静かに響いた。僕は、自分が視ている光景――粒子が空へと吸い上げられていく様を、拙い言葉で伝えた。雫は驚くことなく、静かに頷いた。

「それは、古の伝承にある『大いなる吸収』やもしれません。世界が自らを喰らう、終焉の兆しだと」

彼女の瞳には、諦めと、そして微かな希望が揺れていた。

「流れの源を突き止めれば、何かわかるかもしれない」

僕の言葉に、彼女はこくりと頷いた。こうして、僕と彼女の、世界の終着点を探す静かな旅が始まった。僕はこの時、彼女の強く安定した粒子が、僕の曖昧な存在の霧を、ほんの少しだけ縁取ってくれるような気がしていた。

第三章 無限結晶のささやき

雫の一族に伝わるという「無限結晶」を求め、僕らは忘れられた神殿の遺跡へと足を踏み入れた。意識の空気が極度に希薄なその場所では、沈黙が石のように重くのしかかり、呼吸をするたびに思考が白く霞んでいくようだった。

苔むした祭壇の奥で、それは静かに眠っていた。人の拳ほどの大きさの、内側から淡い光を放つ乳白色の結晶。雫に促され、僕が恐る恐るそれに触れた瞬間、世界が閃光に包まれた。

ブワリ、と僕の視界に無数の可能性が溢れ出す。それは雫の存在を軸とした、時間軸の分岐だった。記録者にならず、パン屋を営んで笑う雫。旅の途中で命を落とし、光の粒子となって霧散する雫。僕と出会わなかった、全く別の人生を歩む雫。数多の未来が、星屑のように生まれ、そして消えていく。

同時に、僕の脳裏を全く異なる世界の風景が焼き切るように駆け巡った。重力が逆転した空、液体のように揺らめく大地、思考そのものが形を持つ生命体。それは、この世界が始まるよりも遥か以前の、過去のサイクルの残響だった。

「……っ!」

僕は結晶から手を離した。息が切れ、心臓が激しく鳴っていた。見ると、無限結晶の輝きが、ほんの少しだけ失われ、その透明度が僅かに曇っていた。雫が心配そうに僕の顔を覗き込む。彼女の粒子の輝きだけが、僕をこの現実につなぎとめる唯一の錨だった。

第四章 空洞の心臓

粒子の流れを追い、僕らが辿り着いたのは、世界の最果てと呼ばれる大地の裂け目だった。そこには、巨大な「空洞」が口を開けていた。空と大地を貫く奈落であり、星々さえもその深淵に吸い込まれているように見える。

そして、世界のあらゆる場所から集められた存在の粒子が、壮大な光の天の川となって、その空洞の中心へと渦を巻きながら落下していた。それは、世界の死そのものを描いた、絶望的で、しかし神々しいほどに美しい光景だった。

「ああ……これが……」

雫が膝から崩れ落ち、その顔から表情が消えた。彼女の強い光でさえ、この絶対的な喪失の前では揺らぎ始めていた。

だが、僕はその渦の中心に、何か違うものを感じ取っていた。あれは一方的な吸収ではない。破壊でもない。まるで巨大な心臓が脈動するように、粒子を受け止め、何かへと「再構築」している。そう確信した。

「雫、待っていて」

僕は言った。彼女の制止する手を振り払い、奈落へと身を躍らせた。曖昧な霧でできた僕の身体は、重力に逆らうようにゆっくりと、光の渦の中心へと引き寄せられていった。世界の真実が、僕を呼んでいた。

第五章 我は世界、汝は意志

光の奔流に身を投じた僕を、声が包み込んだ。それは男でも女でもなく、個人でもない、幾億もの意識が重なり合ったような、世界そのものの声だった。

『怖れることはない、我が子よ』

僕の周囲で、吸い込まれた粒子が分解され、新たな法則の素として再編成されていく様が見えた。記憶は情報に、感情はエネルギーに、生命は可能性へと還元されていく。

『我は滅びてはおらぬ。ただ、生まれ変わろうとしているだけだ。古き法則を解体し、新しき生命を育むための、大いなる揺り籠。これは終焉ではなく、進化のサイクルなのだ』

声は静かに、しかし宇宙の隅々にまで響き渡るように語りかける。そして、僕の最大の謎に触れた。

『おまえが自らの粒子を見ることができぬのは、おまえが個としての存在ではないからだ。おまえは、この世界が次のサイクルで「どのような法則を持つべきか」を決定するために生まれた、純粋な「意志の核」。まだ形を与えられていない、可能性そのものなのだ』

僕は、僕という存在ではなかった。僕は、次の世界の設計図を描くための、名もなき意志だった。雫が持っていた無限結晶は、過去のサイクルで僕と同じ役割を担った「意志の核」が、その選択の瞬間に遺した、ただ一つの情報の名残だったのだ。

第六章 最後の選択

僕は世界の心臓の中で、究極の選択を迫られた。

『選ぶがよい、意志の核よ』

目の前に、三つの可能性が光の道として示された。

一つは、「維持」の道。このサイクルを強制的に停止させ、緩やかに滅びゆく今の世界を延命させる。雫や、僕が知る人々は、しばらくの間、今の姿を保つだろう。だが、それはただ死を先延ばしにするだけの、停滞した未来だ。

一つは、「変革」の道。新しい世界の法則を定め、この世界を次のサイクルへと進める。現在の生命、記憶、感情はすべて形を変え、僕が愛した世界は失われる。だが、そこには新しい誕生の可能性がある。

そして最後の一つは、「無」の道。すべてのサイクルを終わらせ、世界を完全な静寂へと還す。苦しみも、喜びも、全てが存在しなかったことになる。

僕は、大地の裂け目の縁に立つ雫を見た。彼女は泣いていた。僕が意志の核だと理解したのだろう。だが、彼女の青白い粒子は、最後の瞬間まで記録者であろうとするかのように、強く、強く輝いていた。その光が、僕の霧のような心を貫いた。

第七章 始まりの唄

愛しい世界だった。人々が交わす他愛ない会話も、雨上がりの土の匂いも、雫が物語を綴る音も。それらすべてが、失うにはあまりにも尊かった。

だが、留まることはできない。停滞は緩やかな死だ。

僕は「変革」を選んだ。だが、それは完全な忘却を意味するものではない。僕は意識を集中させ、世界に吸収された無数の粒子――失われた人々の記憶、感情、夢――を拾い集めた。

『忘却ではない。礎として』

『喪失ではない。新しい唄の旋律として』

僕がそう意志すると、僕の曖昧だった霧の身体から、眩いばかりの光が無限に溢れ出した。それは、新しい世界の法則が生まれる産声だった。

光は世界へと還っていく。空はオーロラのように揺らめく未知の色に染まり、乾いた大地からは柔らかな光を放つ植物が芽吹き始めた。人々の存在の粒子は穏やかに溶け合い、個という境界を越えた、新しい形の生命へと変容していく。世界は救われたのではない。ただ、形を変えて続いていく。

裂け目の縁で、雫は変わりゆく世界を見つめていた。僕だった光が、彼女の頬を優しく撫でるように通り過ぎていく。彼女は震える手で、懐からペンと手帳を取り出した。

そして、新しい世界の最初の物語を書き留め始める。

それは、かつて蒼(アオ)という名の、自分の輪郭さえ持たない少年がいた世界の、最後の記録。

そして、彼が愛した世界の粒子を礎として生まれた、新しい世界の、最初の唄だった。


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