欠けたパズルの色

欠けたパズルの色

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第一章 色褪せた夏の日々

夏の終わりを告げるような、まだ肌を焦がす日差しが、美術準備室の窓から差し込んでいた。汗と絵の具の匂いが混じり合う独特の空間で、私たちは最後の夏期合宿を終えようとしていた。キャンバスに描かれた未完成の風景画を前に、私はぼんやりと友人の会話に耳を傾けていた。高校二年、美術部の私、アオイにとって、筆を握ることだけが唯一、世界と繋がる手段だった。だが、その日、私の世界は、まるでキャンバスにぽっかりと穴が開いたかのように揺らぎ始めた。

「去年の合宿も、最高だったよな!」ハルが、隣に座るリョョ先輩の肩を叩いて笑った。ハルは幼馴染で、いつも太陽のように明るい。そんな彼女の声に、美術部のメンバー全員が頷いた。「うん、あの廃校の校庭に、みんなで巨大な肖像画を描いたの、本当に楽しかった!」別の部員が興奮気味に付け加える。リョウ先輩も、普段は寡黙な人だが、珍しく口元に笑みを浮かべていた。「まさか、あんな無謀なこと、よくやったよな」と、記憶を辿るように呟く。

その瞬間、私の心臓が不規則に跳ねた。巨大な肖像画。廃校の校庭。みんなで描いた、最高の思い出。彼らが語る情景は、あまりにも鮮やかで、まるで映画の一シーンのように私の脳裏に広がっていく。だが、私はその絵を描いた記憶が、全くなかった。ゼロだ。まるで自分だけ、その日、その場所に存在していなかったかのように。

「アオイも覚えてるだろ? あの時、お前が最初に筆を入れたんだぞ」ハルが私に顔を向けた。彼女の瞳は、疑いのない純粋な輝きを宿している。「アオイの描く線は、いつも魂がこもってるから、みんなで感動したんだ」他の部員も口々に、私がその場にいたことを確認するように言った。彼らの言葉は、私にとっては現実離れした物語のようだった。私の中に、その記憶は存在しない。けれど、彼らは確かに、私がそこにいたと信じている。

混乱が、胸の奥で渦巻いた。なぜ、私だけが、この鮮やかな「共通の記憶」を持っていないのだろう? 私は、あの夏、どこにいた? 何をしていた? 自分自身が信じられなくなるような、底知れない不安が、私を包み込んだ。それは、まるで私の人生というパズルに、大きな、そして決定的なピースが欠けていることを知らされたような、そんな衝撃だった。

第二章 記憶の影を追って

合宿が終わり、新学期が始まっても、私の心にはあの「欠けた記憶」が重くのしかかっていた。友人たちが何気なく口にする過去の出来事の中に、私だけが知らない「共通の思い出」が混じっているのではないか、という疑念が、常に私の心をざわつかせた。私は、絵を描くことさえも、どこか集中できないでいた。

ある日の放課後、私は意を決してハルに尋ねてみた。「ねぇ、去年の夏に廃校で描いた絵のことなんだけど……どんな絵だったか、詳しく教えてくれない?」

ハルは不思議そうな顔をした。「え? 何だ急に。覚えてないのかよ、アオイが一番こだわってたじゃないか。あの肖像画、みんなの顔を描いたんだよ。アオイが最初に描いたのは、リョウ先輩の顔だったっけ?」

ハルの言葉は、私にとってますます深まる謎だった。リョウ先輩の顔。私が最初に筆を入れた。どれもこれも、私の知る自分とはかけ離れた事実。しかし、ハルの表情は一切の嘘偽りを含んでいない。彼女は本当に、私がその記憶を共有していると信じているのだ。

私は、失われた記憶を呼び起こそうと、あの日の絵を想像しながらスケッチブックに筆を走らせてみた。だが、何度試みても、具体的なイメージが湧かない。ただ、真っ白なキャンバスが、私の中の空白を嘲笑うかのように広がっているだけだった。

そんな私を、美術準備室でリョウ先輩が見かけた。彼は私のスケッチブックを覗き込み、静かに言った。「何か、描きたいものが見つからないのか?」

私が小さく頷くと、彼は自分の古いスケッチブックを広げた。そこには、確かに、彼らが語っていた「巨大な肖像画」の一部が描かれていた。それは、若き日のリョウ先輩の、凛とした横顔だった。そして、その絵の隅には、私自身の筆跡としか思えない、力強くも繊細な線のデッサンがあった。「これ……」と私が呟くと、リョウ先輩は言った。「去年の夏、お前が描いたものだ。お前の絵は、いつも魂が宿っている。だから、俺はこれを見返すたびに、あの夏を思い出すんだ」

