忘却の影と虚ろな時計
第一章 影の胎動
空には、無数の光の粒子が漂っている。人々が吐息と共に手放した感情の欠片、『想いの結晶』だ。喜びは黄金に、悲しみは藍色に、愛は薔薇色に輝きながら、街のエネルギーとなって緩やかに循環している。人々はこの光景を当たり前のものとして受け入れ、自らの記憶が世界の彩りとなっていることに、何の疑問も抱いていなかった。
カイは、そんな世界の片隅で息を潜めるように生きていた。感情を昂ぶらせることを極端に恐れていたからだ。強く心を揺さぶられると、彼の足元から影が滲み出す。それは単なる影ではない。粘性を帯びた闇が形を成し、独立した生命のように蠢き始めるのだ。
その日も、カイはカフェの窓際で、街を行き交う人々が生み出す結晶の川をぼんやりと眺めていた。ふと、広場の一角で空気が陽炎のように揺らめき、淡い光が人の形を結んだ。『記憶の残響』だ。一組の男女が、互いの手に指を絡め、幸せそうに笑い合っている。誰かが手放した、遠い日の幸福な記憶。周囲の人々は足を止め、その幻影に微笑ましげな視線を送る。
だが、カイの胸を突いたのは、温かい感情ではなかった。どうしようもない孤独感と、あの幻影の幸福ですら、いずれは薄れ、忘れられてゆくという虚無感だった。
その感情が引き金だった。
「――っ」
足元が、夜の沼のように深くなる。黒い染みがコンクリートの床に広がり、もこりと隆起したかと思うと、一匹の獣の形を取った。艶やかな体毛の代わりに揺らめく闇をまとったそれは、カイの意志とは無関係に、鋭い嗅覚で何かを探すように鼻先を震わせた。
影は動いた。ガラス窓を音もなくすり抜け、街の喧騒の中へと疾走する。
「待て……!」
カイは慌てて席を立ち、影を追う。ポケットの中で、冷たい金属の感触があった。文字盤も針も失われた、虚ろな懐中時計。それが、微かな共鳴音を立て始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。
影が目指していたのは、大通りから外れた裏路地。そこでは、空に漂う『想いの結晶』が明らかに精彩を欠いていた。色褪せ、今にも消え入りそうな光が、力なく明滅している。影は、その中でもひときわ弱々しい、乳白色の結晶の前でぴたりと足を止めた。そして、その顎を大きく開き、光の粒子を飲み込もうとした。
第二章 虚ろな音色
「やめろ!」
カイは叫び、影と結晶の間に身を滑り込ませた。それが誰の記憶なのかは知らない。だが、人の想いが、こんな風に虚無に喰われていいはずがない。カイの必死の制止に、影は苛立ったように唸り声を上げた。その黒い身体がぐにゃりと歪み、カイを払いのけようと鋭い爪の形をとる。
その瞬間だった。
キィン、と高く澄んだ音が響いた。カイが胸のポケットに手をやった拍子に、あの懐中時計が何かに反応したのだ。それは、打ち捨てられた風鈴が風に揺れるような、孤独で、悲しい音色だった。
音に打たれ、影の動きがぴたりと止まる。まるで金縛りにあったかのように硬直し、その輪郭が僅かに揺らいだ。
好機だった。カイは震える手で、色褪せた結晶にそっと触れる。指先が触れた途端、暖かな光が流れ込んできて、失われかけていた記憶の幻影がカイの脳裏に再生された。
それは、見知らぬ老婆の記憶。皺くちゃの手で、古びた編み物をそっと撫でている。窓の外では雪が降りしきり、暖炉の火だけがぱちぱちと音を立てていた。その視線の先には、空になった肘掛け椅子。
『あなた、今年も寒くなりましたよ』
声にはならない、想いだけの呟き。今は亡き夫への、穏やかで、しかし深い哀惜に満ちた想い。それは決して派手な記憶ではない。だが、確かに一人の人間が生きた証そのものだった。
カイは息を呑んだ。こんなにも静かで、尊い記憶を、なぜ影は消そうとするのか。そして、この懐中時計の音色は、なぜ影の動きを止めることができたのか。
謎は深まるばかりだった。影はなおも結晶を睨みつけていたが、時計が断続的に奏でる虚ろな音色に阻まれ、やがて不満げにその姿をカイの足元の影へと溶かして消えていった。
後に残されたのは、再び微かな光を取り戻した結晶と、胸に冷たい金属の感触を確かめながら立ち尽くすカイだけだった。この世界で、何かが静かに狂い始めている。その確信だけが、彼の心を重く支配していた。
第三章 原初の残響
結晶の消滅現象は、カイの住む街だけの話ではなかった。噂は風のように広がり、すべての異変が、世界の中心にそびえ立つ『始原の尖塔』に繋がっていることを示唆していた。そこは、世界で最初に『想いの結晶』が生まれたとされる聖地。そして、今や最も多くの結晶が色を失っている場所でもあった。
影の行動の真意を突き止めるため、カイは尖塔へと向かった。荘厳な扉を押し開けると、息を呑むような光景が広がっていた。天井の見えない巨大な空間を、無数の色褪せた結晶が、まるで銀河のように渦を巻いている。そのほとんどが光を失い、灰色の塵となってはらはらと舞い落ちていた。生命の残骸が舞う、静かな墓場のようだった。
