第一章 灰色の心と虹色の欠片
リヒトが生きる街は、常に微かな甘い香りと、人々の溜息に満ちていた。街の動力源であり、通貨でもある「感情結晶」が燃やされる香りだ。喜びは琥珀色に輝き、暖かな光を放つ。悲しみは氷のように冷たく、静かな青色を灯す。怒りは血のように赤く、鋭利な熱を生む。人々は自らの体内で生成されるその結晶を排出し、日々の糧を得ていた。
しかし、リヒトの心は、まるで乾いた井戸のようだった。感情の波がほとんど立たない彼は、日に数粒、色褪せた灰色の結晶しか生み出せない。「無感情(アパティア)」と蔑まれ、社会の最底辺にある結晶採掘所の廃棄場で、他人が捨てた低品質の結晶を拾い集めるのが彼の仕事だった。仲間たちの腕からは、日々の労働で得た鮮やかな結晶がカチャカチャと音を立てるのに、リヒトの袋はいつも鈍い色の小石で満たされているだけ。その差が、彼の心を静かに、だが確実に蝕んでいた。
「またこれだけか、リヒト。お前の心は石炭よりも価値がないな」
監督官の嘲笑が、粉塵の舞う空気に溶ける。リヒトは何も言い返さず、ただ俯いた。反論するだけの怒りさえ、彼の内には湧いてこなかった。悔しさとはどんな色で、どんな手触りの結晶になるのだろう。そんなことばかりを考えていた。
その日も、一日の仕事を終え、夕闇が灰色煉瓦の街並みを飲み込もうとしていた時だった。リヒトは廃棄場の隅で、他の瓦礫とは明らかに違う光を見つけた。それは、油膜のように複雑な色彩を放つ、親指の先ほどの小さな欠片だった。赤、青、黄、緑…あらゆる色が混じり合い、見る角度によって虹のようにその表情を変える。これまでどんな書物でも見たことのない、奇妙で美しい結晶だった。
好奇心に駆られ、リヒトはそれをそっと拾い上げた。指先が触れた瞬間、脳を直接揺さぶられるような衝撃が走った。
──歓喜。全身が泡立つような、天にも昇る心地。知らない誰かの、結婚式の日の喜び。
──絶望。胸を抉られるような、愛する者を失った深い悲しみ。
──激情。血管が沸騰するような、裏切りに対する燃え盛る怒り。
次から次へと、名も知らぬ人々の鮮烈な感情が、奔流となってリヒトの心になだれ込んできた。彼はあまりの情報の奔流に立っていられず、その場に膝をついた。息が荒くなる。乾ききっていたはずの心が、他人の感情で無理やり満たされていく。それは恐ろしくもあり、同時に、生まれて初めて感じる強烈な「生」の感覚だった。リヒトは震える手でその虹色の欠片を握りしめ、誰にも見つからないよう、ぼろぼろの服の奥深くへと隠した。この日を境に、彼の灰色の世界は、静かに色を変え始めることになる。
第二章 借り物の感情
虹色の欠片を手に入れてから、リヒトの世界は一変した。彼は自室のベッドの上で、夜ごとそれに触れた。触れるたびに、まるで壮大な物語を読むように、他者の人生の断片が流れ込んでくる。初めて恋を知った少年の甘酸っぱいときめき。夢破れた老人の静かな諦観。我が子の誕生を喜ぶ母親の、太陽のような温かい愛情。
それらはすべて「借り物」の感情だったが、リヒトの心を豊かに潤していった。彼は、他人の喜びを追体験して笑い、他人の悲しみに触れて涙を流した。その影響は、彼の身体にも現れ始めた。朝、目覚めると枕元に、これまで見たこともない純度の高い、小さな琥珀色や瑠璃色の結晶が転がっていることがあった。微量ではあるが、それは確かな変化だった。
「リヒト、最近なんだか…変わったね」
唯一の友人であるエラが、不思議そうにリヒトの顔を覗き込んだ。彼女は花を育てるのが仕事で、その心はいつも春の日差しのように温かく、毎日たくさんの良質な「喜びの結晶」を生み出す少女だった。
「前は、いつも曇り空みたいな顔をしていたのに。今は時々、晴れ間が見えるみたい」
