痕跡のレクイエム

痕跡のレクイエム

1 3825 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

第一章 色褪せた残像

俺、カイの眼には、世界が光の残像で満ちている。あらゆる物体が放つ『存在の痕跡』だ。道端の石ころ一つにも、悠久の時を経てここにあるまでの軌跡が、淡い光の筋となって絡みついている。いつ、どこで生まれ、誰に蹴られ、雨に打たれ、そして今ここに在るのか。その全てが、俺には視える。それはまるで、時間が織りなす巨大なタペストリーのようだ。

この世界では、時間は『物質の記憶』として物理的に存在する。人々は、日々の出来事や感情を自身の身体に深く刻み込むことで、その存在を世界に定着させている。それを怠った者は、徐々に身体が透け、輪郭が曖昧になり、やがて誰からも忘れ去られて消滅する。だから人々は必死に記憶し、語り継ぎ、愛し合う。消え去らないために。

俺は、他人の、そしてモノの過去はどこまでも遡って視ることができるのに、ただ一つ、自分自身の痕跡だけが視えない。まるで鏡に映らない吸血鬼のように、俺の過去は完全な空白だ。その事実が、得体の知れない虚無感となって、常に胸の奥に冷たく澱んでいた。

今日も、いつものように大広場の石畳に腰を下ろし、その痕跡を眺めていた。何百年も前に職人が一つ一つ敷き詰めた槌の跡、恋人たちの囁き、革命家が撒いたビラのインクの染み。幾重にも重なる光の層が、歴史の深さを物語っている。だが、最近どうも世界の様子がおかしい。広場の中心に聳え立っていたはずの『賢者の塔』の痕跡が、日に日に薄らいでいるのだ。かつては空を穿つほどの強い光を放っていたその軌跡が、今はまるで陽炎のように揺らぎ、今にも掻き消えそうだった。人々も、塔の話をする時、どこか自信なさげに言葉を濁すようになっていた。まるで、大切な記憶が指の間から零れ落ちていくのを、なすすべなく見ているかのように。

第二章 忘却の足音

これは単なる時間の経過による風化ではない。何者かによる、意図的な忘却の強制だ。確信に近い疑念が、俺の心を黒く塗りつぶしていく。

市立図書館の古文書室に足を運んだ。ひんやりとした空気と、乾いた紙の匂いが鼻をつく。俺は『賢者の塔』に関する文献を探し当て、震える指でそのページを捲った。そこにあるはずの精緻なスケッチや建立の記録は、まるで酸で焼かれたかのように、不自然な空白となって抜け落ちていた。文字の痕跡すら、途中でぷっつりと断絶している。まるで、「最初から存在しなかった」と世界が強弁しているかのようだった。

図書館を出ると、空は鉛色に曇っていた。不安は伝染する。他のランドマークはどうだ? 俺は街中を駆け巡った。かつて英雄の像が立っていた台座、街の創建を記念した凱旋門、それらの『存在の痕跡』もまた、例外なく希薄になっていた。人々の記憶からも、その存在は急速に失われつつある。

その夜、自室の鏡に映る自分の姿を見て、俺は息を呑んだ。左手の指先が、ほんのわずかに透けている。これまで感じていた微かな予感が、確かな恐怖として実体化した瞬間だった。見えないはずの俺自身の過去もまた、何者かに侵食され、消されようとしている。自分の存在が、この世界から根こそぎ引き抜かれようとしているような、途方もない喪失感が全身を襲った。

第三章 時の保管庫

手掛かりを求め、俺は都市伝説として語られる場所へと向かった。街の最下層、忘れられた地下水道の奥にあるという『時の保管庫』。そこには、この世界の時間を司る遺物が眠っているという。

湿った壁を伝い、苔の匂いが満ちる通路を進む。やがて、広大な空間に出た。ドーム状の天井から差し込む月光が、中央に安置された巨大なオブジェを照らし出していた。

『刻まれた砂時計』だ。

高さは俺の背丈ほどもあるだろうか。ガラスの内部で輝く砂は、黄金でも水晶でもない。それは、失われた物質の『存在の痕跡』そのものだった。消えた賢者の塔の青白い光、英雄像のブロンズ色の輝き。それらが無数の粒子となり、くびれた部分を静かに、しかし絶え間なく流れ落ちていた。この砂がすべて落ちきった時、世界に蓄積された全ての『時間の記憶』がリセットされるという。完全な無への回帰。

俺は砂時計に近づき、そのガラスにそっと触れた。ひんやりとした感触。その時、背後に人の気配を感じた。振り返ると、闇の中に一人の男が立っていた。月光がその横顔を朧げに照らす。深く刻まれた皺、疲労と諦念を宿した瞳。そして何より、俺を戦慄させたのは、その顔立ちだった。それは、紛れもなく、歳を重ねた俺自身の顔だった。

