空白のクロニクル、時の残響
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空白のクロニクル、時の残響

第一章 触れる過去、疼くしるし

ユキの指先が、港町の古い石畳にそっと触れた。途端に、百年前の悲鳴が鼓膜を突き破り、炎の熱が皮膚を焼く。逃げ惑う人々の絶望、燻る木の匂い、崩れ落ちる建物の轟音。過去の感情が濁流のように流れ込み、彼女は思わず息を詰めた。視界の端で、現実の穏やかな港の風景が陽炎のように揺らめいている。

「また、始まったか」

小さく呟き、彼女は腕をまくった。白い肌の上に、まるで本物の火傷のような痣が赤く浮かび上がっている。これが彼女の持つ呪いであり、力。「過去の共鳴者(Past Resonator)」の証である「しるし」だった。

その時、背後から静かな声がかけられた。

「その痣、もしかして『しるし』ですか?」

振り返ると、知的な眼鏡の奥から探るような視線を向ける男が立っていた。歴史学者のカイトと名乗った彼は、この町で頻発する異常な「記憶の残像(Memory Echoes)」を調査しているという。彼はユキの腕の痣を一瞥し、確信したように頷いた。

「やはり。君のような人を探していたんだ」

カイトは懐から古びた真鍮の羅針盤を取り出した。盤面には北も南もなく、代わりに乳白色の霧のような「時の雫」が漂っている。今、その雫が微かに波立ち、港の先の丘を指していた。

「世界中で歴史の残像が暴走している。その中心が、この町にある。どうか、君の力を貸してほしい」

羅針盤が放つ淡い光は、まるで助けを求めるように明滅していた。

第二章 羅針盤が示す空白

カイトの導きで、二人は丘の上の廃教会を目指した。石段を一つ登るごとに、空気が濃密になっていくのを感じる。道の脇では、存在しないはずのガス灯が点滅し、ヴィクトリア朝時代のドレスを着た女性の残像が音もなく通り過ぎていった。世界が薄い膜のように震えている。

「気を付けて。残像が濃すぎる。物理法則が不安定になっている」

カイトの警告通り、一瞬、足元の重力がふわりと軽くなった。ユキは教会の尖塔を見上げる。そこから放たれる時間の圧力が、肌をぴりぴりと刺すようだった。

たどり着いた教会の内部は、異様な光景に満ちていた。ステンドグラスは砕け散っているはずなのに、色とりどりの光が差し込み、聖歌隊の幻影が荘厳な賛美歌を口ずさんでいる。それは歴史のどの記録にも存在しない、謎の祝祭の「記憶の残像」だった。

そして、その祝祭の中心、祭壇があったであろう場所には、ただぽっかりと、歪んだ虚無が口を開けていた。

何もない。

人の形も、物の形も、光さえも存在しない、絶対的な「空白」。

「あれが…世界中で報告されている『空白の歴史ページ』だ」

カイトが息を呑む。羅針盤の雫は、その空白を指したまま、激しく荒れ狂っていた。それはまるで、忘却された歴史の中心で、誰かが叫んでいるかのようだった。

第三章 共鳴する魂

ユキは、まるで何かに引かれるように、一歩、また一歩と「空白」へ近づいていった。カイトの制止の声が遠くに聞こえる。彼女の共鳴者の本能が、あの虚無の奥に、途方もなく巨大な感情の残滓があることを告げていた。悲しみ、決意、そして愛。

震える指先が、現実と虚無の境界線に触れる。

瞬間、世界が反転した。

流れ込んできたのは、過去の誰かの記憶ではなかった。未来のビジョンだった。ガラスと光でできた摩天楼。鳴り響く警報。世界の終わりを告げる冷たいアナウンス。そして、彼女の脳内に直接響く、悲痛な声。

――世界を救うために、私を消して。

その声の主は、自分自身と瓜二つだった。同じ顔、同じ瞳。だが、その瞳にはユキが知らない、鋼のような決意が宿っていた。

激痛が腕を走る。赤黒く浮かび上がった「しるし」は、火傷の痕ではなく、幾何学的な紋様を描いていた。過去の誰かの力ではない。未来の誰かの力が、一時的に彼女の肉体に宿る。世界を知覚する速度が、ありえないほど加速した。

第四章 時の雫の囁き

ユキが空白に触れたその時、カイトの手の中の羅針盤が叫び声のような甲高い音を立て、眩い光を放った。盤面の「時の雫」が激しく渦を巻き、液体のように溢れ出すと、それは教会の空間に新たな残像を投影し始めた。それはもはや幻影ではない。触れられそうなほどのリアリティを持つ「実体化した過去」だった。

