残響の管理者
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残響の管理者

第一章 瓦礫に触れる手

レオの指先が、ねじ曲がった鉄骨の冷たさに触れた。錆の匂いが、硝煙の記憶を纏って鼻腔を刺す。ここは三度目の停戦協定が結ばれる直前まで、激戦区だった場所だ。今はただ、沈黙と瓦礫が支配している。

指を這わせると、網膜の裏側で火花が散った。幻影だ。

彼の特異な能力。破壊された物質の残骸に宿る、『そうならなかった可能性』の残響を視る力。

視界が白く染まり、耳鳴りと共に情景が流れ込んでくる。鉄骨はまだ天を突く塔の一部で、ガラス窓には夕陽が燃えていた。階下の広場では子供たちが笑い声を上げ、母親がその名を呼んでいる。平和という、ありふれた奇跡の光景。鐘の音が遠くで鳴り響き、街全体を祝福しているかのようだった。

だが、幻影は一瞬で霧散する。

現実に戻ったレオの目には、灰色の空と瓦礫の山しか映らない。そして、また一つ、彼の内側から何かが引き抜かれていく感覚。未来を夢見る力、明日を信じる心。そんな温かい感情の欠片が、能力の代償として剥がれ落ちていく。彼はゆっくりと立ち上がり、その瞳には何の感慨も浮かんでいなかった。ただ、事実を確認するように呟く。

「ここにも、平和はあったのか」

その声は、乾いた風に溶けて消えた。

第二章 壊れた砂時計

軍の駐屯地に戻ると、喧騒が彼を迎えた。兵士たちの顔には疲労と、それでも消えない微かな希望が浮かんでいる。停戦が続けば、故郷に帰れるかもしれない。そんな囁きが聞こえてくる。

「レオ、見ろよ。司令部から新しい食糧が届いた。本物のコーヒーだ」

同僚のマルクが、湯気の立つマグカップを差し出す。その香りも、レオの心を動かすことはない。彼はただ無表情に受け取り、一口飲む。熱い液体が喉を焼くだけだ。

「今回の調査で、面白いものを見つけた」

レオは懐から、歪な形をしたガラスの小瓶を取り出した。それは、半分に割れ、無理やり接合されたかのような砂時計だった。中の砂は鈍い銀色に輝き、信じられないほどゆっくりと落ちていく。戦場で拾った遺物だ。

「なんだ、そりゃ。ガラクタじゃないか」マルクが笑う。

レオは答えず、砂時計を握りしめた。その瞬間、彼の意識は再び引きずり込まれた。今度の幻影は、今までのものとは比較にならないほど鮮明で、暴力的だった。

無数の砲弾が空を裂く音。怒号と悲鳴。血と泥の匂い。それは単なる可能性の残響ではない。幾千もの戦いの記憶が凝縮された、『対立』そのもののエネルギーの奔流だった。そして、その奔流の先に、彼は垣間見た。いくつもの分岐する未来の断片を。

砂時計を持つ手が、微かに震えていた。これはただの遺物ではない。世界の法則に干渉する、禁忌の道具だ。

第三章 平和という名の災害

その日から、レオは壊れた砂時計に魅入られたように、その力を使った。砂が一つぶ落ちるたび、彼は異なる戦場の、異なる結末の可能性を視た。ある幻影では、彼の所属する「秩序」側が完全勝利を収める。だがその直後、大地は根源的なバランスを失ったかのように裂け、空から黒い雨が降り注ぎ、人々は未知の病に倒れていった。

また別の幻影では、敵対する「混沌」側が勝利する。すると今度は、物理法則が捻じ曲がり、時間は不規則に流れ、人々は狂気のうちに互いを喰らい始めた。

最もレオを戦慄させたのは、完全な和平が成立した可能性の幻影だった。

両軍の代表が握手を交わし、兵士たちは武器を捨てて抱き合う。長きにわたる対立の終焉。誰もが涙を流して喜ぶ、理想の世界。しかし、その歓喜が頂点に達した瞬間、世界は悲鳴を上げた。

光から影が消え、音から反響が失われ、熱から冷たさが奪われる。あらゆる『対いなるもの』がその意味を失い、世界の輪郭が曖昧になっていく。停戦協定がもたらしてきた災害の正体は、これだったのだ。不完全な平和ですら、世界はその均衡を崩す。では、完全な平和が訪れたなら、一体何が起こるのか。

レオの心から、希望という感情はとうの昔に消え失せていた。代わりに根付いたのは、真実を知らねばならないという、冷たい義務感だけだった。

第四章 始まりの戦場へ

「どこへ行くんだ、レオ」

マルクが引き留めるが、レオは振り返らなかった。彼の瞳は、かつて仲間たちが「ガラス玉のようだ」と評した色を、さらに失っていた。まるで、世界の深淵を覗き込んだかのように、虚ろで、どこまでも深い。

