記憶売りのアトリエ

記憶売りのアトリエ

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第一章 記憶の対価

水島蓮(みずしま れん)が最初に意識を取り戻したとき、鼻腔をくすぐったのは、古い羊皮紙と、乾いたインクの匂いだった。見慣れた安アパートの天井ではなく、そこには星々が螺鈿細工のように埋め込まれた、深い蒼色のドームが広がっていた。体を起こすと、自分が豪奢な椅子に座らされていることに気づく。周囲は床から天井まで届く書架に埋め尽くされ、そのどれもが分厚い革張りの本で満たされていた。

「お目覚めかな、迷い人よ」

声のした方に目を向けると、カウンターの向こうに一人の老人が立っていた。蜘蛛の糸のように細い銀髪を長く伸ばし、レンズの分厚い眼鏡の奥で、数えきれないほどの星を宿したような瞳が蓮を射抜いていた。

「ここは……どこですか? 私は確か、自分の部屋で……」

「ここはアムネシア。君たちの言葉で言うならば、『忘却』の名を冠した場所だ」老人はこともなげに言った。「そして私は、しがない記憶商人にすぎん」

記憶商人。その突飛な単語が、蓮の混乱した頭の中で意味を結ばない。「あなたが、私をここに?」

「いいや。アムネシアは、何かを強く求める魂を惹き寄せる。君は何かを求めていた。そうだろう?」

蓮は息を呑んだ。そうだ。彼は求めていた。写真家として生きる道に行き詰まり、才能の枯渇に喘ぎ、スランプという名の沼の底で、ただひたすらに「何か」を求めていた。被写体を見つめる新鮮な眼差しを、心を揺さぶる光景を、そして、かつて持っていたはずの情熱を。

「ここでは、望むものを何でも手に入れられる」老人はカウンターに一枚の白紙の羊皮紙を広げた。「完璧な構図の知識。光を読み解く技術。あるいは、腹を満たす一切れのパンでさえも。ただし、対価が必要だ」

「お金なら、そんなに持っていま――」

「通貨は、君の『記憶』だ」

老人の言葉は、冷たい刃のように蓮の心臓を貫いた。

「記憶が……通貨?」

「そうだ。君が持つ、最も価値のない記憶で構わん。例えば、三日前の昼食の味。そんな些細な記憶一つで、ここでは温かいスープが一杯手に入る。さあ、どうする? 生きるためには、何かを売らねばならんよ」

老人の瞳は、有無を言わせぬ引力で蓮を捉えていた。空腹と混乱が判断を鈍らせる。蓮は、震える声で答えた。

「……じゃあ、昨日の晩酌で飲んだ、安物のビールの味を」

そう口にした瞬間、頭の中から何かがすっと引き抜かれる感覚があった。確かに昨日飲んだはずのビールの、喉を焼く苦味と微かな甘みが、綺麗に消え去っていた。思い出そうとしても、白い霧がかかったように何も浮かんでこない。その代わりに、手元には湯気の立つ木の椀が現れていた。

蓮は、そのスープを震える手で口に運んだ。それは、今まで味わったことのないほど滋味深く、疲れた体に染み渡った。しかし、彼の心は温まるどころか、急速に冷えていくのを感じていた。失われた記憶の空白が、胃の腑のあたりに、ぽっかりと空いた穴のように感じられた。この世界で生きることは、自分自身を少しずつ切り売りしていくことなのだと、彼は悟った。

第二章 空白の肖像

蓮は、アムネシアで写真家になった。

記憶を売ることに慣れるのに、時間はかからなかった。小学校の運動会の記憶で、光を魔法のように操る撮影技術を。好きだったアニメの最終回の記憶で、被写体の感情を最大限に引き出す表情の捉え方を。彼は次々と記憶を差し出し、代わりに、現実世界では決して手に入れられなかったであろう卓越した技術を獲得していった。

