影が僕を見ている

影が僕を見ている

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第一章 剥がれる影と震える僕

影が人間の本体であり、肉体は影の気まぐれに従うだけの容れ物。僕らの住む街シャッテンシュタットでは、それが世界の真理だった。地面に映る黒い輪郭こそが魂の形で、くっきりと濃く、威風堂々とした影を持つ者ほど尊敬され、富を得た。人々は影を飾り、磨き、その輪郭を誇示した。

僕、リヒトの影は、その真逆だった。臆病で、いつも小さく縮こまり、物音ひとつでびくりと震える。そんな頼りない影を持つ僕は、肉体までが卑屈に見えるらしく、街の人々からはいつも憐れみの視線を向けられていた。僕は自分の影が、心底嫌いだった。

その朝、異変は起こった。【冒頭のフック】として、それはあまりに静かで、だからこそ不気味だった。目を覚ますと、窓から差し込む朝日に照らされた街路で、人々の影が一斉にざわめいていたのだ。それは音のない喧騒だった。影たちが、まるで意思を持ったかのように身を捩り、輪郭を震わせ、落ち着きなく揺らめいている。アスファルトの上で、何千もの黒い炎が燃え盛っているかのようだった。僕の影だけが、その喧騒に加わらず、いつも以上に小さく丸まって、僕の足元でただ震えていた。

広場で最初の悲鳴が上がったのは、それから間もなくだった。街で最も尊敬されていた長老の、樫の木のように威厳のあった影が、ふいにその輪郭を失った。まるで水に滲むインクのように境界が曖昧になり、次の瞬間、ぱっと黒い塵になって風に霧散したのだ。影を失った長老の肉体は、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。

「影剥がれ」と呼ばれるその現象は、悪夢のように街を侵食し始めた。人々は恐慌に陥り、自分の影が消えぬよう、必死に地面に縫い付けようとした。高価な「影留めの軟膏」を塗りたくり、影を濃くするという眉唾な儀式に大金を払った。だが、剥がれる影は後を絶たず、街は抜け殻のような肉体と、残された者たちの絶望で満たされていった。

僕は、幼馴染のリーナのことが気がかりでならなかった。彼女の影は、まるで踊る柳のようにしなやかで優雅だったが、ここ数日、その輪郭が明らかに薄くなっている。彼女の笑顔から光が消え、肉体が影の衰弱に引きずられているのが痛いほどわかった。

「リヒト……私の影、大丈夫かな」

不安げに囁く彼女の足元で、柳の影は力なく揺れている。僕は何も言えず、ただ自分の足元で震える情けない影を隠すように、強く拳を握りしめることしかできなかった。この無力な自分が、そしてこの臆病な影が、腹の底から憎らしかった。

第二章 光喰らいの囁き

街から色彩が失われていくようだった。影を失う恐怖は、人々の心から余裕を奪い、シャッテンシュタットの活気ある石畳は、沈黙と猜疑心に覆われた。僕はリーナを救いたい一心で、禁書庫に指定されている市立図書館の地下へと忍び込んだ。埃と古紙の匂いが立ち込める薄闇の中、震えるランプの光を頼りに、僕は「影」に関する古代の文献を漁った。

何時間も経った頃、羊皮紙に書かれた一冊の古書に、僕は釘付けになった。それは「光喰らい」と呼ばれる、古の災厄に関する記述だった。

『光喰らいは闇より生まれ、影を糧とする。世界のすべての光を喰らい尽くし、絶対的な夜を現出させるために、まずその前触れとして影を啜る。影は光の欠片なれば、これを喰らうは光への冒涜なり。影剥がれは、その厄災の序曲である』

心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。これは、まさに今の街の状況そのものではないか。ページをめくると、震える文字でこう続けられていた。