彼の足は、戦争の発端となったとされる「始まりの戦場」へと向かっていた。何世代にもわたるこの愚かな対立が、どこで、どのようにして生まれたのか。その核心に触れれば、このループを断ち切る鍵が見つかるかもしれない。

壊れた砂時計の銀色の砂は、もう残り僅かだった。

レオは分かっていた。この砂が全て落ち切った時、彼自身の存在もまた、時間の流れから解き放たれることを。彼はそれを恐れなかった。感情を失った心には、恐怖すら宿る場所はなかった。

荒涼とした大地が広がる。ここが、最初の英雄と最初の反逆者が剣を交えた場所。秩序と混沌、光と闇。この世界を構成する全ての対立が、ここから始まった。レオは戦場の中央に膝をつき、最後の一粒が落ちるのを待った。

第五章 溶解する世界

砂時計を逆さにし、最後の一粒がくびれを通過する。

世界が、止まった。

レオの意識は肉体を離れ、時間と空間を超越した視点へと引き上げられる。そして彼は視た。究極の可能性を。

『真の平和が訪れた世界』を。

そこには、もはや敵も味方もなかった。全ての対立エネルギーは消滅し、世界は完璧な調和に満たされていた。人々は穏やかな表情で空を見上げ、微笑み合っている。それは、誰もが夢見た理想郷のはずだった。

だが、次の瞬間。

変化は静かに始まった。人々の輪郭が、風景に滲むようにぼやけ始める。光と影の対比が失われ、世界は均一な灰色の濃淡に変わっていく。確固たる形を持っていた建物が、まるで水彩画のように溶け出し、大地と空の境界線が消えていく。

音もない。匂いもない。熱もない。生もなければ、死もない。

対立の拮抗によって成り立っていた物理法則が崩壊し、存在そのものが意味を失っていく。人々は恐怖も苦痛も感じない。ただ、穏やかな表情のまま、概念のスープの中へと還元されていく。それは救いなどではない。無への回帰。完全なる消滅だった。

レオは悟った。戦争こそが、この世界を『存在』させている唯一の楔だったのだ。平和を求める祈りこそが、世界を崩壊させる呪いだった。

第六章 管理者の決意

幻影が砕け散り、レオは「始まりの戦場」へと意識を戻した。手の中の砂時計は、音もなく砂塵となって崩れ落ちた。彼の身体はそこにあったが、その存在はもはや、この世界の時間の流れから僅かに逸脱していた。過去と未来の残響が、彼の視界に常に重なって見える。

絶望はなかった。悲嘆もなかった。

感情を食い尽くされた彼の魂に残っていたのは、氷のように冷徹な、一つの結論だけだった。

「世界を終わらせないために、対立を終わらせてはならない」

彼は、この狂った世界の真理を知ってしまった唯一の人間となった。ならば、彼がすべきことは一つしかない。英雄になることではない。救世主を演じることでもない。

彼は、この終わらない戦争の、永遠の『管理者』となることを選んだ。

どちらの勢力も完全に勝利せず、かといって完全な和平にも至らないように。戦局を影から操り、対立の炎が消えぬよう、しかし世界を焼き尽くさぬよう、その火力を調整し続ける。それは、誰からも感謝されることのない、無限の孤独。

第七章 霧の中の残響

それから、どれほどの時が流れただろうか。

世界の戦争は、依然として続いていた。兵士たちは世代を重ね、なぜ戦うのかという理由すら忘れかけていた。それでも戦いは終わらない。まるで、見えざる何者かの手によって、絶妙な均衡が保たれているかのように。

時折、兵士たちの間で奇妙な噂が囁かれる。

霧の深い朝、戦場の境界線に、表情のない一人の男が佇んでいることがある、と。彼はどちらの軍服も着ておらず、ただ静かに戦況を見つめている。彼に気づいて声をかけようとすると、まるで陽炎のように姿を消してしまうのだという。

その男が、かつてレオと呼ばれた存在であると知る者は誰もいない。

彼はもう、喜びも悲しみも感じることはない。かつて愛した人々の顔も、守りたかった平和の温もりも、とうに忘れてしまった。

ただ、時折、風が瓦礫を撫でる音を聞くと、彼の虚ろな瞳の奥に、遠い昔に聞いた鐘の音の残響が、一瞬だけ揺らめくような気がした。それこそが、彼がこの世界を存在させ続ける、唯一の理由なのかもしれない。


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