第一章 笑わない男と測定不能の女
真面目一徹(まじめいってつ)の世界は、数字と色で構成されていた。
市役所の統計課に勤める彼の目には、生まれつき、他人の「笑い」がオーラの色と具体的な数値になって見えた。けたたましく笑う上司の頭上には、濁ったオレンジ色のオーラと共に『87ワライ』という数値が明滅し、同僚がSNSの猫動画を見てくすりと漏らせば、淡い黄緑色の『15ワライ』がふわりと浮かぶ。
一徹にとって、笑いとは非合理的で非生産的な生体反応に過ぎなかった。感情の起伏というノイズが、なぜこれほどまでに人間社会に蔓延しているのか、理解に苦しむ現象だった。彼は日々、観測したワライ値を手帳に記録し、発生状況、持続時間、刺激源(トリガー)を冷静に分析するのを日課としていた。無論、彼自身はその感情を経験したことがなく、彼のワライ値は常に揺るぎない『0』だった。
そんな彼に、青天の霹靂と言うべき辞令が下ったのは、梅雨入り間近の月曜日のことだった。「市民スマイル向上プロジェクト、責任者に任命する」。市長の言葉に、一徹は眉一つ動かさずに反論した。
「市長。私は統計課の職員です。専門外です」
「だからこそだよ、真面目君」市長はにこやかに、しかし有無を言わせぬ圧力で続けた。「君のその驚異的な分析能力で、市民の幸福度、つまり『笑顔』を数値化し、向上させるのだ。これ以上の適任者はいないじゃないか」
かくして、一徹は不本意極まりないプロジェクトの責任者となり、彼の日常という名の静謐な方程式は、未知の変数を掛け合わされたかのように乱れ始めた。
そして、その最も厄介な変数こそ、プロジェクトのパートナーとして紹介された女、天野ヒカリだった。
寂れた公園の隅で、彼女は時代錯誤なシルクハットを被り、子供たち相手にパントマイムを披露していた。だが、その動きはぎこちなく、オチはことごとく空を切る。子供たちは飽きて砂遊びを始め、鳩だけが彼女の足元で首を傾げていた。
一徹の目には、彼女の頭上に浮かぶ数値がはっきりと見えた。観客である子供たちの値も、もちろん彼女自身の値も、寸分の狂いなく『0ワライ』。完全なる無風状態だった。
「どうも、天野ヒカリです! 人を笑わせるのが生きがいです!」
彼女は汗を拭いながら、太陽のように屈託なく笑った。その笑顔にすら、ワライ値は一切発生していなかった。一徹は手帳を開き、冷ややかにペンを走らせた。
『被験体名:天野ヒカリ。ワライ値、観測史上最低のゼロを継続。要改善対象として極めて興味深いサンプルである』
第二章 ワライ値向上のための統計的アプローチ
プロジェクトは、一徹の分析とヒカリの実践という形で進められた。それは、芸術と科学の、最も不幸なマリアージュだった。
「天野さん。昨日のパフォーマンスだが、ボケからツッコミへの移行時間が平均値より0.3秒遅い。これでは観客の期待値が減衰し、カタルシスとしての笑いが誘発されない」
「え、ええと……つまり、もっと早く?」
「違う。重要なのは緩急だ。期待値を最大化する最適点は、統計上2.7秒。君は3.0秒だ」
一徹は、お笑いライブのビデオをコマ送りで見せながら、グラフや数式がびっしりと書き込まれたレポートをヒカリに突きつけた。彼の分析は恐ろしく的確だった。人気芸人の間、視線の動き、声のトーンの変化、その全てが一徹によってデータ化され、成功法則としてヒカリに提示された。
ヒカリは、その無機質な指導に戸惑いながらも、藁にもすがる思いで食らいついた。彼女のポケットには、くしゃくしゃになったオーディションの不合格通知が何枚も入っていた。
二人は、様々な「笑い」の現場を訪れた。寄席では、落語家の巧みな話芸が生み出す、深みのある藍色の『120ワライ』を観測した。コメディ映画では、観客たちが一体となって放つ、鮮やかな虹色の『98ワライ』の波に飲まれた。
一徹は、その度に膨大なデータを収集し、完璧な笑いの方程式を構築しようと躍起になった。しかし、彼は気づかなかった。隣に座るヒカリが、ただ純粋に物語に笑い、涙ぐんでいることに。
「すごいなあ……」ヒカリが感嘆の息を漏らす。「みんな、本当に楽しそう」
「単なる刺激に対する反応だ。アドレナリンとドーパミンの分泌による一時的な高揚状態に過ぎん」
一徹の冷たい言葉に、ヒカリは少し寂しそうに微笑んだ。
「一徹さんは、どうして笑わないんですか?」
「必要性を感じないからだ。非効率的で、時間の無駄だ」
「そっか……」ヒカリは俯き、小さな声で続けた。「でも、誰かが笑ってくれるのって、太陽の光を浴びるみたいに、心がポカポカするんですよ。一徹さんには、分からないかな……」
その言葉は、一徹の完璧に整頓された心の書庫に、一冊だけ逆さまに差し込まれた本のように、奇妙な違和感となって残り続けた。ポカポカする、とは一体どのような状態を指すのか。彼のデータベースには、該当する定義が存在しなかった。
第三章 規格外エラーと最初の微笑み
プロジェクトの集大成として、市民会館で「おおぞら市スマイルフェスティバル」が開催されることになった。メインステージの幕間に、ヒカリのパフォーマンスタイムが設けられた。彼女にとって、これまでで最大の舞台だった。
楽屋のモニターで客席を監視していた一徹の目には、様々な期待値を示すオーラが映っていた。平均ワライ期待値は『45』。ヒカリの最近の路上パフォーマンスでの最高値は『28ワライ』。成功確率は、彼の計算によれば41.2%。決して高くはない。
出番が近づくにつれ、ヒカリの顔は青ざめていった。手は小刻みに震え、呼吸は浅くなっている。
「だめ……やっぱり、私には無理かも……」
舞台袖でうずくまるヒカリに、一徹はいつものように冷静に告げた。
「問題ない。練習通りにやれば、失敗の公算は低い。統計的には――」
「数字じゃないんです!」ヒカリは叫んだ。「怖いんです! また、誰も笑ってくれなかったらって思うと、足がすくんで……」
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、一徹の中で何かが音を立てて崩れた。彼の信奉してきた数字が、ロジックが、今まさに目の前で震えている一人の人間を救えない。データは無力だった。彼女が必要としているのは、分析結果ではない。
どうすれば。どうすれば、この震えを止められる?