『光喰らいに対抗しうるは、唯一つ。光から生まれた影にあらず、自らが光を放つ「真なる影」のみ。されど、それは太陽が地に落ちるに等しい、ありえぬ奇跡なり』

「真なる影」……。自らが光を放つ影だと? そんなものが存在するはずがない。影は光があって初めて生まれる存在だ。文献はまるで、矛盾そのものを語っているようだった。僕は絶望的な気持ちで本を閉じた。結局、僕にできることなど何もないのだ。

その夜、リーナの家を訪ねると、彼女はベッドに横たわっていた。彼女の影は、もはや蝋燭の炎のようにか細く、今にも消えそうに揺らめいていた。彼女の肉体もそれに呼応するように、浅い呼吸を繰り返している。

「リヒト……来てくれたのね」

か細い声で彼女は微笑んだ。その笑顔が、僕の胸をナイフのように抉った。

「僕が……僕が臆病だからだ。僕の影がしっかりしていれば、君を守れたかもしれないのに」

自己嫌悪が口をついて出た。するとリーナは、おぼつかない手つきで僕の手を握った。

「ううん……あなたの影、私は好きよ。いつも震えているけど……それは、とても優しくて、何かを必死に守ろうとしているように見えるから」

リーナの言葉が、僕の心に小さな、けれど確かな波紋を広げた。守ろうとしている? この臆病なだけの影が?

その時、不意に窓の外で大きな地響きが起こった。街の中心にある「影の源泉」と呼ばれる広場から、禍々しい闇の気配が立ち上るのが見えた。光喰らいが、ついにその本体を現そうとしているのだ。

リーナの影が、ひときゅう大きく揺らめいた。もう時間がない。僕は彼女の手を固く握り返した。

「待ってて、リーナ。必ず、君を助ける」

根拠のない言葉だった。だが、言わずにはいられなかった。僕は生まれて初めて、足元で震える自分の影を睨みつけ、無理やり引きずるようにして、闇の渦巻く街の中心へと走り出した。

第三章 逆転する主従

影の源泉は、絶望的な光景だった。広場の中央に、空間そのものが裂けたような漆黒の亀裂が口を開け、そこから街中の影を貪欲に吸い込んでいた。それはまさしく「光喰らい」の顕現だった。近くにいた人々の影が、悲鳴を上げる間もなく引き剥がされ、闇の中へと消えていく。

「やめろ!」

僕は叫び、なけなしの勇気を振り絞って闇に立ち向かおうとした。だが、僕の肉体は恐怖にすくみ、一歩も動けない。足元の影は、もはや形を保てないほど激しく震え、今にも千切れそうだ。やはり、僕には何もできないのか。リーナの顔が脳裏に浮かび、絶望が心を塗りつ潰した。

その、刹那だった。

信じられないことが起きた。僕の足元で震えていた影が、すっ、と自らの意思で立ち上がったのだ。それは影ではなかった。それは、紛れもない、僕自身の姿をした「肉体」だった。そして、その肉体は僕の前に立ちはだかり、震える声で、しかしはっきりと、僕に語りかけた。

「恐れるな、リヒト。お前は、光なのだから」

頭が真っ白になった。何を言っているんだ? 混乱する僕の目の前で、僕が「自分の肉体」だと思っていたこの身体が、まるで陽炎のように揺らめき始めた。そして、その内側から、温かく、それでいて目が眩むほどの、琥珀色の光が溢れ出した。

僕の肉体だと思っていたもの――それは、僕自身だった。そして、僕が「自分の影」だと思っていた臆病な存在こそが、僕の光によって生まれた「人間としての肉体」だったのだ。立場が、世界が、根底から反転した。

「俺はずっとお前に怯えていた」と、僕の肉体が言った。「お前の光はあまりに強く、あまりに眩しかった。俺は、お前の光が生み出したただの影法師に過ぎない。だから、いつも震えていた。縮こまっていた。それが、俺という人間の器の限界だったんだ」