アムネシアの世界は、被写体としてこの上なく魅力的だった。空には二つの月が浮かび、一つは翡翠色に、もう一つは柘榴色に輝く。森の木々はガラス細工のように陽光を乱反射させ、街を流れる川の水は、まるで溶かした水晶のようだった。蓮は夢中でシャッターを切った。彼の撮る写真は、記憶商人を介してアムネシアの住人たちに高値で売れた。その対価として、彼はさらに高度な知識や、高性能な機材を手に入れた。

彼は、失われた記憶の痛みから目を背けるように、撮影に没頭した。初恋の少女の顔を忘れた。友人たちと交わした馬鹿話の数々を忘れた。家族旅行で見た海の匂いを忘れた。彼の内面は、まるで虫食いだらけの古い書物のように、あちこちが抜け落ちていった。それでも、目の前に積み上がる傑作の数々が、その喪失感を麻痺させてくれた。これは必要な犠牲なのだ、と彼は自分に言い聞かせた。

ある霧の深い朝、蓮は撮影のために「嘆きの谷」と呼ばれる場所を訪れた。そこには、表情というものが抜け落ちたような人々が、ただ静かに佇んでいた。彼らは誰と話すでもなく、何をするでもなく、まるで風景の一部のようにそこにいた。

「彼らは『空白者(ヴォイド)』だ」

いつの間にか背後に立っていた記憶商人が、静かに言った。

「記憶を……売りすぎた者たちの、成れの果てだ。自分を形作る記憶をすべて手放し、何者でもなくなった存在。感情も、意志も、目的も、すべてを失った」

蓮はカメラを構えたまま、凍りついた。空白者の一人が、ふと彼の方に顔を向けた。その瞳は、何も映していないガラス玉のように空虚だった。その瞳の奥に、蓮は自分の未来の姿を垣間見た気がした。背筋を、氷の指がなぞるような悪寒が走る。傑作を生み出すたびに、自分はこの空っぽの肖倣に近づいている。その抗いがたい事実に、蓮は初めて、心の底からの恐怖を覚えた。

第三章 魂のレンズ

恐怖は、蓮の創作意欲をさらに駆り立てた。自分が空白者になる前に、後世に語り継がれるような、たった一枚の「究極の写真」を撮らなければならない。その強迫観念が、彼を再び記憶商人の元へと向かわせた。

「究極の写真を撮りたい。そのためなら、どんな対価でも払う」

蓮の覚悟に満ちた瞳を見て、老人は静かに頷いた。

「よかろう。それほどの傑作を望むなら、それに見合うレンズが必要だ。『真実を写すレンズ』。世界の理さえも捉えることができる、至高の逸品だ」

「それをくれ。対価は?」

老人はカウンターの奥から、一つの小さな木箱を取り出した。埃をかぶったその箱からは、計り知れないほどの圧が放たれている。

「対価は、君が持つ最も価値のある記憶。君が、君であるための、始まりの記憶だ」

「……始まりの記憶?」

「そう。君が、初めてカメラを手にし、写真家になろうと決意した、あの日の記憶だよ」

その言葉に、蓮の世界から音が消えた。

彼の脳裏に、禁じられた宝物のように大切にしまい込んできた光景が蘇る。病床にいた祖父。細く皺だらけの手で、古いフィルムカメラを彼に手渡してくれた。「蓮。世界はな、お前が思っているよりもずっと美しいんだ。この四角い窓で、その美しさを切り取ってごらん」。その言葉が、蓮の世界を色鮮やかに変えた。窓から差し込む光の筋、雨上がりの葉先に光る雫、笑う家族の顔。すべてが愛おしく、撮るべきものに見えた。あの日の感動が、あの祖父の温かい眼差しが、水島蓮という人間の核であり、魂そのものだった。

それを、手放せというのか。

「……なぜだ。なぜ、そこまでして記憶を集める? 集めた記憶は、どこへ行くんだ?」

絞り出すような蓮の問いに、老人は初めて、悲しげな笑みを浮かべた。

「どこへも行かんよ。この世界そのものになるのだから」

老人は、店の外を指さした。翡翠色と柘榴色の二つの月が浮かぶ、幻想的な空を。

「このアムネシアは、我々のような『迷い人』が差し出した記憶の欠片でできている。誰かの初恋の甘さが、あの夕焼けの色となり、誰かの冒険の興奮が、あの山の頂きを形作り、誰かの悲しみが、この地に降る雨となる。我々は、自らの過去を喰らい、その上に立って生きているのだよ」