しかし、その絵を見ても、私の心には何の感情も湧き上がらなかった。自分の絵だというのに、まるで他人の作品を見ているような感覚。魂が宿っている、とリョウ先輩は言うが、私の魂はどこに迷い込んでいるのだろう。

私は、どうしても真相が知りたくて、一人、あの廃校になった小学校を訪れた。フェンスを乗り越え、荒れ果てた校庭に足を踏み入れると、雑草の間に、微かに、しかし確かに、薄く色褪せた絵の痕跡が見えた。それは、かつて巨大な肖像画が描かれた場所の、残り香のようなものだった。風が、砂塵を巻き上げながら、何かを語りかけるように私の頬を撫でていく。この場所で、私は何を「忘れて」しまったのだろう。

第三章 真実のパレット

文化祭の季節が近づき、美術部では巨大な壁画の制作が始まった。私は、メインの壁画の担当を任された。テーマは「記憶」。しかし、私自身の記憶がこれほどまでに曖昧である以上、そのテーマに向き合うことは、まるで自分自身を剥き出しにされるような痛みを感じさせた。私は、ハルや他の友人たちと過ごす時間の中で、失われた記憶への焦燥感と、彼らが本当に私を理解しているのかという疑念の間で揺れ動いていた。

ある日の休憩中、ハルがふと、ぼんやりと呟いた。「そういえばさ、あの廃校の時、アオイがすごく落ち込んでて、みんなで励ましたんだよね。あれも懐かしいなぁ」

私が「何について落ち込んでたの?」と尋ねると、ハルは一瞬、言葉を詰まらせた。「え、あー、それは……なんていうか、アオイの、その……ちょっとしたことだよ!気にしなくていいって!」ハルは明らかに動揺し、話題を変えようとした。その不自然な反応に、私の胸のざわつきはますます大きくなった。友人たちの「優しい嘘」のようなものが、私を取り巻いているのではないか。そう考えると、怖くて、同時に、深い悲しみが込み上げてきた。

その日の放課後、リョウ先輩が私を呼び出した。美術準備室には、私たち二人きり。彼は静かに、しかし決意を秘めた目で私を見つめた。「アオイ、去年の夏のこと……お前が思い出せないことについて、話がある」

彼の言葉に、私の心臓が大きく鳴った。私は固唾を飲んで、彼の言葉を待った。

「あの夏、お前は大切なコンクールで落選した。アオイが心血を注いで描いた絵が、認められなかった。お前は深く傷つき、もう二度と絵なんて描きたくない、とまで言っていた」

私は息を呑んだ。確かに、その記憶は私の心の奥底に、黒い塊のように沈んでいる。それは、あまりにも辛くて、思い出したくない過去の傷として、私の中で封印されていたものだった。

「だから、みんなで考えたんだ。もう一度、アオイに絵を描く楽しさを思い出してほしくて。廃校の校庭で、お前がコンクールに出したはずの絵を、みんなで巨大な肖像画として描き直そうって」リョウ先輩の声は、一つ一つの言葉に重みがあった。「でも、アオイは、絵筆を握ることを拒んだ。あの場所に、お前は確かにいた。けれど、ほとんど絵には関わらなかった」

私の中で、バラバラだった記憶のピースが、一つに繋がっていく。あの日の空白、友人たちの曖昧な言葉、そしてハルが言った「アオイがすごく落ち込んでた」という言葉の真意。

「みんなは、アオイの心が壊れてしまうんじゃないかって、すごく心配したんだ。だから、アオイを傷つけたくなくて、『みんなで一緒に描いた最高の思い出』として、記憶を上書きしようとした。アオイが、あの辛い事実を思い出さないように。そして、いつかまた、絵を描くことを好きになってくれるように、と」

リョウ先輩は、私の手元にあったスケッチブックを指差した。「そして、あの時、お前が本当に描いたのは、その肖像画の隅に、小さく、けれど力強く描かれた、このデッサンだ。自分自身を鼓舞するように、そして、まだ諦めていないことを示すかのように……」