真実の奔流が、僕の意識を打ちのめした。僕こそが、古書にあった「真なる影」。光から生まれたのではなく、自らが光の源。僕がコンプレックスに感じていた臆"病な影"は、強大すぎる光の主(僕)に寄り添う、ごく普通の、か弱い人間の反応だったのだ。

「光喰らい」が、僕という強大な光の存在に気づき、咆哮を上げた。闇が津波のように押し寄せる。

だが、僕の中にもはや恐怖はなかった。長年自分を縛り付けていた自己嫌悪の枷が、音を立てて砕け散る。僕は、僕のままでよかったのだ。

僕は初めて、僕の「肉体」に向かって微笑みかけた。

「すまなかった。ずっと、君を嫌っていて」

僕の肉体は、震えながらも、小さく首を横に振った。

「いいや。俺も、お前を理解しようとしなかった。だが、今は違う。主よ、命令を。この肉体は、お前のためにある」

「主じゃない」僕は言った。「君は僕の半身だ。僕の弱さで、僕の人間らしさだ。これからは、二人で一つだ」

僕がそう告げた瞬間、僕の身体から放たれる光が、天を衝くほどの輝きを放った。それは、破壊の光ではない。すべてを包み込み、癒し、育む、生命の光だった。

第四章 君と歩む黄昏

僕が放った琥珀色の光は、シャッテンシュタット全域を優しく包み込んだ。光喰らいの闇は、夜明けの霧のようにその光に溶かされ、跡形もなく消え去った。光は弱った影たちに降り注ぎ、剥がれかけた輪郭を修復し、失われた力を与えていった。人々は呆然と、天から降り注ぐ奇跡の光を見上げていた。

戦いは、終わった。

街には平和が戻り、人々は僕を「光の主」と呼び、英雄として称えた。だが、僕はその称号を丁重に断った。僕はただのリヒトだ。そして隣には、僕がかつて「影」と呼んでいた、大切な相棒がいる。

僕らの関係は、あの日を境にすっかり変わった。僕は、僕の光を制御することを覚えた。そして彼は、僕の光に怯えるのではなく、その光の中で自分らしくあることを選んだ。主従ではない。光と、その光に寄り添う肉体。二つで一つ、完全な存在。僕たちは、ようやく本当の意味で、自分自身になることができたのだ。

リーナの影も、すっかり元の美しさを取り戻していた。彼女は僕らの前に立つと、悪戯っぽく笑った。

「不思議な感じ。リヒトが二人いるみたい」

「そうかもね」と僕も笑う。僕の隣で、相棒が少しだけはにかんだ。彼のそんな人間らしい仕草が、僕にはたまらなく愛おしかった。

夕暮れ時、僕と相棒は、街を見下ろす丘の上を並んで歩いていた。シャッテンシュタットの家々の窓に灯りがともり、地面には人々の濃く、生き生きとした影が落ちている。

僕らの姿は、他の誰とも違っていた。僕の足元からは影が落ちない。僕自身が光だからだ。代わりに、僕の隣を歩く相棒の足元から、僕の光を受けて、くっきりとした人間の影が伸びていた。光を放つ存在と、その光によって生まれた影が、肩を並べて歩いている。それは、この世界のどこを探しても見つからない、奇妙で、そして最高に美しい光景だった。

「これから、どうするんだ?」相棒が、少しだけ震える声で尋ねた。彼の臆病さは、完全には消えていない。だが、それでいいのだ。

僕は沈みゆく夕日を見つめながら、穏やかな気持ちで答えた。

「決まっているさ。君が、僕を導いてくれ。僕は光を放つことしか知らない、不器用な存在だから。世界の歩き方を、君に教えてもらう」

僕の言葉に、相棒は息を呑んだ。そして、ゆっくりと顔を上げると、初めて心の底からの笑みを浮かべて、力強く頷いた。

夕日が僕らを照らし、地面には一つの、どこまでも長い影が伸びていた。それは二つの魂が寄り添い、ようやく一つになった証だった。僕らの物語は、まだ始まったばかりだ。

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