エラにそう言われ、リヒトの胸が微かに温かくなった。彼は自分の腕からこぼれ落ちた、小さな露草色の結晶を彼女に見せた。それは虹の欠片から流れ込んできた、誰かの「安らぎ」の感情が形になったものだった。
「すごい…こんなに綺麗な結晶、初めて見たよ」
エラは目を輝かせたが、すぐに心配そうな表情になった。
「でも、どうして急に? 何かあったの?」
リヒトは虹の欠片のことを話すべきか迷った。しかし、この不思議な力を手放したくないという独占欲が、彼の口を噤ませた。
「…少し、心持ちが変わっただけだよ」
嘘をつくと、胸の奥がチクリと痛んだ。それはおそらく、「罪悪感」という感情なのだろうと、彼はぼんやりと思った。
借り物の感情で彩られた日々は、リヒトに仮初めの幸福を与えた。彼は様々な感情を知ることで、人間らしく振る舞えるようになった。だが、心のどこかで虚しさが募っていく。これは自分の感情ではない。自分自身の心は、依然として空っぽのままではないのか。虹の欠片に触れていない時の彼は、相変わらず灰色の結晶しか生み出せないのだった。
この欠片は一体何なのか。そして、自分自身の心で、こんなにも鮮やかな感情を抱くことはできないのだろうか。疑問は日に日に大きくなり、やがて彼を危険な探求へと駆り立てることになる。
第三章 砕かれた世界の真実
虹色の欠片の正体を知りたい一心で、リヒトは街の統治院が管理する禁書庫への侵入を決意した。真夜中、衛兵の目を盗んで忍び込んだ書庫の奥深くは、埃と古紙の匂いに満ちていた。彼は朧げな月明かりを頼りに、禁忌とされる古代の文献を読み漁った。そして、一冊の古びた羊皮紙の書物の中に、衝撃的な記述を見つけてしまう。
その書物によれば、太古の世界では、人々は感情を結晶として排出などしていなかった。人の心は繋がっており、言葉を交わさずとも互いの感情を分かち合う「共感」の力を持っていたという。喜びは伝播して倍になり、悲しみは分かち合うことで軽くなった。感情は、人と人とを繋ぐための絆そのものだった。
しかし、その力を為政者たちは恐れた。民が団結し、反抗することを。そこで彼らは、世界を覆うほどの巨大な「分離の魔法」を行使した。その魔法は人々の共感の力を奪い、感情を個々の内に閉じ込めた。行き場を失った感情は、やがて物理的な「結晶」として体外に排出されるようになった。為政者たちはそれをエネルギー源や通貨として管理することで、民を支配する新たなシステムを構築したのだ。
人々が日々生み出している感情結晶は、本来分かち合うべきだった感情の、いわば「抜け殻」に過ぎなかった。そして、リヒトが見つけた虹色の欠片こそ、分離の魔法がかけられる以前の、純粋な「共感」の力が凝縮された「原初の結晶」の一部であると記されていた。その結晶は、世界にかけられた魔法を解く唯一の鍵となりうる、と。
リヒトは愕然とした。自分たちが生きる世界の、社会の根幹が、すべて偽りの上に成り立っていた。人々は感情を切り売りすることで、自ら分断され、支配されている。彼の心に、初めて自分自身の内から湧き上がる、燃えるような感情が宿った。それは借り物ではない、真実を知ったことによる強烈な「怒り」だった。その瞬間、彼の腕から、これまでになく大きく、鋭利な深紅の結晶が一つ、音を立ててこぼれ落ちた。
だが、彼が真実にたどり着いたことを、何者かが察知していた。禁書庫の扉が乱暴に開け放たれ、統治院の衛兵たちがなだれ込んできた。
「原初の結晶を持つ反逆者め! 大人しく渡せ!」
リヒトは書物を抱え、必死で逃げた。街の支配者たちは、世界の真実が暴かれることを、そして共感の力が復活することを、何よりも恐れているのだ。追っ手に追い詰められ、リヒトが路地裏で絶体絶命の窮地に陥ったその時、彼の前に一人の人影が立ちはだかった。