第四章 未来という名の亡霊

「誰だ、お前は」

声が震えた。男はゆっくりとこちらを向き、その全貌を光の中に晒した。

「俺は、お前だ」

その声は、俺の声よりも低く、乾いていた。まるで長い旅路の果てに、声を出すことさえ億劫になったかのような響きだった。

「未来から来た、お前自身だ」

男――未来の俺は、自らを『修復者』と名乗った。彼が語る未来は、絶望に満ちていた。我々の世界は、あまりにも多くの『時間の記憶』を蓄積しすぎた。人々の喜び、悲しみ、歴史の栄枯盛衰。その全てが世界に重くのしかかり、時間軸そのものが自重に耐えきれず、崩壊を始めようとしているのだという。

「だから、俺は来た。世界を救うために」

「救うだと? 存在を消すことがか?」俺は叫んだ。

「そうだ。重すぎる記憶を過去から消し去り、時間軸を軽量化する。それが唯一の方法だ」

賢者の塔も、英雄の像も、全ては未来の俺が、世界の崩壊を食い止めるために消したのだ。彼は、まるで不要な枝を剪定する庭師のように、淡々と、冷徹に語った。

「感傷は世界を滅ぼす。一つの塔の記憶が、未来の数億の命より重いとでも言うのか」

彼の瞳は、もはや何の感情も映していなかった。あまりに多くのものを消しすぎたせいで、彼自身の心もまた、摩耗しきっているように見えた。

そして、彼は俺を真っ直ぐに見据え、決定的な一言を告げた。

「そして今、俺が消すべき最も重い記憶――それが、お前だ、カイ。お前の存在そのものが、この時間軸における特異点となっている」

第五章 二つの孤独

彼の言葉は、冷たい刃となって俺の胸を貫いた。俺の存在が、世界を脅かす元凶だというのか。

「お前のその能力が、過去の記憶を不必要に世界に固着させている。お前という観測者がいる限り、記憶は風化せず、世界は重くなる一方だ」

未来の俺は、静かに『刻まれた砂時計』を指した。流れ落ちる光の砂は、もう上部に残り少なくなっている。

「あの砂が落ちきれば、世界は無に帰る。だが、方法が一つだけある」

彼は続けた。

「俺たち――過去のお前と未来の俺、どちらかの存在が完全に消滅すれば、その莫大な存在質量が時間に変換され、砂時計の砂を逆流させることができる。世界に、新たな猶予が生まれる」

どちらかが、消える。

未来の俺を消せば、俺は生き残れる。だが、彼が警告した未来の崩壊は、いずれ避けられない運命として訪れるだろう。

俺が消えれば、世界は一時的に救われるのかもしれない。しかし、俺が愛したこの世界の風景も、人々の温もりも、これから紡がれるはずだった物語も、俺の中から永遠に失われる。

二人のカイが、静寂の中で対峙する。同じ顔、同じ魂を持ちながら、全く異なる時間を生きてきた二つの孤独。彼の瞳の奥に、俺は見た。彼が消してきた無数の記憶に対する、拭い去れない悲しみの残像を。彼は決して、冷酷な破壊者などではなかった。誰よりも世界を愛するが故に、全てを犠牲にすることを決意した、ただ一人の絶望的な救済者だった。

第六章 砂時計の夜明け

選択の時は、来た。俺はゆっくりと未来の自分に歩み寄った。彼は身構えるでもなく、ただ静かに俺を見つめている。

「君は…」俺は口を開いた。「あまりに多くのものを、一人で背負いすぎたんだ」

俺は彼を消さない。彼に自分を消させもしない。

俺は、未来の俺の手を取った。驚きに見開かれる彼の瞳。その手を引き、共に『刻まれた砂時計』へと歩み寄る。

「一つの答えが間違いなら、新しい答えを作ればいい」

俺たちは、二人で砂時計の冷たいガラスに手を触れた。その瞬間、二人の身体から凄まじい光が迸る。過去のカイと未来のカイ、二つの存在が溶け合い、一つの巨大な光の奔流となって砂時計に吸い込まれていく。意識が薄れゆく中、俺は最後にこの世界の風景を心に焼き付けた。広場の石畳の温もり、人々の笑い声、空の青さ。

――ああ、これが、俺の『存在の痕跡』だったのか。

光が収まった時、保管庫にはもう誰の姿もなかった。だが、『刻まれた砂時計』は、その流れを完全に逆転させていた。下にあったはずの光の砂が、力強く上へと昇っていく。それはまるで、失われた時間が、新しい可能性となって世界に還っていくかのようだった。

世界から、カイという存在は消えた。しかし、彼が守ろうとした世界の温かい記憶は、人々の心にかすかな光の種として残された。

数日後。かつてカイがいつも座っていた大広場の石畳。その隙間から、今まで誰も見たことのない、小さな白い花が、朝日に向かってそっと芽吹いていた。それは、新しい時間の流れが生まれた、ささやかな証だった。

この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る