そして、その渦の中心。巨大な台座の上に、それは鎮座していた。
黒曜石のように深く、暗い光を放つ巨大な結晶。他のどの結晶とも異なり、禍々しいほどの存在感を放っている。あれが、全ての始まり、『原初の記憶結晶』。
その瞬間、カイの足元から再び影が溢れ出した。今までとは比較にならないほどの大きさ、そして明確な意志を持って。影は咆哮を上げ、カイの制止など意にも介さず、『原初の記憶結晶』に向かって一直線に突き進む。
「させるか!」
カイは懐中時計を強く握りしめ、音を奏でた。甲高い音色が尖塔に響き渡る。だが、影の勢いは僅かに鈍るだけで、止まらない。その眼差しは、ただ一点、黒い結晶だけを見据えている。
影が結晶に触れる、その寸前。
カイは最後の力を振り絞り、影の体――揺らめく闇――に飛びついた。
指先が触れた瞬間、世界が反転した。
カイの意識は、影と、そして『原初の記憶結晶』とに同時に接続された。奔流のような情報が、彼の精神を洗い流す。それは、この世界の真実の記憶だった。
遥か昔、この世界は一度、破滅的な大災害に見舞われた。憎しみ、絶望、悲しみ――あらゆる負の感情が暴走し、世界そのものを喰い尽くしかけたのだ。僅かに生き残った人々は、二度と過ちを繰り返さぬよう、あるシステムを構築した。それが、この『想いの結晶』の世界。
『原初の記憶結晶』は、その大災害の記憶そのものだった。人々が悲劇を忘れ、穏やかに生きるために、全ての苦痛と絶望を封じ込めた巨大な記憶の牢獄。それは同時に、人々から生まれる新たな負の感情を吸収し続け、世界を安定させる安全装置でもあった。
だが、そのシステムは、とうに限界を超えていた。負の記憶を溜め込みすぎた『原初の記憶結晶』は、もはや安全装置ではなく、世界の生命力そのものを吸い上げる呪いの源泉へと変貌していたのだ。結晶の消滅は、世界の緩やかな死の兆候に他ならなかった。
そして、影。カイの影は、彼個人のものではなかった。この歪んだ世界の法則、偽りの平穏に対して、無意識下で人々が抱いていた「破壊と再生」への渇望。それらが集積し、具現化したもの。影は、病巣である『原初の記憶結晶』を破壊し、世界を呪縛から解き放とうとする、この世界自身の『免疫システム』だったのだ。
第四章 記憶の番人
幻視から解放されたカイの目の前で、影が再び『原初の記憶結晶』に手を伸ばそうとしていた。世界の真実を知った今、カイにはすべてが理解できた。影は悪ではなかった。むしろ、死にゆく世界を救おうとする、唯一の希望だったのかもしれない。
だが、その代償はあまりにも大きい。
『原初の記憶結晶』を破壊すれば、この世界を支えてきた記憶の土台がすべて崩れ去る。人々は、親を忘れ、友を忘れ、愛した記憶さえも失うだろう。すべてが白紙に戻り、誰も過去を知らない、全く新しい歴史が始まる。それは救済なのか、それとも、より大きな喪失なのか。
カイは選択を迫られていた。
このまま影を止め、偽りの平穏の中で緩やかに滅びゆく世界を見守るか。
あるいは、影と一つになり、その意志を成就させるか。
彼はポケットの懐中時計を握りしめた。それは、幼い頃に亡くした母親の形見だった。文字盤はとうに失われたが、その冷たい感触だけが、母親との微かな記憶を繋ぎとめてくれていた。この温もりさえも、失ってしまうというのか。
だが、カイは空を見上げた。舞い落ちる灰色の塵。死に行く無数の想い。これ以上、誰かの大切な記憶が、意味もなく消えていくのを見ていることはできなかった。
カイは、ゆっくりと影に向かって手を伸ばした。
「忘れることは、失うことじゃない」
彼は呟いた。
「新しい始まりなんだ」
その手は、ためらうことなく影の闇に触れた。影は驚いたようにカイを振り返り、そして、まるで長い間待ち望んでいた再会を果たすかのように、その身体をカイの中へと溶け込ませていった。一つになったカイの瞳が、静かな決意の光を宿す。
彼は『原初の記憶結晶』の前に立ち、そっとその表面に触れた。
瞬間、黒い結晶に亀裂が走り、内側から眩いほどの純白の光が溢れ出した。光は尖塔を突き抜け、空へと昇り、世界中を覆い尽くしていく。空に漂っていた色とりどりの『想いの結晶』は、その光に触れて一斉に白く染まり、そして、生まれたての雪のように静かに消えていった。
世界から、すべての記憶が消えた。
街角で、人々は呆然と立ち尽くしていた。自分が誰なのか、隣にいる人が誰なのかも分からずに。だが、その瞳に宿るのは恐怖ではなく、赤子のような無垢な好奇心だった。やがて、誰かが空を指さした。真っ新なキャンバスのようになった空を。そして、一筋の新しい光――誰かが今、初めて抱いたであろう純粋な感情の結晶――が生まれるのを見て、人々はかすかな笑みを浮かべた。
始原の尖塔の中心には、もうカイの姿はなかった。
ただ、あの虚ろだった懐中時計だけが、台座の上に静かに置かれている。
その失われたはずの文字盤の上で、新しい銀色の針が、未来を示すかのように、ゆっくりと、しかし確かに、新たな時を刻み始めていた。