「リヒト、逃げて!」
エラだった。彼を心配して後をつけてきていたのだ。彼女は両腕を広げ、か弱い身体でリヒトを庇った。衛兵の一人が無情に振り下ろした棍棒が、エラの肩を強かに打つ。彼女の苦痛に満ちた叫び声と共に、おびただしい数の、氷のように冷たい青色の「悲しみの結晶」が地面に散らばった。
第四章 心が繋がる夜明け
エラの流す夥しい悲しみの結晶を見て、リヒトの時間が止まった。虹色の欠片に触れてもいないのに、エラの痛みが、恐怖が、そして彼を想う心が、自分のことのように胸に流れ込んできた。それはもう借り物ではない。乾ききっていたはずの彼の心の井戸から、初めて、他者を想う純粋な感情が溢れ出した瞬間だった。これが、共感。
「やめろ…!」
リヒトの叫びは、もはや無力な青年のそれではなかった。彼は懐から虹色の欠片を取り出した。それは彼の内なる感情の昂ぶりに呼応するかのように、激しく明滅している。書物には、この結晶が魔法を解く鍵だと書かれていた。これを使えば、世界を変えられるかもしれない。人々を支配から解放し、失われた共感の力を取り戻せるかもしれない。
しかし、彼の目に映っているのは、世界ではない。傷つき、苦痛に顔を歪めるエラの姿だけだった。世界を救う? 支配からの解放? そんな大義名分は、今、目の前で苦しむたった一人を救うことの前では、あまりに空虚に響いた。彼が本当に望むのは、世界の変革ではない。ただ、エラの痛みを和らげ、彼女の笑顔を取り戻したい。その想いが、彼のすべてだった。
リヒトは虹色の欠片を胸に強く抱きしめ、瞳を閉じた。そして、世界のためではなく、ただ一人、エラのためだけに祈った。
(どうか、彼女の痛みが和らぎますように。僕の心が、彼女に届きますように)
彼自身の内から生まれた、初めての純粋で強大な想いが、虹色の欠片へと注ぎ込まれていく。その瞬間、欠片は彼の胸で目も眩むほどの光を放ち、甲高い音を立てて砕け散った。
無数の光の粒子が、リヒトとエラを中心に、夜の街へと舞い上がっていく。それはまるで、静かな雪のようだった。光は街全体に降り注ぎ、眠りについていた人々の心をそっと撫でて、やがて消えていった。
衛兵たちはその神秘的な光景に圧倒され、立ち尽くしている。
劇的な変化は起こらなかった。「分離の魔法」が完全に解けたわけではなかった。人々は翌朝も、いつも通り感情結晶を生み出し、いつも通りの日常を送るだろう。
だが、世界には、ほんの僅かな、しかし決定的な変化が訪れていた。
衛兵の一人が、倒れているエラを見て、胸に微かな痛みを感じた。街角ですれ違う人々が、ふとした瞬間に、見知らぬ誰かの温かい感情を感じて、理由もなく微笑んだ。失われた共感の絆が、細い糸のように、再び人々の間に結ばれ始めたのだ。
リヒトは、もう特別な結晶を生み出すことはなくなった。虹色の欠片も失った。しかし、彼の心は、かつてないほど満たされていた。彼はそっとエラの手を握った。結晶を介さずとも、その手の温もりから、彼女の安堵と、自分への想いが直接伝わってきた。
「…リヒト」
意識を取り戻したエラが、彼の名を呼ぶ。
「うん」
リヒトは、ただ頷いた。彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは透明で、どんな色も持たなかったが、彼の腕からは、暖かな光を放つ、一粒の美しい琥珀色の結晶が静かにこぼれ落ちた。それは、彼自身の心から生まれた、本物の「喜び」の結晶だった。
壮大な革命ではない。だが、それは確かに、人々が心で繋がり合う世界の、静かな夜明けだった。