第一章 色褪せた市場
カイの瞳には、世界が奇妙な光の濃淡で満ちていた。市場に並ぶ果実には儚い蛍のような光が宿り、それを売る老婆の皺深い手には、今にも消えそうな蝋燭の灯火が揺れている。あらゆる物質、あらゆる生命が持つ『寿命』。彼にはそれが、数値ではなく、色と輝きを伴うオーラとして視えてしまうのだ。
「ほら、お前さんの分だよ」
パン屋の主人が、硬くなったパンを無造失に放る。そのパンに宿る光は、まるで燃え殻のようだった。カイがそれに触れると、指先から微かな熱が伝わる。彼はそのパンの残り少ない『時間』を数秒だけ消費し、冷え切った指先を温めた。パンは、その分だけ早く風化するだろう。これが彼の能力であり、呪いだった。他人と触れ合うことを避け、誰の未来も視ようとしない。それが、カイがこの色褪せゆく世界で生きるための、唯一の処世術だった。
この世界を動かす『時間の実(タイム・ポッド)』もまた、輝きを失いつつあった。かつては宝石のように煌めき、通貨として、そして生命の源として人々を満たしていたそれは、今や曇ったガラス玉のように色を失い、世界の黄昏を加速させている。
その日、市場の隅で埃っぽい壁に背を預けていたカイの前に、一人の少女が立った。リナと名乗る彼女は、この澱んだ世界には似つかわしくない、澄んだ瞳をしていた。
「あなたですね。刻を喰らう力を持つ方は」
彼女が差し出した掌の上には、小さな時間の実が一つ。それは、カイがここ数年見たこともないほど、鮮やかな翠色をしていた。その実から放たれる生命力に満ちた光は、カイの瞳を眩ませるほどだった。
「どうか、その力をお貸しください。この世界を救うために」
彼女の真っ直ぐな視線に、カイは初めて、自分の呪われた力が別の意味を持つ可能性を感じた。
第二章 時間樹への道
リナに導かれ、カイは世界の中心に聳え立つという『時間樹』を目指していた。道中、彼らは世界の悲鳴を目の当たりにする。建物は風化し、道端には時間が停止したかのように動きを止めた人々の姿があった。まるで世界そのものが、ゆっくりと過去へ逆行しているかのようだ。
深い渓谷に架かる古い吊り橋を渡ろうとした時、乾いた風が吹き、橋が軋む音が響いた。リナが息を呑む。橋を支える太い蔓に宿る寿命の光は、風前の灯火だった。
「待ってて」
カイはそう言うと、橋の袂にある巨大な岩に手を触れた。岩が内包する、気の遠くなるような悠久の『時間』。彼はその寿命を、ほんの一欠片だけ『消費』した。指先から奔流のように流れ込むエネルギーに、カイの身体が軋む。彼はその力を吊り橋の蔓へと注ぎ込んだ。すると、枯れかけていた蔓は瞬く間に青々とした若葉を芽吹かせ、橋全体が力強く脈動し始めた。
「すごい……」
リナが感嘆の声を漏らす。だがカイの表情は晴れない。岩の表面が僅かに砂のように崩れ落ちていくのが見えた。何かを生かすことは、何かを殺すことだ。その事実が、重く彼の肩にのしかかる。
「あなたの力は、破壊だけじゃない」橋を渡り終えた後、リナが言った。「何かを繋ぎ、未来を創るための力でもあるはずです」
彼女の言葉は、カイの心の奥深くに、小さな温かい光を灯した。
第三章 時間の砂時計
巨大な時間樹の麓は、荘厳な静寂に包まれていた。空気そのものが古の記憶を含んでいるかのように濃密で、カイは思わず息を詰める。リナは、蔦に覆われた古い神殿の扉を開いた。内部には、月の光が差し込み、祭壇の上に安置された一つの工芸品を照らし出していた。
『時間の砂時計』。
それは黒曜石の枠に嵌められた、水晶の砂時計だった。だが、その中に満ちているのは砂ではない。銀河のように煌めく、無数の光の粒子だった。
「これは、私たちの祖先が遺したものです。流れる光は過ぎ去った過去の記録。そして……」
リナはカイに砂時計を逆さにするよう促した。カイが恐る恐る手を伸ばし、砂時計をひっくり返す。すると、光の粒子が落ちる空間に、ぼんやりと映像が浮かび上がった。
灰色の空。枯れた大地。すべてが色を失い、風化し、崩れ落ちていく街並み。そして、完全に光を失った時間樹が、巨大な骸のように空を突いていた。絶望だけが支配する、死んだ未来のビジョン。
「これが……私たちの未来……」
カイは言葉を失った。未来を視た代償として、砂時計の中の光の粒子が数粒、ふっと消滅するのが見えた。過去の記録が、未来の可能性と引き換えに失われたのだ。このままでは、世界は確実に破滅へと向かっている。カイの胸を、これまで感じたことのない焦燥感が締め付けた。
第四章 未来の奪還者
