第一章 不可逆の足跡
風が刃のように頬を削ぐ。リヒトは、幅一メートルにも満たない、切り立った崖に続く一本道に佇んでいた。眼下には雲海が渦を巻き、世界の底が抜け落ちたかのような錯覚を覚える。一歩踏み誤れば、奈落へ。しかし、彼が真に恐れるのは落下ではなかった。
「……リヒト!」
背後から、風に乗って懐かしい声が届いた。幻聴だろうか。いや、あまりにも鮮明な、幼い妹の声。振り返りたい。その声の主を確かめたい。衝動が背骨を駆け上がり、リヒトは無意識に踵を返そうとした。
その瞬間、彼の身体は石と化した。首から爪先まで、見えない鋼鉄の枷で締め上げられたかのように硬直し、ぴくりとも動かない。息が詰まり、心臓が肋骨を激しく打つ。できるのは、荒い息を吐きながら、ただ前を見つめることだけ。
「後退できない」。
それが、リヒトに課せられた呪いだった。物心ついた頃から、彼の身体は前進以外のベクトルを拒絶した。振り返ることも、後ずさることも、来た道を引き返すことも許されない。彼の人生は、一方通行の線路を走り続ける列車のようなものだった。一度下した決断、一度通り過ぎた風景は、二度と彼の前に現れることはない。
だから、彼の旅は常に選択の連続であり、そのすべてが取り返しのつかないものだった。分かれ道があれば、どちらかを選んだ瞬間、もう一方の道は永遠に失われる。眠る時でさえ、進行方向に対して頭を向けなければ、悪夢と金縛りに苛まれた。彼の足跡は、決して振り返られることのない、一方通行の歴史そのものだった。
声はもう聞こえない。風の唸りが、嘲笑うかのように耳元を通り過ぎていく。リヒトは固く拳を握りしめ、強張った筋肉を無理やり動かして、再び前へと足を踏み出した。一歩、また一歩と。その足取りは、まるで自ら進んで罰を受けに行く罪人のようだった。
彼の目的は、世界の果てにあると伝わる「時の泉」。あらゆる時間と因果を洗い流し、呪いを解く力を持つという伝説の場所。それが唯一の希望だった。この不可逆の旅路に終止符を打ち、もう一度、自由に世界を見渡すために。失われた過去を取り戻すために。リヒトは、その泉だけを目指し、今日もただひたすらに、前へ、前へと進み続ける。崖道に刻まれる彼の足跡は、誰に顧みられることもなく、風に削られて消えていった。
第二章 響かない木霊
幾多の山を越え、乾いた谷を渡り、リヒトは「無響の谷」と呼ばれる場所にたどり着いた。そこは、奇妙な静寂に支配された場所だった。鳥の声も、風の音も、自分の足音さえも、まるで分厚いビロードに吸い込まれるかのように、反響することなく消えていく。声を張り上げても、木霊は返らない。音が一方向にしか進まない、彼の呪いそのものを体現したような谷だった。
不気味なほどの静けさの中、道は緩やかな下り坂になっていた。岩肌は黒く湿り、苔が絨毯のようにびっしりと生えている。音を吸収しているのは、この苔なのだろうか。リヒトは、ここを通り抜ければ、目的地である「時の泉」にまた一歩近づくと信じ、慎重に歩を進めた。
その時、道の先、巨大な岩に腰掛けた老婆の姿が目に入った。皺だらけの顔に、すべてを見透かすような深い瞳。リヒトが近づいても、老婆は全く動じる様子がない。
「また一人、前しか見えぬ旅人が来たのかい」
老婆の声は、この谷の法則に反して、不思議とリヒトの耳に明瞭に届いた。まるで心に直接語りかけてくるようだ。
「時の泉へ行くのだろう。誰もがそうじゃ。過去をやり直したい、過ちを消したいと願ってな」
リヒトは警戒し、足を止めた。老婆はゆっくりと顔を上げる。
「あんたのその呪いは、随分と業が深いね。一歩も退けないとは」
「……何が言いたい」リヒトは低く応じた。
「前だけを見つめるのは、本当に楽かい?」老婆は問いかける。「ひたすら前に進むことで、何かから逃げているんじゃないのかい。本当に見つめなければならない、恐ろしい何かから」
その言葉は、リヒトの心の最も柔らかな部分を抉った。図星だった。彼はいつだって、何かから逃げていた。思い出したくもない過去の残像から。背後から聞こえる幻聴から。
「老婆の戯言だ」リヒトは吐き捨て、老婆の横を通り過ぎようとした。
「振り返れないのではない。振り返らないと決めたのじゃよ、あんた自身が」
老婆の最後の言葉が、楔のようにリヒトの胸に突き刺さった。彼は足を止めなかった。止まれなかった。しかし、その言葉は、この谷の音と同じように、彼の内側で反響することなく、深く、深く沈んでいった。無響の谷を抜ける頃には、彼の心には、これまで感じたことのない微かな疑念のさざ波が立っていた。自分を縛るこの枷は、本当に外から与えられた呪いなのだろうか、と。
第三章 時の泉の真実
無響の谷を抜けた先に、最後の試練のようにそびえ立つ水晶の山があった。滑りやすい氷壁を、後退できないという決死の覚悟で登りきった時、リヒトの眼前に信じがたい光景が広がった。
そこは、泉ではなかった。