衝撃の事実に、蓮は言葉を失った。この美しい世界は、誰かの失われた思い出でできた、巨大なモザイクアートだったのだ。

「では、空白者たちは……」

「そう。すべての記憶を世界に還し、自らもまた、この世界の風景の一部になった者たちだ。彼らは消えたのではない。空に、大地に、風に、溶けていったのだ」

蓮は戦慄した。究極の芸術か、自己の魂か。その天秤は、あまりにも残酷だった。祖父との記憶を差し出せば、最高の写真家になれる。だが、その時、自分はもう、写真を撮る意味さえ忘れてしまった抜け殻になっているだろう。

第四章 アムネシアのレクイエム

長い沈黙の末、蓮はゆっくりと首を横に振った。

「……レンズは、いらない」

その声は驚くほど穏やかだった。記憶商人は何も言わず、ただ静かに彼の選択を見つめている。

「俺は、写真家だ。何を撮るかじゃない。なぜ撮るかが、大事なんだ。その理由を失ってまで撮った写真に、魂が宿るはずがない」

彼は、老人に深々と頭を下げた。そして、アトリエ(かつては自分の部屋だった場所)に戻ると、これまで撮りためた数々の傑作を、一枚一枚、暖炉の火にくべていった。ガラス細工の森も、水晶の川も、二つの月が照らす街も、すべてが燃え、灰になっていく。それは、彼が記憶と引き換えに手に入れた虚構の栄光との決別だった。

すべてが燃え尽きた後、彼はたった一枚だけ残しておいたフィルムを、古びたカメラに装填した。それは、祖父の形見のカメラ。アムネシアに来る前から持っていた、唯一の私物だった。

彼はアトリエの窓を開け放つ。

レンズが向けられたのは、特定の美しい風景ではなかった。

ただ、そこに広がるアムネシアの世界そのものだった。

彼は目を閉じた。失った記憶の断片を、心の奥底から手繰り寄せる。忘れてしまった友の笑い声が風の音に聞こえた。忘れてしまった初恋の胸の高鳴りが、夕焼けの淡い光の中に感じられた。忘れてしまった家族との温もりが、大地を包む空気の匂いになった。

彼が売ってきた記憶のすべてが、この世界のどこかに溶け込んでいる。ならば、この世界を撮ることは、彼が失ったすべての過去を、もう一度抱きしめる行為に他ならなかった。

祖父の言葉が蘇る。『世界は、お前が思っているよりもずっと美しい』。

そうだ、じいちゃん。美しいよ。たとえそれが、誰かの悲しみや痛みでできていたとしても。

蓮は、静かにシャッターを切った。

カシャッ、という乾いた音が響いた瞬間、彼の体は足元からゆっくりと光の粒子に変わり始めた。意識が薄れ、輪郭が曖昧になっていく。彼は、自分が空白者になり、この世界の風景に溶け込んでいくのだと理解した。だが、不思議と恐怖はなかった。

彼の指から滑り落ちたカメラの隣に、一枚の写真が、はらりと現像される。

そこには、何も特別なものは写っていなかった。ただ、名もなき空と大地が広がっているだけだ。

しかし、その写真を見る者は、なぜか胸の奥が締め付けられるような、切ないほどの懐かしさを覚えるという。まるで、忘れていたはずの最も大切な何かを、不意に思い出させてくれるかのように。

水島蓮という写真家は、アムネシアから消えた。しかし、彼が魂と引き換えに遺した最後の一枚は、失われた記憶たちへの鎮魂歌(レクイエム)として、そして、すべてを失ってもなお遺せるものが確かにあるという証として、その世界に永遠に残り続けた。それは、後に来る迷い人たちに、静かに問いかけるだろう。あなたは何を失い、そして、何を遺しますか、と。

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