サイレント・ビートの残響
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サイレント・ビートの残響

第一章 沈黙のプレリュード

この世界では、心臓が言葉よりも雄弁に語る。

僕、宮沢雪(みやざわ ゆき)が生きるこの世界では、十代の限られた季節だけ、僕らは互いの心臓の音を聴き、感情の波長を共有する。「青春の共鳴」と呼ばれる、儚くも美しい奇跡。喜びは弾むようなアレグロに、悲しみは胸を締めつけるラルゴに。僕らは音を通じて繋がり、互いを理解してきた。

そのはずだった。

「よう、ユキ」

廊下ですれ違ったカイトが、片手を軽く上げた。彼の唇は笑みの形を作っているのに、僕の耳には何も届かない。彼の胸からは、かつて僕を励ましてくれた、力強い夏の雷鳴のような鼓動が完全に消え失せていた。

最近、街に広がる奇妙な病。「沈黙の現象」。多くの若者たちの心臓が、ある日突然、他者に対して音を閉ざしてしまう。カイトもまた、「沈黙の者」になった一人だった。

医者は成長の一過程だと言い、大人たちは気にするなと笑う。でも、僕には聞こえていた。沈黙の奥底で、かろうじて響く異質な音。それは、ガラスの破片が擦れ合うような、耳障りで、それでいて悲痛な響き。僕はそれを「偽りの音」と呼んでいた。

カイトが通り過ぎた後も、その軋むような残響が鼓膜にこびりついて離れない。彼の笑顔の裏で、一体何がそんな音を立てているのだろう。僕は唇を噛みしめた。降り始めたばかりの五月雨が、窓ガラスを静かに叩く。その冷たいリズムだけが、沈黙に満ちた僕の世界の、唯一の確かな音のように思えた。

第二章 共鳴の小箱

祖母の遺品を整理していた週末、僕はそれを見つけた。手のひらに収まるほどの、黒ずんだ木製の小箱。蓋を開けると、ベルベットの布地に埋め込まれた小さな水晶が、埃の中で鈍い光を放っていた。箱書きには掠れた文字で『共鳴の小箱』とだけ記されている。

言い伝えでは、僕らの祖先はこれを使って、より深く、より繊細に心臓の音を聴き分けていたという。古めかしい迷信。そう思いながらも、僕はなぜかその箱に強く惹きつけられ、学校へ持って行った。

昼休み、中庭のベンチで一人、本を読んでいたカイトの背中を見つける。彼の周囲だけ、空気が薄いように感じる。僕は息を殺して近づき、ポケットの中でそっと小箱の蓋を開けた。

瞬間、世界が変わった。

カイトから聞こえていた微かな「偽りの音」が、頭蓋の内側で嵐のように増幅される。ガラスの軋み、金属の摩擦音、そして、抑え殺したような嗚咽。それは単なる音ではなかった。箱の中の水晶が、激しく明滅を始めたのだ。青白い光が箱の隙間から漏れ、僕の目の前に、オーロラのような光の波を映し出した。

波の中には、断片的な映像が浮かんでいた。折れた絵筆。破られた楽譜。涙に濡れたユニフォーム。それは、カイトが諦めてきた夢の残骸だった。彼の沈黙は、無感情なのではない。あまりにも多くの感情を、その奥底に無理やり押し殺した結果だったのだ。

「……っ」

胸が苦しくなり、僕はたまらず箱を閉じた。光は消え、偽りの音もまた、か細い響きに戻る。振り返ったカイトが、怪訝そうな顔で僕を見ていた。

「どうした、ユキ。顔色悪いぞ」

「……なんでもない」

僕は嘘をついた。彼の心臓は沈黙しているのではない。声にならない悲鳴を上げているのだ。そしてこの小箱は、その悲鳴を僕にだけ「見せる」ための鍵だった。

第三章 偽りの音の正体

僕は、他の「沈黙の者たち」にも、密かに小箱をかざしてみた。全国大会を前に怪我で陸上部を辞めた少女。コンクールで大失敗し、ピアノに触れなくなった少年。彼らからもまた、カイトと同じように、激しい痛みを伴う「偽りの音」と、挫折の記憶を映す光の波が見えた。

沈黙は、強い痛みや絶望を経験した者に集中して現れている。これは偶然じゃない。

放課後の図書室。僕は古い文献の山に埋もれ、「青春の共鳴」の起源を探っていた。静寂を支配するのは、紙の乾いた匂いと、年配の司書・アキラさんが時折立てる、本のページをめくる微かな音だけだ。

「何か、お探し?」

不意に背後から声をかけられ、僕は肩を揺らした。アキラさんは、穏やかな笑みを浮かべて僕の手元を覗き込んでいる。

「『共鳴』の歴史に興味があるなんて、珍しいわね」

「あの……沈黙の現象について、何か知らないかと思って」

僕の言葉に、アキラさんの目の奥の光が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。彼女は書架から一冊の分厚い本を取り出し、僕の隣に腰を下ろす。