そのデッサンは、私がリョウ先輩のスケッチブックで見た、あの魂のこもった小さな絵だった。それは、私自身が、絶望の中で、それでも絵を描くことへの未練を捨てきれずにいた、あの日の私の「本心」だったのだ。

私は衝撃を受けた。友人たちの優しい嘘。その優しさが、同時に私の記憶の空白を生み出し、真実から私を遠ざけていた。自分の挫折から目を背け、その記憶を都合よく消し去ろうとしていた自分自身。けれど、同時に、友人たちの深い愛情と、私への信頼を知り、私の心は震えた。あの日の私は、決して一人ではなかったのだ。

第四章 再誕の色

真実を知ったアオイは、壁画の制作に行き詰まった。これまでの「記憶」というテーマは、もはや私にとって、向き合うべき過去ではなく、乗り越えるべき現在へと変化していた。キャンバスに向かっても、どんな色を乗せればいいのか分からない。失われた記憶と、そこに隠された友人たちの優しさ、そして自分自身の弱さ。これらをどう表現すればいいのか。

ハルが、私の描けない姿を見て心配そうに尋ねてきた。「アオイ、どうかしたの? 描けないなら、手伝うよ」

私は、ハルに、あの日の記憶がないこと、そしてリョウ先輩から真実を聞いたことを、正直に打ち明けた。私の言葉に、ハルは涙を流した。「ごめんね、アオイ。辛い思いをさせたくなくて、みんなで、あの日のことを、楽しい思い出として話してたんだ。それが、アオイを苦しめるなんて…本当に、ごめん」

ハルの震える声を聞き、私もまた涙が止まらなかった。私たちは、互いの胸の内を晒し合い、涙を流すことで、新たな深い絆を築いた。

そして、私の手元にある、あの小さなデッサン。コンクールで挫折した私自身が、それでも諦めずに描いた、一枚のスケッチ。それは、失われた記憶の中の、確かな「私」の証だった。この小さな絵が、私に新たなインスピレーションを与えた。

私は、壁画のテーマを「記憶の再生」へと変える決意をした。失われた記憶、塗りつぶされた記憶、そして、真実を知った上で再構築される、新しい記憶。

完成した壁画は、去年の肖像画をベースにしつつも、そこに過去の影と、現在の光が複雑に交錯するような、鮮やかな色彩が加わったものになった。そこには、挫折と再生、絶望と希望、そして何よりも、友人たちとの揺るぎない絆が象徴的に描かれていた。それは、失われた記憶の上に、新しい真実の記憶を重ねる行為だった。私の絵は、以前よりもさらに力強く、そして優しさに満ちたものに変化していた。

第五章 未来を描くキャンバス

文化祭当日。私たちは完成した壁画を、来場者にお披露目した。壁画の前には、多くの人々が足を止め、その力強いメッセージと鮮やかな色彩に感動していた。私の心は、誇らしさと、そして一抹の切なさで満たされていた。

私は、リョウ先輩に、あの小さなデッサンを渡した。「あの日の私から、今の私へのバトンです」と。リョウ先輩は、私の手からデッサンを受け取ると、静かに微笑んだ。その眼差しは、私の成長を祝福しているかのようだった。

もう、過去の私はそこにいない。記憶の空白を抱えながらも、それを乗り越え、自分自身の力で未来を描く決意を固めた今の私がいる。友人たちの優しい嘘は、私の心を一時的に守ってくれたけれど、その真実を知ることで、私は本当の意味で強くなれた。私の絵は、以前よりもさらに力強く、そして優しさに満ちたものに変化していた。

文化祭の喧騒が終わりを告げ、夕焼けが校舎の窓を赤く染め上げていた。私は、ハルやリョウ先輩と共に、屋上へと続く階段を上った。ひんやりとした風が、火照った頬を撫でる。眼下には、オレンジ色に染まる街が広がっていた。

私の心には、失われた記憶の切なさも、友人たちとの絆の温かさも、そして未来への希望も、全てが混じり合った、複雑で美しい色が広がっている。それは、一つの色では表現しきれない、私の青春そのものの色だった。

私は新しいスケッチブックを開き、まっさらなページに最初の線を引いた。それは、もう誰の記憶にも左右されない、私自身の未来を描く、確かな一歩だった。

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