絶望的な未来の映像が消えた、その瞬間だった。時間樹の幹の中心、最も光が弱まっている核の部分が脈動し、眩い光と共に一つの人影が姿を現した。それは実体を持たず、揺らめく光で構成された、神々しくも恐ろしい存在だった。
「『未来の奪還者』……!」
リナが震える声で呟いた。時間樹の未来を喰らい、この時代を枯渇させている元凶。
カイはリナを背に庇い、覚悟を決めた。彼は周囲の岩壁や、神殿に絡みつく太古の植物に次々と手を触れ、許容量を超えるほどの『寿命』を自らの肉体に注ぎ込んだ。全身の血管が熱く脈打ち、視界が赤く染まる。彼は人間を超えた速度で疾走し、光の人影に拳を叩き込んだ。
しかし、拳は空を切るように人影をすり抜ける。奪還者は攻撃に全く動じず、ただ静かにカイを見つめていた。そして、その光の腕を伸ばし、カイの額にそっと触れた。
抵抗は、できなかった。
触れた瞬間、カイの脳裏に、津波のような情報と感情が流れ込んできた。それはビジョンだった。遥か未来の光景。人々が時間の力を過信し、際限なく消費した結果、宇宙の法則そのものが歪み、全てが『無』に帰す大消失の瞬間。そして、その未来から、破滅を回避するためにたった一人、過去へ遡った巫女の姿。
この『未来の奪還者』の正体は、敵ではなかった。未来の破滅を防ぐため、この時代の過剰な『未来の可能性』――時間の実のエネルギー――を、大消失のトリガーとならないよう安全に回収し、保管していた、未来世界の最後の守護者だったのだ。
第五章 過去からの選択
カイの前に立つ光の人影は、穏やかな女性の声で語りかけた。それは、時空を超えたリナの遠い子孫の声だった。
『私たちは、未来で過ちを犯しました。時の恩恵を貪り尽くし、世界そのものの時間を喰らうに至ったのです。その結果が、全てを消滅させる大消失。それを防ぐ唯一の方法は、歴史の分岐点であるこの時代から、未来へ繋がる過剰なエネルギーを少しずつ回収し、時間の流れを緩やかにすることだけでした』
その行為が、この時代の時間の実を枯渇させていた。守護者は悲しげに続けた。
『このまま未来の回収を続ければ、この時代は緩やかに衰退し、滅びます。しかし、回収を止めれば、あなたたちの時代は一時的に潤うでしょう。ですがその先に待つのは、回避不可能な、全ての世界の完全な消滅です』
究極の選択だった。現在の緩やかな死か、未来の絶対的な破滅か。
カイは隣に立つリナを見た。彼女の瞳は恐怖に揺れていたが、その奥には、この時代に生きる人々への深い愛情と、それでも未来を諦めきれないという強い意志の光が宿っていた。
そうだ、どちらかを選ぶ必要などない。選んでしまえば、どちらかの未来を犠牲にすることになる。
カイは決意した。彼は、第三の道を創り出す。この手で。
第六章 時の種を蒔く者
「俺の力は、寿命を『消費』するだけじゃない。きっと、『変換』することもできるはずだ」
カイは、自らの能力の本当の意味を悟っていた。彼はゆっくりと歩み寄り、巨大な時間樹の核、光が最も弱まっている場所に、そっと両手を触れた。そして、自らの内なる『時間』――自身の寿命そのものに意識を集中させた。
彼の視界の端に映る、自分自身の生命の光。それはまだ、若く力強い輝きを放っていた。カイは、その光を燃焼させ始めた。彼の身体が内側から発光し、徐々に透き通っていく。生命の輝きが、黄金の奔流となって時間樹の核へと注ぎ込まれていく。それは、未来から奪うのでも、過去から借りるのでもなく、カイという一個の存在が持つ『現在』から創造される、全く新しい未来のエネルギーだった。
「カイさん!」
リナの悲痛な叫びが響く。だがカイは微笑んでいた。苦痛はなかった。むしろ、自分が初めて世界の一部となり、何かを創造しているという喜びに満たされていた。
枯れかけていた時間樹が、根から梢まで、眩い光を放ち始める。失われた色が戻り、世界中に散らばる時間の実が、一斉に輝きを取り戻す。それは、新しい『時間の種』が蒔かれた瞬間だった。
「これで、君たちの未来は……」
カイの身体は、ほとんど光の粒子となって掻き消えかけていた。
「君たちのものだ」
リナが伸ばした手は、彼の最後の温もりを掠め、空を切った。カイの存在は無数の光の粒となり、再生した時間樹に吸い込まれ、世界中に降り注いでいった。
数年後。世界はかつての活気を取り戻していた。市場には、子供たちの笑い声と、人々が交換する色鮮やかな時間の実の輝きが満ちている。時間樹の麓で、リナは新しく芽吹いた時間の実を、慈しむように育てていた。彼女が空を見上げると、風が優しく頬を撫で、陽光がきらめく。その全てに、彼女はカイの存在を感じていた。
彼が自らの命と引き換えに蒔いた未来は、確かに、ここに息づいていた。