思考がショートし、彼の脳は、これまでインプットしてきた膨大な「笑い」のデータを、無秩序に検索し始めた。落語家の仕草、漫才師の口調、コメディアンの表情。
そして、彼は動いた。
「て、天野さん」
一徹はぎこちなく片膝をつき、慣れない手つきでハンカチを差し出した。そして、お笑いライブで観たベテラン芸人のモノマネを、必死の形相で始めたのだ。
「ど、どうしたんでぇ、お嬢さん。そんなメソメソしてっと、せっかくの別嬪さんが台無しでげすぜ? へっへっへ」
それは、お世辞にも上手いとは言えない、不格好で、ちぐはぐなモノマネだった。声は裏返り、表情は引きつっている。しかし、そこには、完璧な理論を捨て、ただ目の前の誰かを助けたいという、剥き出しの必死さがあった。
ヒカリは、涙で濡れた顔を上げた。そして、一徹のその滑稽極まりない姿を見て、一瞬、きょとんとし、次の瞬間。
「ぶふっ……!」
こらえきれずに噴き出した。それは、小さな、しかし確かな笑い声だった。
その瞬間、一徹の世界が揺らいだ。
彼の目に、信じられない光景が映った。ヒカリの頭上から、これまで見たこともない、眩いばかりの黄金色のオーラが、滝のように迸ったのだ。そして、そこに浮かび上がった数値は――『測定不能:ERROR』。
彼のシステムが、初めて規格外の現象を捉えた。
そして、その黄金の光を浴び、ヒカリの屈託のない笑い声を聞いた、まさにその時。
一徹の口角が、彼の意志とは一切無関係に、ぐにゃり、と持ち上がった。頬の筋肉が奇妙に痙攣し、息が漏れる。ひ、と短い音を立てて。
それは、彼が生まれて初めて経験する感覚。
「笑い」だった。
第四章 非合理的で、素晴らしいもの
ヒカリのステージは、大成功とは言えなかった。いくつかのネタは滑り、観客の反応もまばらだった。最終的な平均ワライ値は、一徹の目標には遠く及ばない『32』。
だが、何かが違っていた。失敗しても、ヒカリはステージの上で笑っていた。その心からの楽しそうな姿に、観客席からは冷笑ではなく、温かい眼差しと、くすくすという優しい笑いが返されていた。会場のオーラは、高い数値を記録した時のような派手さはないものの、一様に穏やかで優しいパステルカラーに染まっていた。
プロジェクトは、まずまずの評価で幕を閉じた。一徹は統計課の日常に戻り、ヒカリは公園でのパフォーマンスを続けている。
季節は巡り、秋になった。金木犀の甘い香りが漂う午後、一徹は公園のベンチに座り、少し離れた場所で子供たちを笑わせているヒカリを眺めていた。彼女のワライ値は、相変わらず高くはない。だが、彼女と子供たちの周りには、いつも太陽のような、温かい色のオーラが漂っていた。
一徹は、愛用の手帳を取り出した。しかし、そこに数値を書き込むことはなかった。代わりに、おぼつかない手つきで、一本のシャープペンシルで絵を描き始める。シルクハットを被って、おどけてみせるヒカリの似顔絵。そして、その絵の隅に、小さく、はにかんだような自分の笑顔を描き足した。
彼は手帳を閉じ、空を見上げた。茜色の夕日が、高層ビルのガラス窓に反射して、世界を燃えるようなオレンジ色に染めている。
そのありふれた光景が、なぜだろう。無性に可笑しく、そして、どうしようもなく愛おしく思えた。
彼の口元に、ごく自然な、穏やかな笑みが浮かんだ。
それは数値では測れない。誰かに見せるためでもない。ただ、心の奥からじんわりと湧き上がってくる、静かで満たされた感覚。ヒカリの言っていた「ポカポカする」という感覚の意味が、今なら少しだけ分かる気がした。
「笑いとは、非合理的で、非生産的で、そして……」
一徹は、独りごちた。
「どうしようもなく、素晴らしいものだ」
彼はベンチから立ち上がり、ゆっくりと家路につく。彼の目に映る世界は、以前よりもずっとカラフルで、優しく、そしてほんの少しだけ、滑稽に見えた。