そこにいたのは、ユキとそっくりの、未来の衣服をまとった女性だった。

彼女は、今カイトが手にしているのと同じ羅針盤を使い、巨大な装置を操作している。その表情は悲しみに満ちていたが、唇には微かな笑みが浮かんでいた。

実体化した残像の彼女は、現在のユキとカイトを真っ直ぐに見つめ、その唇が音もなく動いた。しかし、その言葉は直接、二人の心に響いた。

『歴史には、避けられぬはずの破滅があった。大崩壊と呼ばれる、文明の終焉が』

未来のユキの残像は語り続ける。

『私はそれを回避するために、この時代に一つの楔を打ち込んだ。歴史を僅かに歪ませ、破滅の未来を消し去った。その代償は、干渉者である私の存在そのもの。私は、あらゆる時間軸から、この羅針盤を使って私という概念を消去した』

カイトは愕然とした。膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪える。「空白の歴史ページ」は、消された歴史ではなかった。世界を救うために、自らの存在を歴史から抹消した「誰か」の痕跡だったのだ。

世界の不安定化は、その巨大すぎる歴史改変が引き起こした、タイムパラドックスの悲鳴だった。

そして、その誰かとは、目の前にいるユキの、未来の姿だった。

第五章 選択の刻

『私の存在の消去は、不完全だった』

未来のユキの残像が、哀しげに告げる。

『消えゆく私の想いが、過去の私……あなたという特異点を生み出してしまった。共鳴者としてのあなたの力は、私が歴史から消えたことで生まれた、世界のバグ。そして今、そのバグがパラドックスを増幅させ、改変したはずの世界そのものを崩壊させようとしている』

残像は、光の粒子となりながら、二つの道を示した。

一つは、羅針盤に残された最後の力を使って、歴史改変の事実ごと、彼女自身の存在を完全に抹消すること。未来の自分も、今の自分も、全てが「最初からいなかった」ことになる。そうすれば、パラドックスは消え、改変された世界は安定を取り戻すだろう。人々は救われる。だが、ユキという人間は、誰の記憶からも、記録からも、永遠に消え去る。

もう一つは、歴史を元の「破滅するはずだった流れ」に戻すこと。そのためには、ユキがこの羅針盤を手にし、未来へと旅立ち、再び歴史に干渉し、そして自らを消すという、未来の自分と同じ運命を辿らなければならない。それは、全てを知った上で、自らを犠牲にするための旅路への出発を意味した。

世界の安定か、破滅へと向かう正しい歴史か。

消滅か、永遠の自己犠牲のループか。

残酷すぎる選択肢が、静寂に満ちた教会に重く響いた。

第六章 彼方の残響

ユキはゆっくりとカイトの方を向いた。その表情は穏やかで、初めて出会った時のような儚さはもうなかった。確かな意志を宿した瞳で、彼女はただ、静かに微笑んだ。それは感謝のようでもあり、別れの挨拶のようでもあった。

彼女がどちらを選んだのか、カイトには分からなかった。

ユキはただ、祭壇に歩み寄り、光を放つ羅針盤をそっと両手で包み込んだ。次の瞬間、教会全体が純白の光に満たされ、カイトは思わず目を閉じた。

どれくらいの時間が経っただろう。

カイトが再び目を開けた時、教会には彼一人だけが立っていた。祭壇の上の羅針盤は静かに光を失い、盤面の「時の雫」は穏やかな霧に戻っている。

ユキの姿は、どこにもなかった。

数年後。カイトは丘の上の教会跡地で、空を見上げていた。彼の研究ノートには、かつて世界を揺るがした「記憶の残像」暴走事件の詳細が記されている。その解決に協力してくれた、ある特殊な能力を持つ女性の記録もあった。だが、なぜかその名前が書かれていた部分だけ、インクが滲んだように曖昧で、どうしても読むことができない。

彼は時折、理由の分からない喪失感に胸を締め付けられることがあった。何か、とても大切なものを忘れてしまったような、心の空白。

ふと、澄み渡った空に、一瞬だけ誰かの優しい微笑みのような残像が揺らめいた気がした。それはすぐに消えてしまったが、カイトの心に、温かいような、切ないような、不思議な余韻だけを残していった。

歴史の片隅で、世界を救った誰かの名もなき残響が、ただ静かに響いていた。


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