「ねえ、宮沢くん。もし、愛する人を深い悲しみから守れるとしたら、あなたならどうする?」

唐突な問いだった。

「守れるなら……守りたいです」

「たとえ、そのためにその人の大切なものを、一時的に奪うことになったとしても?」

アキラさんの声は、静かな湖面に小石を投げ込むように、僕の心に波紋を広げた。彼女は僕の目を見つめて、そっと囁く。

「痛みから目を逸らして、本当の繋がりは得られるのかしら。偽りの平穏は、時に本物の孤独よりも残酷よ」

その言葉は、僕が聴き続けてきた「偽りの音」の正体を、暗に示しているようだった。

第四章 未来からの守護者

アキラさんの言葉が、頭から離れない。偽りの平穏。奪われた大切なもの。僕は一つの仮説に行き着き、翌日、再び図書室のアキラさんを訪ねた。

「沈黙の現象は、誰かが意図的に起こしているんですね」

僕の単刀直入な問いに、彼女は驚くでもなく、静かに本を閉じた。観念したような、それでいてどこか悲しげな表情だった。

「私たちは、あなたたちを守りたかったの」

アキラさんは語り始めた。彼女は、この時代の人間ではないこと。はるか未来から来た「観測者」であり、「守護者」であること。彼らの時代では、「青春の共鳴」がもたらす過剰な痛みや絶望が、多くの若者の未来を蝕み、深刻な社会問題となっていた。あまりに繊細すぎるがゆえに、共鳴は時に、心を壊す刃にもなるのだと。

「だから私たちは、歴史に介入することにした。特定の才能を持ち、それゆえに強い挫折を経験する可能性の高い子たちの共鳴を、一時的に遮断するシステムを開発したの。それが『沈黙の現象』の正体。痛みを感じる前に、その源である共鳴能力を、そっと眠らせてあげる。それが私たちの……優しさのつもりだった」

全身から血の気が引いていくのがわかった。良かれと思っての行為。しかし、それはあまりにも傲慢な介入だった。

「じゃあ、僕が聞いている『偽りの音』は……」

「システムでも遮断しきれなかった、心の叫びよ」

アキラさんは、僕の持つ『共鳴の小箱』に目をやった。

「その小箱は、本来の設計とは違う使い方をされているようね。遮断された音の、歪んだ残響だけを拾い上げるなんて……。そして、あなただけがそれを聴き取れる。それはきっと、あなたが痛みごと相手を受け入れようとする、類稀な共鳴の持ち主だからだわ」

守るための沈黙。しかし、その沈黙の中で、カイトたちは孤独に悲鳴を上げていた。痛みから守るという名の、感情の牢獄。そんなものは、優しさなんかじゃない。

第五章 心臓よ、もう一度謳え

僕は走り出していた。向かう先は、カイトがいるであろう美術室。ポケットの中の小箱を、強く握りしめる。痛みも、絶望も、それらすべてがカイトの一部なんだ。それを無視して、本当の彼と繋がれるはずがない。

夕陽が差し込む美術室で、カイトは描きかけのキャンバスの前に、ただ一人座っていた。彼の背中からは、今までで最も激しい「偽りの音」が響いてくる。ガラスの軋む音が、今にも砕け散りそうに悲鳴を上げていた。

「カイト!」

僕の声に、彼の肩が震える。ゆっくりと振り返った彼の瞳は、何の光も宿していなかった。

「……ユキか。悪い、今日はもう、誰の音も聴きたくない」

「違う! 僕は聴きたいんだ! カイトの、本当の音を!」

僕は彼の前に立ち、胸の高さに『共鳴の小箱』を掲げた。そして、自分のすべての意識を、僕自身の心臓の鼓動に集中させる。

トクン、トクン、トクン――。

僕の心臓が、カイトへの想いを乗せて力強く脈打つ。悲しまないでくれ。一人で抱え込まないでくれ。君の痛みを、僕にも少しだけ、分けてくれ。

小箱の中の水晶が、僕の心音に共鳴し、まばゆいほどの光を放った。それは、未来からの干渉システムに対する、僕からの渾身の呼びかけだった。偽りの沈黙を突き破る、本物の共鳴の叫びだった。

光が美術室を満たした瞬間、ガラスが割れるような甲高い音が響き渡り――そして、静寂が訪れた。

いや、違う。

静寂じゃない。僕の耳に、嵐の後の静かな海のような、深く、そして力強い心音が流れ込んできた。カイトの音だ。そこには、夢破れた悲しみも、もどかしさも、焦りも、すべてが混ざり合っていた。でも、その音の芯には、確かな生命の熱が宿っていた。

「……聞こえるのか、俺の音が」

カイトの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「ああ。ひどく不器用で、めちゃくちゃで……だけど、最高に美しい音だ」

僕がそう言うと、カイトは泣きながら、少しだけ笑った。

街のあちこちで、堰を切ったように心臓の音が溢れ出す。それは、痛みと喜びが混ざり合った、不協和音だらけのオーケストラ。でも、これこそが僕らの「青春」だった。

アキラさんたちの優しさは、きっと間違いではなかったのだろう。でも、僕らは傷つくことを選ぶ。痛みを分かち合うことを選ぶ。不完全に共鳴し合いながら、それでも手を繋いで生きていく。

僕だけが聴こえていた「偽りの音」。それは、遮断された世界でただ一筋、本物の繋がりを求め続けた魂の道しるべだったのだ。夕陽に照らされたカイトの心音を聴きながら、僕はこれから始まるであろう、本当の意味での青春の響きに、静かに耳を澄ませていた。

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