広大な洞窟の天井から、無数の細い光の糸が垂れ下がり、その一つ一つの先端に、星屑のように輝く砂時計が吊るされていた。砂は絶えず流れ落ち、落ちきると砂時計はくるりと反転し、また新たな時を刻み始める。サラサラという微かな音の集合体が、荘厳な交響曲のように空間を満たしていた。ここが「時の泉」。それは液体ではなく、時間の流れそのものが可視化された聖域だった。
リヒトは呆然と立ち尽くす。そして、洞窟の中央に、一枚の巨大な鏡が静かに置かれていることに気づいた。水面のように滑らかなその鏡に、自分の姿が映っている。だが、それは今の彼ではない。旅で疲れ果てた青年ではなく、まだ幼く、無邪気な笑顔を浮かべた少年だった。
鏡に吸い寄せられるように近づくと、風景が歪んだ。
そこは、故郷の村を見下ろす、日当たりの良い崖の上だった。幼い彼と、その手を引く妹のアルマの姿が映し出される。
「リヒト、見て!あそこに綺麗な花が!」
アルマが指さす先、崖の縁ギリギリに、一輪の青い花が咲いていた。
「危ないよ、アルマ」
彼が止めるのも聞かず、アルマは花に手を伸ばす。その瞬間、足元の土が崩れ、彼女の小さな身体が宙に投げ出された。
「……助けて!」
崖の縁に、かろうじて片手でぶら下がるアルマ。必死に兄の名を呼ぶ。
幼いリヒトは、恐怖に凍りついていた。妹の落ちていく姿が、スローモーションのように目に焼き付く。助けなければ。手を伸ばさなければ。しかし、足が地面に縫い付けられたように動かない。もし自分が落ちたら?死の恐怖が、彼を支配した。
「いやだ……!」
彼は、助けを求める妹から、目を逸らした。
そして、背を向け、ただひたすらに、前に向かって走り出した。
背後で、アルマの最後の悲鳴と、何かが落下する鈍い音が響いた。彼は耳を塞ぎ、涙でぐしゃぐしゃになりながら、走り続けた。
――もう、二度と後ろは振り返らない。
――過去なんて、見ない。
鏡の前で、リヒトは膝から崩れ落ちた。嗚咽が漏れる。
呪いなどではなかった。あれは、誓いだったのだ。耐え難い罪悪感から逃れるため、過去を封印するために、彼自身が自らに課した、強烈な自己暗示。魂の防衛本能。「後退できない」身体は、振り返ることから逃げ続けた、彼の心の悲鳴そのものだったのだ。
時の泉は、呪いを解く場所ではなかった。忘れていた真実と、目を逸らし続けてきた自分自身と、向き合わせるための場所だった。無数の砂時計が刻む時の中で、リヒトは、十数年ぶりに自分の罪と対峙していた。
第四章 最初の一歩
鏡の中の光景は、まだ終わらない。助けを求めるアルマの小さな手が、何度も何度も、こちらに伸ばされる。その瞳は、絶望と、そしてわずかな信頼を湛えて、兄であるリヒトを捉えていた。
「ごめん……ごめん、アルマ……」
リヒトの頬を、熱い涙が止めどなく伝う。これまで抑え込んできたすべての感情が、堰を切ったように溢れ出した。恐怖、後悔、そして妹への途方もない愛情。彼は逃げていた。妹を見捨てたという事実からだけでなく、彼女をどれほど大切に思っていたかという記憶そのものからも。
彼はゆっくりと立ち上がった。震える足で、鏡の前に立つ。
振り返らなければ。
過去に向き合わなければ。
アルマの最後の瞬間から、目を逸らしてはならない。
それは、彼の人生で最も困難な挑戦だった。前進しか許されなかった身体に、真逆の動きを強いる。全身の細胞が抵抗し、見えない力が彼を前へと押し留めようとする。だが、彼の意志は、もはや過去の誓いには縛られていなかった。
「アルマ」
彼は、鏡の中の妹に向かって、はっきりとその名を呼んだ。そして、心の中で、ずっと言えなかった言葉を紡ぐ。
『怖かったんだ。でも、君を助けるべきだった。本当に、ごめんなさい』
その瞬間、パリン、と何かが砕け散る音がした。それは物理的な音ではなく、魂の枷が砕ける音だった。彼の身体を縛り付けていた強張りが、ふっと解けていく。
リヒトは、深く、深く息を吸った。そして、ゆっくりと、何十年もの時をかけるように、右足の踵を軸にして、身体の向きを変え始めた。ギシギシと音を立てる錆びついた機械のように、彼の身体は180度回転する。
そして、彼は、左足を、静かに後ろへと踏み出した。
たった一歩。
しかしそれは、彼が生まれてから初めて踏み出した「後退」であり、何光年もの距離を進むよりも価値のある、奇跡の一歩だった。
その一歩を踏み出した瞬間、目の前にあった巨大な鏡も、無数の砂時計も、洞窟そのものも、陽炎のように掻き消えた。彼は、ただ広大な荒野の真ん中に、一人で立っていた。時の泉など、最初からどこにもなかったのかもしれない。
吹き抜ける風が、先ほどまでとは違う、どこか優しい響きを持っているように感じられた。彼はもう一度、今度は何の抵抗もなく、後ろを振り返る。そこには、彼が歩いてきた果てしない道が続いているだけだった。
旅は、まだ終わらない。しかし、もう逃避の旅ではない。一度きりの選択に怯える必要も、過去の幻聴に苛まれることもない。彼はこれから、自由に道を選び、時には立ち止まり、そして、時には過去を振り返りながら、未来へと歩いていくのだろう。
空を見上げると、雲間から射す光が、まるで祝福のように彼の顔を照らしていた。それは、彼の魂(アルマ)が、ようやく本当の冒険を始めるための、最初の一歩だった。